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MUSEO NACIONAL DE ARQUEOLOGÍA Y ETNOLOGÍA

     グアテマラ国立考古学民俗学博物館 の石造物
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   (Entrada del Museo)

グアテマラの考古学民俗学博物館、マヤファン必見の博物館です。 メキシコの人類学博物館はオルメカ、テオティウアカンから始まってトルテカ、メシーカ(アステカ)まで数々の文明を網羅しますが、 古典期マヤ中心地グアテマラでは博物館の展示もマヤ一色。

彩色土器やヒスイ製品など素晴らしい展示物が数多くあり、石碑などの石造記念物の展示も豊富です。 石造物は風化、盗難を避ける為に博物館に 集められ、アクセスの悪い遺跡からの石碑もあり、以下 展示されている石造物をまとめてみました。

(訪問日 2010年11月18日) 画像

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 (Galerías de monumentos líticos)

博物館中央にある円形の中庭を取り囲むように石造物が配され、さながら石碑の回廊と言った感じです。 広いのでそれ程 沢山あるようには見えませんが、マヤに関してはメキシコ人類学博物館の倍以上の石造物があります。

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 (Altar de Puerto Barrios, decomisado en Puerto Barrios en 1986)

最初にこの見事な祭壇から。 プエルト・バリオスの祭壇と聞きなれない遺跡の名前があります。 それもその筈、プエルト・バリオスは遺跡では なく、モタグア川がカリブ海に注ぎこむところにある港町。 そこでこの祭壇が 1986年に押収されたそうです。 つまり国外へ密売される直前だった!

ドス・ピラスの石碑のように盗掘者によって細切れにされてしまった石碑もあります。 石灰岩製の石碑は遺跡に置いておくと風化してしまう恐れが ある他に、こうした破壊、略奪の危険性もあり、博物館に移す必要性がある訳です。

プエルト・バリオスの祭壇には8列にわたり神聖文字が刻まれ、カラコル に 代表される「巨大なアハウ」の祭壇の形を取りますが、出所不明。 746年(9.15.15.0.0.)の日付と共に独自の紋章文字を持つ王の名が記されて いますが、解明されていない紋章文字の為に出所が特定できず、まだ知られていない遺跡の可能性もあるそうです。 盗掘・密売で歴史が 隠されてしまうのは残念です。


  カミナルフユ                 タカリク・アバフ

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 (Esltela 11 de Kaminaljuyú)    (El Cargador del Ancestro de Tak'alik Ab'aj)

ここからおよそ時代を追って古い順に紹介していきます。 まず先古典期の石造物を2点。

グアテマラシティーに埋もれていったカミナルフユについては、石碑の回廊に行き着く前に広範な展示があって、興味深い石碑も沢山 あり、 カミナルフユのページ にまとめてあります。  写真左はカミナルフユ石碑 11、で 200BC - 200AD 頃のものとされます。

写真右はタカリクアバフからの石柱。 タカリク・アバフはカミナルフユと共に先古典期中期には既に繁栄を始めていた南部海岸地帯に 属する遺跡です。

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      (Panel de explicación)     (Cuatro fragmentos por Wikipedia)

Wikipedia(写真右)によると4つの破片に分れて見つかっており、博物館のものは本格的に修復されたものか、或いは複製かもしれません。  神聖文字が刻まれた下部(53, 61)はタカリク・アバフの初期のマヤ王で、中央部(217)の冥界を表すコウモリと、上部(215)のオルメカ風の 先祖の王を担いでいるという解釈のようです。 マヤとオルメカの融合を示す興味深い石柱で、300BC以前のものと考えられます。


         ウアシャクトゥン           トレス・イスラス

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        (Estela 26 de Uaxactún 445AD) (Estela 1 de Tres Islas 475AD)

ここから古典期に入ります。 まず古典期前期から、左は 445AD の日付を持つ ウアシャクトゥン の石碑 26です。 古典期後期に入ると石に 刻まれた日付は前期に比べると格段に増えますが、前期のものは数がかなり限られ、前期の石碑のある遺跡はそれだけ古くからの遺跡という 事になります。 ここで紹介する博物館の石造物で前期のものは4点だけ、他は古典期後期、つまり 600AD 以降のものになります。 石碑 26 の ウアシャクトゥンは古典期前期にはティカルと肩を並べる勢力だったものの、その後ティカルの支配下に入ったようです。

