マヤ遺跡探訪
TAKALIK ABAJ
先古典期中期の紀元前800年頃に遡るタカリク・アバフは グアテマラ南部でカミナルフユと共にマヤ創生期の様子を窺い知れる重要な遺跡です。

南部高地南端にあり、太平洋沿岸平野に向けて傾斜する山麓帯に段丘を造成して街が作られており、高地からの水路に加えて 東西を繋ぐ先古典期の長距離交易ルート上の重要な位置を占めていました。

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一度行ってみたい遺跡でしたが首都グアテマラシティーから西へ 200Kmでアクセスが悪く、今回 同じく未訪だったサクレウとセットにして1泊2日で行ってきました。

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     (訪問日 2018年3月9日)
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タカリク・アバフへ   Hacia Takalik Abaj
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 (Amanecer en Siquinalá y Volcán de Fuego)

グアテマラシティーから 200Km と言っても現地まで高速が整備されている訳ではなく、夜明け1時間前に出発、シキナラ付近で 夜明けを迎えました。 車を止めて貰い日の出をカメラに収めました、北側には有名なボルカン・デ・フエゴ(火の火山)が聳えます。  ここまで約80Km、1時間と順調です。

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 (Camino hacia Retalhuleu)

マサテナンゴまでは何とか来ましたが、その先が渋滞。 ケッツァルテナンゴとの分岐点に辿り着いたのは、もう10時半過ぎ、 朝食休憩を差し引いても4時間以上かかっていました。 やはり日帰りは厳しかった!

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 (Estacionamiento y Oficina de Takalik Abaj)

その後順調に車は走り、11時にはタカリク・アバフに到着しました。 左は駐車場で、右が入り口の事務所です。



タカリク・アバフ遺跡   Sitio de Takalik Abaj
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 (Mapa del Takalik Abaj por Proyecto Nacional Takalik Abaj)

事前に下調べしましたが、遺跡の地図らしい地図はタカリク・アバフ・プロジェクトによるこの地図くらい。 西、南、北、中央 の4つのグループに区分けされますが、現地ではどの位まわれるのか?
行ってみて初めてわかったのですが、公園として整備公開されているのは中央グループだけでした。

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 (Bosquejo de Grupo Central y su recorrido)

現地は古典期遺跡のように特徴的な建造物がある訳ではなく、芝生が張られ一部石材で覆われた土塁、屋根の付いた発掘現場、 そして点在する石造記念物ばかり、これ等が木々で見通しの利かない中に散らばっていて、注意していても何処が何処で、 何が何だかさっぱりわかりません。 結局帰国してからじっくり写真やビデオに GPS データを突き合わせて、やっと少しづつ全体像が 見えてきました。

現地の案内板にある地図を切り出し加工しました、赤線は見学コースです。 これに遺跡にある立体的な復元模型(下の写真) を照らし合わせると理解し易かったように思います。

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 (Grupo Central en la Maqueta del sitio)

復元模型の横に発見から調査、発掘の過程が時系列的にまとめられています。 本格的な発掘が始まったのは1976年からで、 それまではコーヒー農園に埋もれた形でしたが、一部が地主から国に寄贈され発掘が進んで公園に整備されたようです。  中央グループが最も重要な祭祀センターだったそうですが、まだ多くの部分が私有地で緑に覆われているようです。

遺跡の命名者スザンヌ・マイルズの名前もありますが、プランテーションの名を取りスペイン語で Piedra Parada (立ち並ぶ石?) として、キチェ後に訳して「アバフ・タカリク」にしたそうです。 後にキチェ語の文法に照らして「タカリク・アバフ」と 訂正され、現在はこちらが正式名になっています。



遺跡へ   Recorrido
前置きはこのくらいにして遺跡をみていきます。 入り口の事務所は テラス2 (TR-2)の北東の道路際でした。

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 (Estructura 73 y Monumento 93)