右はトレス・イスラスの 475AD の石碑 1。 トレス・イスラスはあまり知られてない遺跡ですが、場所を探してみるとペテシュバトゥン地域の南、 ペテン県の最南部(下の地図参照)で、こんな所に石碑を持つマヤのセンターが古典期前期に存在していたと言うのは興味深い事実です。

(ティカルには古典期前期の石碑が沢山あり、遺跡併設の石造物博物館 に前期のものが 20点近く展示されています。 かなり破損したものが多いですが。)


  ピエドラス・ネグラス

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 (Estela 36 de Piedras Negras 445AD)              画像

次にピエドラス・ネグラスの石造物群。 ピエドラス・ネグラスはメキシコとの国境を流れるウシュマシンタ川沿いにある大規模な遺跡で、メキシコ側 にあるヤシチランを 40Km 北へ下ったグアテマラ側にあります。 ヤシチランはパレンケからツアーが常時催行されていますが、ピエドラス・ネグラス はアクセスが非常に難しく、未訪問です。 (MAP ボタンをクリックして拡大地図で場所が確認できます。)

ピドラス・ネグラスには神聖文字が刻まれた石造物が大量に残され、その研究からが碑文が暦、天文、神話だけではなく、歴史が刻まれている事が解明 され、マヤ研究にとって非常に重要な遺跡です。 その研究に当たったのがロシア人女性マヤ学者、碑文学者のタチアナ・プロスコリアコフ(1985年没)で、 遺跡のグループFに埋葬されているそうです。

博物館には古典期前期の 445AD の日付がある石碑 36 (写真左)から、795AD の石碑 12 迄、ピエドラス・ネグラスからの石造物が 12点の展示され、 訪問の難しい遺跡だけに、嬉しい限りです。 ピエドラス・ネグラス王朝の創設は 297AD、対岸のヤシチラン王朝は 359AD で、両者の争いは 4世紀には既に始まっていたそうです。

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 (Dintel 12 de Piedras Negras 514AD)

ピエドラス・ネグラスの古典期前期の状況はあまり詳しくは知られていませんが、この 514AD の石版 12 から、当時の歴史の一部分が垣間見えます。  9.4.0.0.0 のカトゥンを祝ったもので、支配者 C の戦勝記念が刻まれ、右枠で正装して直立しているのが支配者 C です。 その背後に後ろ手に 縛られた捕虜が見え、左枠に被り物をつけて手を前に縛られた捕虜が3人跪いていますが、一番先頭がヤシチランの王、結び目ジャガー1世だそうです。

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    (Estela 33 de Piedras Negras 642AD)

次に古いのが 642AD の石碑 33、古典期後期に入ります。 603AD に即位した支配者 1 (在位 603-639AD)から 碑文の刻まれた石造物が数多く残され、 これは支配者 2 (在位 639-686AD)が建造物 R-5 の前に立てた6本の石碑のうち最初のもので、12歳の時の即位を記念したものだそうです。 玉座の上 に前向きに胡坐をかいた支配者 2 とその前で被り物を捧げる恐らく母親です。

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            (Panel 4 de Piedras Negras 667AD)

これは同じ支配者 2 の 667AD 9.11.15.0.0 の石版 4。 戦士から捕虜を引き渡されている王は、碑文がかなり風化していて、支配者 1 か 2 か 分らないようです。

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        (Estela 6 de Piedras Negras 687AD)

これは次の支配者 3 キニチ・ヨナル・アーク二世(在位 687AD-729AD?)が即位を記念して作らせたもので、枠の中に王が正面を向いて玉座に座 っている 独創的なデザインです。 建造物 J-4 の前に並べられた石碑の1本との事。 

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     (Dibujo de restauración de Acropolis por Tatiana M. Proskouriakoff)

ピエドラス・ネグラスについてウェブで調べてみると、プロスコリアコフ自身によるスケッチがあり、建造物 J-4 が描かれていました。  右側のピラミッドがそれで、正面階段前に並んだ石碑の1本が石碑 6 になります。 写真は FAMSI の研究論本 p.156 から お借りしました。

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               (Estela 40 de Piedras Negras 746AD)