入り口のすぐ脇に建物跡と石造物があります。 建造物 73 になるようですが、現地では 90 の建物が確認されており、 比較的新しく発掘されたものかもしれません。 石造物はモニュメント 93 で、ジャガーの座像で頭が人間になっています。 先古典期中期にあたる 800-400BC のタカリク・アバフ初期の石造物で、典型的なオルメカ様式です。

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 (Canal de Piedra)

現地での見学コースは テラス2を見てからテラス3に上がるか、逆に先にテラス3に上ってからテラス2に降りてくるか のどちらかですが、ガイドさんは後者で案内してくれました。 テラス3に上る途中に石の水路が口を開けていました。 先古典期後期 400BC-150AD の建造になるようです。


Terraza 3   テラス 3 
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 (Monument 11 bajo techado)

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 (Estela 14 y Altar 48)

テラス3に上ると直ぐに石造物があり、屋根の下がモニュメント 11 で、直ぐ東側に石碑 14 と祭壇 48 のセットがあります。  場所は上の地図でオレンジ色の矢印で示したところです。

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 (Panel de Explicación)

石造物はどれも非常に風化が進んでいて 何が描かれているのかよくわかりませんが、案内板で解説が加えられます。

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 (Monumento 11)

左は現地に残されたモニュメント 11 の現物、右は案内板から模写を切り出したものです。 模写には中央に5文字と左脇の 11 Kin が復元されていますが、実物では一番下の文字以外は殆ど消えかかっているようです。  説明文にはマヤ文字発生初期の先古典期中期の 700-400BC にあたると書かれていました。

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 (Altar 48)
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祭壇 48 の方はモニュメント 11 より彫刻が残りますが、それでも模写を見ないと何だかわかりません。 口を開けて尾をカーブさせた ワニの胴体は四葉型になっていて中に玉座に座る人物が描かれ、下に4文字で人物の名前が記されているようです。  マヤ初期の図像と文字が刻まれ、案内文では先古典期後期始めの 400-200BC にあたるとなっていました。 (石碑 14 の方は無地で彫刻はありません。)

ガイドのおじいさん、いろいろ説明してくれるのですが、彼の説明ではワニではなくトカゲ、モニュメント 11 が 400BC、祭壇 48 は 800BC と、 案内板とはいろいろ食い違いが…。 他にも質問しても的確な答が返ってこない事が多く、彼なりの解釈で決まった事を喋りまくる、差乍ら講談師の如く。  なので、案内板の方を正としましょう。


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 (Esquina suroeste de Estructura 6)

小道を進んでいくと直ぐに目の前に建物が。 写真は建造物 6 の南西角です。

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 (Plaza 3 Tanmi Tnam)

建造物 6 の東側は少し開けていて広場と木々の合間に人垣と階段が見えますが、この階段が建造物 5 でした、 後で地図と見合わせてわかったのですが。 建造物 5 は後でまわります。

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 (Escalinata del lado sur de Estructura 6)

建造物 6 の南側面で、中央に石で固めたスロープがあります。 タカリク・アバフでは先古典期中期の 800-400BC に土を固めて造った建物で街造りが始まり、先古典期後期 400BC-150AD には建物が拡大され丸石で補強されています。  その後 500AD 位までの衰退期を経て、500-900AD 頃に再興が図られますが、最盛期は先古典期後期までなので、 およそこの時代の建物が修復されていると考えて良いでしょうか。

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 (Lado este de Estructura 6)

これは同じ建造物 6 の東側面で、写真右側に建造物 7 の基壇が続きます。

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 (Canal de piedra al lado de Estructura 7)

建造物 7 に上る前に水路を案内されました。 土を固めて作った建造物は当然大雨には弱く排水設備は必要不可欠のものでした。 石で形作られた排水路は先古典期後期の建造になり、テラス3に上る途中で見た水路の出口に繋がっていたようです。


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 (Patio sobre la Estructura 7)

建造物 7 の上の広場に来ました。 建造物 7 は 79 x 112m の大きな基壇で、基壇上の広場ではオルメカ文化の時代から天文観察が行われ、 タカリク・アバフで最も神聖な場所だったと考えられます。

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 (Observación astronómica de Sol y Constelaciones, Dibujo en el panel del sitio)

現地の説明版によると天文観測用に北から南に並べられた石造物が東西に3列あり、天文の事はよくわかりませんが、ここから冬至の日の出や 竜座の観察などが行われていたそうです。 西の石造物列は建造物 7 の外のようですが。

以下、中央列の石造物を南から北へ見てみます。

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 (Monumento 14 Estilo Olmeca)
一番南側のモニュメント 14、オルメカ様式のジャガーと鹿の子供を抱いた人物像で、裏側にジャガーの体の一部があります。

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 (Monumento 15 a la derecha, Estilo Olmeca)
右側は壁龕から頭、肩、腕を突き出す人物像のモニュメント 15 で同じくオルメカ様式。
 (Monumentos 16 / 17 a la izquierda, Estilo Olmeca)
左はモニュメント 16/17 で、2つに割れて風化していますが元々一つの石造物で、被り物を付けた頭部が刻まれたオルメカ様式のモニュメントです。

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 (Monumento 19, Monumento 18 Estilo Maya)

右がモニュメント 18 で、部分的ですがマヤ様式の彫刻が残されます。 左のモニュメント 19 にはマヤ風の人物が槍のようなものを 持った様子が刻まれ、モニュメント 14 から 17 のオルメカ様式の石造物に、マヤの時代に入ってモニュメント 18 と 19 が付け加えられたようです。

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 (Fila de monumentos Central)

中央列の石造物を北側から南の方へ見たところです。 この写真の外になりますが、中央列一番北の石碑 13 は少し離れて建造物 7A の前にあります。

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 (Fila de monumentos Este)

東側の列は写真の通りかなり崩れた石造物で、奥の階段が見える建造物が 7B です。

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 (Altar 46 "Piecitos")

注目されるのはこの写真のピエシートスと呼ばれる祭壇 46 で、一対の足型が残されます。 現物では見難いので案内板の写真を 切り出してみました。 一対の足型は 115度の方角を向いていて、冬至の日の出の位置を示しているそうです。

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 (Monumentos de la fila Este)

東側の列の北の方の石造物2点。 資料がなく番号も様式も不詳ですが、奥はオルメカ様式、手前はマヤの様式のように見えます。

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 (Estructura 7B y Calzada Maya)

これは建造物 7B の西正面で、階段の前からマヤの石畳の道が西に向かって伸びています。

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 (Estructura 7A)

建造物 7 の広場の北に建造物 7A があり、ここから 150 AD 頃の王墓が多くの副葬品と共に発掘されています。 モニュメント 215 と 217 もここから発見され、現在は復元されて首都の国立博物館に展示されていますが、この辺りは下の方で少し詳しく解説しておこうと思います。

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 (Estela 13)

建造物 7A の前のふたつに割れた石造物が石碑 13 で、天文観測の石造物中央列の北端がこの石碑でした。 基部はかなり綺麗に彫刻が残りますが、 上の方は極端に風化してしまっています。

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 (Imagen panorámica del patio)

建造物 7 を降りる前に、広場のパノラマ画像です。 マウンドがあり石造物列が良く見えませんが、雰囲気は伝わると思います。


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 (Lado noreste de Estructura 6 y Cancha de Juego de Pelota)

建造物 7 の北西側から降りたようです。 建造物 7 に上がる前に見た建造物 6 の北側が見えました。 建造物 6 の東斜面と建造物 7 の西斜面で 球戯場が形成されていたそうです。 球戯場のマーカーなどが無いのでこれが球戯場?と言う感じですが。

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 (Lado oeste de Estructura 6 y Cancha de Juego de Pelota vista de otro lado)

発掘保護されている建造物 7 の西側斜面と、反対側から見た球戯場です。

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 (Edificio superior de Estructura 6)

タカリク・アバフの建造物は階段周辺が修復された土塁ですが、階段は保護の為に登れません。 建造物 6 の北側は芝生の マウンドで、上部建造物の前まで行けましたが、その先はまた登れない階段です。


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建造物 6 の北は建造物 4 ですが、修復された建物は無く、代わりに石造物が掘り出されて屋根で保護されていました。

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 (Estela 49 y Altar 21 ?)