次は支配者 4 (在位729-757AD)が 746年に捧げた石碑 40。 支配者 4 が跪き 下にある石棺の中に右手で香をばら撒いている様子とされ、 マヤでは珍しい独特の構図です。 石棺の中は右を向いた母親と思われる上半身像が描かれ、支配者 4 は支配者 3 の子供ではない為、母系相続 が暗示されるようです。

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 (Estela 13 de Piedras Negras 771AD)  (Estela 15 de Piedras Negras 785AD)

左は支配者 4 の次の次の王、支配者 6、ハ・キン・ショーク (在位767-780AD) が 771年(9.17.0.0.0.) のカトゥンを祝って建造物 O-13 の前に奉じた石碑 15。  支配者 4 の息子で、支配者 5 の兄弟と考えられ、両王とも短い統治期間ですが、ヤシチランを始めとする勢力との抗争は続いたようです。  石碑にはショーク王が右手から何か撒いている様子が刻まれます。

右の写真2枚は同じ石碑 15 を正面と斜めから撮ったもので、支配者 7 キニチ・ヤク (在位781-808AD)が 785年(9.17.15.0.0.)のカトゥンに奉じたもの。  顔が崩れて表情がわからないのが残念ですが、従来の石碑と異なり王が立体的に彫られ、より写実的になっています。

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 (Trono 1 de Piedras Negras 785AD)
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支配者 7 による石造物は博物館に沢山あり、石碑 15 から この玉座1を含めて石碑 12 まで全てこの王の時代です。 それにしてもこの 玉座1、何とも息を呑むような見事さです。 建造物 J-4 横の回廊 J-6 で発見された時はバラバラに壊されていたそうですが、復元して修復し 今見る姿に。

背もたれは下顎のない山の怪物の仮面で、目の窪みの部分から支配者7の両親と思われる祖先が顔を覗かせ向かい合って会話しています。  碑文には前王の時代の出来事や、母親の名と自らの出生、即位が刻まれ、上の石碑 15 と同時期 785年のカトゥンに製作されたようです。  彫刻の質の高さも然ること乍ら、玉座に赤、緑、青、黄の当時の彩色が一部残るのも凄いです。

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          (Panel 15 de Piedras Negras 785AD)

石版 15 は 785年とだけ記され、詳しい説明がありません。 戦いの装束を身に着けた王と思われる人物が中央に立ち、碑文で囲まれていますが、 かなり風化していて読み取れる部分は限られるようです。

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 (Dintel 3 de Piedras Negras, original y réplica)

次に同じく支配者 7 の石版 3。 博物館の説明パネルには 749年(9.15.18.3.13)とありますが これは作られた年代ではなく、749年に行われた 父王 支配者 4 の即位 20年記念行事の様子を描いた石版という事で、実際の製作年は 795年頃と考えられます。

王座に座るのは支配者 4、右側に高位の貴族二人に伴われた王子が二人、、一人は後の支配者 7、もう一人はラ・マールの王子。  支配者 4 の左で三人が敬服の姿勢をとっていて右端はヤシチランの王 ヨアート・バラム二世、玉座の下に座り会話するのは7人の参謀たち。  支配者 7 がヤシチランを支配していた父王の時代の場面に自らを描かせ、ピエドラス・ネグラスの優越性を示し自らの王権の正当化を計ったとも 考えられます。

碑文は757年の父王の死とそれに続く建造物 O-13 への埋葬、そして782年の再埋葬の儀礼と史実が綴られているそうで、この石板自体 O-13 ピラミッド 壁面に取り付けられていました。

上の写真は博物館の実物を撮ったもの、下は複製の写真です。 この複製はメキシコ滞在中に入手したもので、実物では失われた部分も復元されており 石板の説明を理解するのに大いに役立ちました。 この複製は興味本位の単なる土産物ではなく、考古学的な裏付けがあって学術的な価値もありそうです。

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        (Estela 12 de Piedras Negras 795AD)

ピエドラス・ネグラスの最後の石造物は 795年の石碑 12。 ウシュマシンタ川下流のポモナとは 792年と 794年に戦闘があり、その戦勝が石碑 12 に 刻まれたようです。 上段が支配者 7 で、中段に左右の軍人に挟まれて正装したままのポモナの王が座らされ、さらにその下に縛られた 8人捕虜が 描かれています。