建造物 4 には西側に石造物が並んでいたようで、これが石碑 49 と祭壇 21 になりそうです。 どちらも彫刻はありません。

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 (Altar 13 y Estela 17)

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 (Altar 13)

すぐ北側にある石碑 17 と祭壇 13 のセット。 石碑 17 は巨大な石の塊ですが彫刻は見えませんでした。 他方祭壇 13 はしっかり図像が 彫りこまれています。 もともと石碑だったものを壊して横置きの祭壇に再利用したものと考えられるようで、 被り物を付けた人物像が彫られています。 写真左は下方向から見た所、右は上から眺め下して逆さになっていますが被り物を付けた頭の部分でマヤの様式です。

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 (Estela 23 ?)

更に北側に掘り出されている石造物。 石碑 23 と思われます。 でも建造物 4 は何処へ行ってしまったのでしょう?


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次にテラス3の一番北でランドマークになる石碑 18 です。

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 (Estela 18 y Artar 6)

タカリク・アバフの石造物は大半が東か西を向いているようですが、石碑 18 は北を背にして南側に祭壇を伴い南向きです。 石碑も祭壇も彫刻の無い無地ですが、 祭壇には東西南北を示す突起のようなものがあります。 タカリク・アバフの石造物には主に安山岩が用いられていますが、石碑 18 は例外的に石灰岩で出来ており、 他所からの贈り物と言う解釈もあるようです。


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建造物 4 の西に建造物 3 がある筈ですが、やはり石造物が掘り出されて保護の屋根が取り付けられています。 建物は後ろの緑の中なのでしょうか?

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 (Monumento 23 y Altar 12 debajo de techado de protección)

保護の為の屋根と、内部右奥のモニュメント 23 と左奥の祭壇 12 です。

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 (Monumento 23)

モニュメント23 は先古典期中期に遡るオルメカ様式の古い石造物です。 元はオルメカ特有の人頭像だったものが前面を彫り込んで壁龕から子供を抱えた人物が 現れる構図に作り変えられているそうです。 オルメカ様式ですから 400BC 以前と思われますが、何時頃どういう目的で作り変えられたのか 興味深い所です。

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 (Altar 12)

祭壇 12 は元々先古典期後期に石碑として作られたマヤ初期の石造物でしたが、その後 祭壇として再利用されたもので、 祭壇の上面には左向きの人物像が左右に各4文字を伴って残されます。 古典期 500AD 以降に側面に16の文字が彫り加えられたそうで、 文字は写真の通り鮮明ですが何を意味するものでしょう。


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 (Estructura 5)

テラス3を南へ下ると建造物 5 の前に出ます。 写真は東を向いた正面で、修復された階段は 33段あり、高さ 16m とタカリク・アバフで 一番高い建造物です。 最も神聖とされる建造物 7 の真西に位置し、大きさも高さもあり、重要な建物だったと思いますが、周辺にはあまり目立った 石造物はありません。

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 (Plaza Tanmi Tnam)

建造物 5 から少し南東に下って振り返ると建造物 5 との間に広場が広がります。 神聖な建造物 7 のあるこのテラス3をマム語で Tanmi Tnam (人々の心)と呼び、広場も Plaza Tanmi Tnam と言い表されるそうです。 下の案内板はその広場名の紹介ですが、 どう発音するのでしょう。 タンミツゥナム のように聞こえました。

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これでテラス3は終わり、テラス2に降ります。



Terraza 2   テラス 2 
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 (Escalinata de acceso a la Terraza 3 con monumentos tipo barrigón)

テラス3を東側から降りると、テラス3の基壇の側壁があり階段が取り付けられていました。 階段の手前の芝生のところはテラス2の床面で、 階段の上がテラス3の床面になります。

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 (Monumento 107)

テラス3の基壇の前にグアテマラ南部で先古典期に特有のバリゴン(Barrigón、太鼓腹)の石像が4体並べられていました。 全て南向きに置かれています。 テラス3で見た石造モニュメントは殆どがオルメカ様式とマヤ様式ばかりでしたが、ここにまとめて4体も。 ガイドさんに拠ると豊穣を祈願するものとの事でしたが、 実際のところどうなんでしょう。

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 (Monumento 109 y Monumento 100)

バリゴンは更に西の方へ続き、上の1体の他に更に3体確認出来ました。 タカリク・アバフの 239 の石造モニュメントの 14% がバリゴン様式という 分析もあるようで、タカリク・アバフでは他にもかなりあるようです。 タカリク・アバフ以外では モンテ・アルト を中心に カミナルフユエル・バウルビルバオ等 でも見られる様式です。

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 (Estructura 10 y los monumentos)

次に建造物 10 にまわりました。 と言っても屋根の下の石造物へ案内されただけで、後から画像を確認すると屋根の向こうの芝生のマウンドが 建造物 10 だったようです。 初めての遺跡で全く勝手がわからずガイドさんについて行く他ありません。 公園は定員が 350人でガイドについて回らなくてな行けない、 という規則もあったようで、ガイドさんが建物の紹介も含めて案内してくれたら良かったのですが。

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 (Altar 28 y Estela 55)

屋根の下には殆ど彫刻が確認出来ない石碑 55 と 10 の他に、直径 2m を超す円形の祭壇 28 がありました。 祭壇の西を向いた正面には頭蓋骨の彫刻があります。 何処かで似たような祭壇を見た気がするのですが、オルメカ様式でしょうか?

現地で撮ったビデオには建造物 10 の向かい側にひとつマウンドが写っていましたが、多分建造物 9 だったかと思います。 ガイドさんはスルーしてしまったようで、近くで撮った写真がありません。 


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 (Lado oeste de Estructura 12 con monumentos)

建造物 10 から南へ下がって建造物 12 の西を向いた正面に来ました。 建造物 12 は三層の基壇を持つ建物に修復されていますが、 現在見る形は古典期前期に改装された後のものとの事で、500-600AD 頃の姿になるようです、勿論基壇上には木の柱に草葺きの屋根がついた建物があった筈ですが。

改装以前の建造物 12 は先古典期後期に作られたもので、現在も先古典期に遡る石造物が一列に並べられています。

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 (Monumento 8, Monumento 67)

北側の石造物から見ていきます。 左のモニュメント 8 はジャガーのような動物の口の中に小さな人物が表わされたオルメカ風の石造物、 右はモニュメント 67 で、兜を着けて杖を振り上げた人物がジャガーの口の中から現れる様子が彫られた先古典期中期に遡るオルメカ様式石造物。

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 (Monumento 68)

次に大きな石にカエルが丸彫りされたモニュメント 63 が有ります。 オルメカでもマヤでも無く地域特有の様式とされますが、 太鼓腹のバリゴン同様この様式も南部地域に広く見られます。 マヤの創世神話でも水生動物は重要な役割を果たしますが、同じような意味合いがあるのでしょうか?

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 (Monumento 66)

一列に並ぶ石造物の中心になる石碑 5 が建造物 12 の正面階段前にありますが これは後回し、南方向の石造物を先に見ていきます。 写真はモニュメント 66 で、モニュメント 68 同様に水生動物が丸彫りされた地域特有のもので、 ここではカエルでは無くワニが表現されています。 モニュメント 66 も 68 も共に先古典期中期に遡るものと考えられるようです。

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 (Monumento 65, Monumento 9)

そしてモニュメント 65、目を閉じて鼻、口は崩れていますが兜を着けたオルメカの人頭、更に一番南側にモニュメント 9 、これは地域固有の様式で フクロウが表現されています。 共に先古典期中期に遡るもの。

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 (Estela 5 y Altar 8)

このように左右に先古典期中期に遡るオルメカや固有の様式の石造物を従えて中央にマヤ様式の大きな石碑が祭壇を伴って聳えます。 石碑は下の写真で見るように現在はかなり風化して見づらいですが、左右の人物像の間に長期歴が刻まれた先古典期後期のマヤ初期の石碑 5 で、 126AD の日付けが確認されるようです。