ポモナはこの戦闘の後 衰退に向かいますが、ピエドラス・ネグラスもその後 808年には宿敵のヤシチランに支配者 7 が捕らわれ、 遺跡の発掘ではあちこちに火災の跡が認められたとの事ですから、最後はピエドラス・ネグラス王朝はヤシチランに蹂躙されて終焉を迎えたようです。

ヤシチラン も残された数多くの石造物が有名で、プロスコリアコフ女史はピエドラス・ネグラスとヤシチランの碑文の対比で、解読を進めていき ました。 碑文は風化して崩れた文字が多いので全部が解読される訳ではありませんが、戦いの相手は周辺の小国から、パレンケやトニナ、 あるいはドス・ピラス、更には2大パワーのティカルやカラクムルの姿も見え隠れし、碑文の解明からはこうした古典期の絶え間ない戦闘の 様子が浮かび上がってくるようです。



 ドス・ピラス

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    (Estela 9 de Dos Pilas 682AD)   (Estela 11 de Dos Pilas 698-726AD)

辺境のドス・ピラスの石碑も2本展示されています。 アクセスが悪く訪問客が少ないので、盗掘者にとっては格好の獲物。 石碑 9 も石碑 11 も横に切られた跡が見えますが、細切れにされて持ち出される直前に押収されたそうです。 石碑 9 の下と、石碑 11 は上と下の部分には 碑文が刻まれていた筈ですが、持ち去られてしまったようで、碑文の解読ができません。
ドス・ピラスの詳細についてはこちら。



 ナランホ
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        (Estela 24 de Naranjo 699AD)  (Estela 22 de Naranjo 702AD)

次にナランホからの石碑。 ナランホは古典期におけるマヤセンター間の争いでも頻繁に名前の出てくる主要なセンターのひとつで、ヤシャー遺跡から北東へ 18Km にあります。

20世紀初頭に発見され、石造記念物が 45本も確認、記録されますが、その後発掘・修復の道を辿る代わりに、徹底した組織的盗掘が繰り返され、 1920年頃には既にかなりの石造物が散逸してしまったようです。 60年代以降も、内戦中を含めて大規模盗掘団の暗躍が続き、石碑は細切れに されて収集家の手に。 辛うじて難を逃れた石碑が5本博物館に展示されています。

古典期前期にはティカルの勢力下にあったと思われるナランホは古典期後期に入る頃にはカラクムルの支配下にあったようです。 その後カラクムルや カラコルとの戦闘があり、衰退していたナランホに、ペテシュバトゥンのドス・ピラス初代王バラフ・チャン・カウィールの娘、6の空(Señora Seis Cielo) が嫁ぎ、ナランホの再興が計られます。

石碑 24 はその6の空が彫られていて、女性が石碑の主人公になっている珍しいケースです。  ナランホに来たのが 682AD でその後 693年に 5歳の息子をナランホの王として即位させ、院政を敷いたようです。 右側の石碑 22 は息子のカック・ティリュウ ・チャン・チャーク(在位 693-727-?)が 14 歳の時のもので、左下には縛られた両手を差し出したウカナルの王が彫られています。

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 (Estela 30 de Naranjo 714AD)    (Estela 2 de Naranjo 716AD) (Estela 33 de Naranjo 780AD)

左の2本の石碑も同じカック・ティリュウ王のもの。 左側は 714AD の日付を持つ石碑 30 で、下に踏みつけられているのはおそらくウカナルの王。  この石碑は 1968年にヒューストンの税関で見つかったそうです。 何と43個の破片にされていて、その後 修復補修が行われました。  真中の石碑 2 は 716年のカトゥン 09.14.0.0.0.に作られたもので、カラクムルが 695年にティカルに敗北を喫した後もナランホは一定の勢力を保持した ようです。

カック・ティリュウ王の後、ナランホは勢力を盛り返したティカルに敗れ低迷期を迎えますが。息子のカック・ウラカウ・チャン・チャーク(在位 755AD- ) とその息子イツァムナーフ・カウィール(在位 784AD- )の頃にはまたナランホは復興したようで、ヤシャー始め周辺の勢力と争いが続きます。  石造物の奉納も再開されますが、博物館には石碑 33 が1本だけ。 780年のハーフカトゥン 9.17.10.0.0.を祝ったものです。

ナランホには最近でも武装した盗掘団が暗躍していて、2000年に入ってからも調査隊のキャンプが焼かれたりしているそうですから、遺跡訪問は控えて 博物館の石碑で我慢した方が良いかもしれません。