先古典期後期 400BC-150AD に作られた建造物 12 が古典期前期の 500-600AD 頃に改築され、その前に126AD の日付けを持つ石碑が先古典期中期 800-400BC に遡る石造モニュメントを従えて残される…、ここからどういう推論が為されるのでしょう。

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 (Estela 5)

長期歴の右側に刻まれた人物はヘビを抱え、左側の人物はジャガーを持ち、王位継承を記念して奉じられたと解釈されるようです。

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 (Estructura 72 Chuj)

建造物 12 の南脇、モニュメント 9 の近くに小さな遺構が修復されていて、案内板も用意されていました。 身を清める為の テマスカル(スティーム・バス)だそうで、建造物 12 も非常に神聖な場所だったようです。


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 (Imagen panorámica con Estructuras 12 y 11)

建造物 12 の西側に建造物 11 が向かい合って建っていますが、広場に残された植栽に遮られて、また見学の終盤でもあり、あまり写真を撮っていませんでした。  ビデオから切り出しで不鮮明ですが、広場の北から左に建造物 12、植栽を挟んで右に建造物 11 が見えます。

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 (Lado este de Estructura 11)

建造物 11 は中央の階段だけ復元されています。 建物の幅は建造物 12 より大きそうですが、高さは劣るように見えます。 また手前に並べられた 石造物も建造物 12 に比べると見劣りします。

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 (Altar 9 Trono)

建物正面には脚のついた矩形の王座があり、祭壇 9 と呼ばれます。 また祭壇 9 の南隣には石碑 3 の断片が残されるようです。


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 (Monumento 70 y Altar 26 en el lado este de Estructura 12)

ここ迄でタカリク・アバフでの見所は殆どカバーしましたが、後少しだけ石造物があります。  これは建造物 12 の東側、石碑 5 など賑やかに石造物が並んでいた西正面の裏側です。 東面にも階段があり、階段下にユーモラスなカエルの 石像がありました。 地域特有の動物を模った様式です。


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 (Lado oeste de Estructura 13 parcialmente restaurado y unos monumentos más)

建造物 12 の東にある縦長で大きな建造物 13 は部分的に修復され、石造物がふたつ置かれていました。 背中を丸めた老人の丸彫りと、 大きな岩石を彫ったカエルでした。 詳細はよくわかりません。


以上で見学コースは終了、駐車場に戻ります。




El Cargador del Ancestro   モニュメント「先祖を担ぐ人」
遺跡を一通り見て回ったところで、オルメカとマヤの文化の融合と言われるタカリク・アバフを時代を追ってわかる範囲でまとめてみます。

先古典期中期  800-400BC
街の原型が作られ、祭祀センターの建物や球戯場が土を固めて作られ、天文観察が行われ、建物の崩壊を防ぐ為には排水路が設けられる。 政治、宗教目的の石造モニュメントが盛んに作られ、オルメカ様式の他、バリゴン(太鼓腹)様式、地域特有の動物を模った様式が見られる。

先古典期後期  400BC-150AD
安山岩の丸石を用いて建物の強化、拡張が図られ、新たな建物も追加されて街全体の拡大が進む。 天文観察施設にも変更が加えられ竜座の観察なども行われ、 排水設備は石材で補強されて飲料水の供給なども行われる。 石造モニュメントでは石材を成形した石碑も作られ、図像や文字が彫られた初期のマヤ様式が オルメカ様式にとって代わっていく。 150AD 頃の最後のマヤ王のものと思われる埋葬が建造物 7A で発見されている。

先古典期後期-古典期前期  150-500AD
150AD を過ぎる頃から新たな建築活動は認められなくなり、石造モニュメントの制作も止まり、街の荒廃が進みます。 長距離交易ルートが変わった事などが原因に 挙げられますが、北の方で エル・ミラドール が衰退した時期と重なるのも気になります。 4世紀末のテオティウアカン勢力の浸透に際してはペテン地方のみならず 南のカミナルフユでも影響が顕著ですが、タカリク・アバフは無縁です。

古典期  500-900AD
古典期前期が終わる頃からタカリク・アバフの街では復興が図られ、荒れ果てた建物や広場は整備され、 壊れていた石造物は場所を変えて置き直されたりしたようですが、 新たな石造モニュメントの制作は行われず、再び衰退の道を辿ったようです。

後古典期にはタカリク・アバフはキチェ族の支配地域になり、その後聖地としてマヤの人達の礼拝の場になり現代に至る事になります。


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 (Monumento "El Cargador del Ancestro, Museo Nacional de Arqueología y Etnología)

建造物 7A のところで 王墓と共に発見されたモニュメント 215 と 217 について触れましたが、現在は他のふたつの石造物と合わせてひとつに復元され 首都の国立博物館に展示されています。

タカリク・アバフを説明するのに、オルメカ文明とマヤ文明の融合とか オルメカからマヤへの変遷などの形容句と共に遺跡の重要性が語られますが、 「先祖を担ぐ人」 という名前でひとつになったモニュメントは このテーマに大きな手掛かりを与えてくれるものであり、 締めくくりとして説明を加えておこうと思います。

写真左は国立博物館の改装された先古典期コーナーに据えられた「先祖を担ぐ人」、右がその背面です。 以前は中庭に面した石碑コーナーの壁際に置かれて背面が よく見えなかったのですが、担がれるご先祖様は実はこの背面に。

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 (Detalle del Monumento)

最初にこのモニュメントが作られたのは先古典期後期初め 400-200BC 頃とされます。 修復されたモニュメントは 230cm もあり、 現在欠けている最上部を加えると更に大きく立派なものだったと思われます。 先古典期後期の後半 200BC-150AD のどこかで意図的にモニュメントが切断され別の場所に安置され、 上部(モニュメント 215)と中央部(モニュメント 217)は最も神聖な建造物 7 上の建造物 7A の王墓から、下部左側(石碑 53) は建造物 12 から、 右側(石碑 61)は建造物 73 からと別々の場所で発見され、これが研究者の努力によって またひとつのモニュメントに復元されました。

モニュメントは下部の四角い柱の前部に浅浮き彫りされたマヤ王の時代に作られ、柱の左右にはマヤ初期の文字も確認されます(下の写真)。 角柱の上の柱頭部分(モニュメント 217)にはマヤに典型的なコウモリが深浮き彫りされ、その上にオルメカ風のご先祖様を背負った立像(モニュメント 215) が配されるという造りで、マヤ王が崇拝するご先祖様はオルメカの系統をひく人たちだったと言う事が ひとつのモニュメントに示される 他に例を見ない貴重な歴史資料でした。

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 (Parte inferior, Estela 53 y 61)


上でタカリク・アバフの歴史を整理してみましたが、先古典期中期 800-400BC はまだマヤの特徴が表れないので「オルメカの時代」と言って 良さそうです。 但しメキシコ湾岸地域のオルメカの人が直接やって来て統治していたのか、それともタカリク・アバフの人達がオルメカに従属していたのか、 或いはオルメカ文化を模倣していただけなのか?

先古典期後期 400BC-150AD は湾岸地域でオルメカが衰退していった時代にあたり、タカリク・アバフでマヤの特徴が認められるのようになったので 「マヤの時代」と言えそうです。 しかし乍らこのマヤの時代も 150AD 頃の王墓を最後に終焉を迎え、アバフ・タカリクがその繁栄期を終えたという事に なるようです。




Terraza 9   テラス 9
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 (Rstaurante de Takalik Maya Lodge)

タカリク・アバフ見学を終え、北のグループにあるテラス9のタカリク・マヤ・ロッジで遅い昼食。

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 (Bosque y Cascada de Terraza 9)

テラス9では遺跡の一部でも見れるか期待しましたが、緑豊かな自然と小さな滝だけでした。



次は念願叶ったピエドラス・ネグラス訪問をまとめます。



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