           タマリンディート           セイバル


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          (Estela 3 de Tamarindito)    (Estela 3 de Ceibal 810AD)

ペテシュバトゥン地区にあってドス・ピラスによる戦乱の渦に巻き込まれたタマリンディートからの石碑も1本展示されています。  説明書きには石碑 3、古典期後期(600-900AD)と、何とも味気ない説明だけで、詳細はわかりません。

右の石碑もペテシュバトゥン地区東部、セイバル遺跡からのもの。 810AD と古典期終末期にあたる石碑には異民族の影響も窺われます。   セイバル遺跡の詳細はこちら。


  イシュトゥツ                    ラ・アメリア

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  (Estela 4 de Ixtutz 780AD)        (Estela 1 de La Amelia 810AD)

左はイシュトゥツという聞いたことのない遺跡からの石碑。 場所は調べるとペテン県の南東部ベリーズ寄りでした。  780年の 9.17.0.0.0. を祝った石碑と博物館の説明書きにありました。 石碑を見ると 12 Ajaw 8 Pax から始まっているようで、正しくは 9.17.10.0.0. の ハーフカトゥンの筈。
祝典にはティカル王とキリグアから 28名の参列者があった旨石碑に記されているそうです。

右はドス・ピラスの北西に位置するラ・アメリアの石碑 1 で、761年にドス・ピラスが攻め落とされた後も周辺で繁栄を続けたようで、 810年の 9.19.0.0.0. のカトゥンを祝っています。 王の足元と下のジャガーの部分が切り離されていますが、これも略奪者の仕業との 事。 闇で持ち出されてしまった石碑は沢山あるのでしょうか? 個人で収蔵していても歴史解明は出来ないのですが。 


 マチャキラ
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  (Estela 2 de Machaquilá 801AD)    (Estela 4 de Machaquilá 820AD)

古典期終末期にかけて主要なマヤセンターが次々に没落していく中、周辺部で繁栄を続けたセンターもあり、マチャキラもそのひとつです。 ペテン県南部でペテシュバトゥン地域の南東に位置するマチャキラは、ドス・ピラス王朝がアグアテカで終焉を迎えた 810年以降も存続し、 9世紀に入ってからの石碑が 3本展示されています。

石碑をよく見るとやはり割られたり、精巧に鋸で挽かれたような跡も見られますが、やはり盗掘者の仕業でしょうか。 左の石碑 2 は 801AD の 日付の支配者 4 オチキン・カロームテが彫られたもの、右の石碑 4 は 820AD シャフ・キン・チャーク二世です。 詳しいことはわかりません。

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                      (Estela 7 de Machaquilá 830AD)

石碑 7 は真中でふたつに割れた跡が見えますが、非常に良い状態が保たれ、フーン・ツァク・トーク王の姿が克明に描かれます。 日付は 10.0.0.0.0. で、 10バクトゥンを祝ったマヤ全体でも数少ない記念物になります。 

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 (Diferentes figurillas que aparecen en las estelas de Machaquilá)

マチャキラについてはウェブで調べてもあまり情報は出てきませんが、FAMSI のページで模写が公開されており 興味深い比較の模写 がありました。  その他の石碑の模写はこちらから。



 ウカナル ・ イシュル
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                             (Altar 1 de Ucanal)
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 (Estela 4 de Ucanal 849AD)             (Estela 1 de Ixlu 859AD)

古典期終末期の石碑でウカナルとイシュルのものもありました。 ウカナルの祭壇は古典期後期(600-900BC)と ありましたがこれはご愛嬌、当然古典期後期(600-900AD)、でも古典期後期の何時ごろのものかはわかりません。石碑と対になるのでしょうか?  石碑の方は 849年とだけあり、 詳しい説明はありませんが、849年は 10.1.0.0.0. にあたるので、カトゥンを祝ったもののようです。   ウカナルはカラコルとナランホの中間に位置し、両者の碑文にも良く登場するマヤセンターでしたが、ナランホが没落した後、849年にもまだ 石碑を建立して存続していた事になります。

右側のイシュルの石碑 1 は 10.1.0.0.0. で 859年と説明書きにありますが、849年の間違いでしょうか。 イシュルはフローレスからヤシャーに 向かう途中の小さな遺跡ですが、古典期終末期に主要センターが次々に没落する中、ちいさなセンターでも石碑を立てて自らの覇権を主張できたようです。

マヤの石碑の多くは 9バクトゥン( 9.0.0.0.0. 435AD - 9.19.0.0.0. 810AD)ですが、これらイシュルとウカナルの石碑は 10.1.0.0.0. で、 10バクトゥンに入った マヤの最晩期の石碑となります。
(更に日付の新しいものは、セイバル遺跡の石碑 20 (889年)や、チアパス州のトニナ遺跡のモニュメント 101 (909年) があります。)



 パロ・ベルデ

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                  (Estela 1 y 3 de Palo Verde)

さて、博物館の石碑紹介もそろそろ終わり近づきました。

まだ紹介できていなかったパロ・ベルデの石碑。 パロ・ベルデはペテン地方から遠く離れた南部海岸地帯の内陸部寄りにあり、石碑も少々毛色が 変わっています。 石碑は 1、2、3 と同じサイズと縁取りの石碑が3本展示されています。

石碑上部の円形の文字の中にそれぞれの人物の暦の名前が記され、石碑 1 は 6の蛇の目が被り物を、石碑 2 は 8の鹿がトカゲを、石碑 3 は 9のウサギが子供か人形を、それぞれ空に掲げていると説明されます。

勢力争いに明け暮れたペテン地方から南部高地を超えて海岸地帯へ来ると、石碑のモティーフも何処となく雰囲気が異なりますが、メキシコ系の 文化を継いだ、コツマルグアパ文明のものになるようです。


 コツマルグアパ文明

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                (Fragmento de Estela, Palo Gordo)

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 (Altar, Costa Sur)      (Mono Esqueletico, Costa Sur, Museo Miraflores)

と言う事でコツマルグアパ文明について展示物をもう少し探してみると同じ博物館にもう2点、ミラフローレス博物館 に1点ありました。

コツマルグアパ文明の遺跡はグアテマラ南部のエル・バウル遺跡が知られ、古典期後期に栄えたマヤとは異なるメキシコ系の文化のようです。  石造物はモチーフに骸骨が頻繁に用いられ、一種独特なデザインです。 ポポル・ブフ博物館 のページの最後 にもコツマルグアパの石造物を2点 紹介してあります。



 キリグア

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               (Altar L de Quiriguá 652AD)

世界遺産キリグアの石造物は現地に残されています。 砂岩で出来ていて 風化の恐れが少なく、周りはユナイテッドフルーツのバナナ畑に囲まれていて略奪の恐れもないからでしょうか。

博物館にはコパン王朝を倒したカック・ティリュウ王以前の古い祭壇がひとつだけ展示されています。 652年 9.11.0.0.0. のカトゥンを祝った 祭壇Lで、現地に残された石碑群と比べると様式が古く 洗練されていません。


 ティカル
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  (Altar 8 y Estela 20 de Complejo de Pirámides Gemelas P, Tikal 751AD)

最後にティカルの石碑と祭壇のセットです。 ティカルは現地に遺跡併設の博物館(Museo Tikal)と石造物博物館(Museo Lítico)があり、 殆どの石碑は現地にありますが、写真の石碑と祭壇だけが首都の博物館に展示されています。

石碑も祭壇も 751年と書いてあるので、多分 751年のカトゥンを祝ったピラミッド複合体Pにあったものではないかと思います。 以前ティカルの 北のゾーンまで行った時にピラミッド神殿がひとつ修復されていましたが、隣の複合体Pは未修復でした。 




以上、グアテマラ考古学民俗学博物館の石造物に絞って展示品をみてきました。 マヤファンにとっては一見どころか何度でも繰り返し訪問したい 博物館です。

大辞林によると博物館とは 「資料を収集・展示して一般公衆の利用に供し、教養に資する事業を行うとともに資料に関する調査・研究を行う施設」 とありますが、グアテマラのマヤ石造物にとっては、風化、破壊、盗難などから身を守る避難所であり、病院でもあった訳ですね。

またその為に、僻地の石碑を労せずして見ることができ、異なるマヤセンター間の歴史も明らかになって 古典期マヤの総合理解も進み、誠に有難い博物館です。

博物館の 特別室とティカル室他 は別ページにまとめてあります。


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