マヤ遺跡探訪
PIEDRAS NEGRAS
ピエドラス・ネグラスは対岸のヤシチランとウシュマシンタ川流域の覇権を巡り常に争いを繰り広げてきました。 両者の戦いの歴史は 「マヤの戦争2」 として別途まとめてあります。

ティカルやカラクムルと言う超大国に次ぐ地方の有力なマヤ・センターのひとつでしたが、特筆されるのは 石碑、石板等の石造モニュメントの質の高さとそこに残された歴史の記録で、ヤシチランとピエドラス・ネグラス双方のモニュメントが 実は両者の王朝誌だったことがわかり、碑文解読が飛躍的に進展した事は有名です。 王朝誌を読み解いた功労者は ロシア系アメリカ人のタチアナ・プロスコウリアコフで、アクロポリス最上部に彼女の墓が置かれており、 下の写真はその墓誌です。

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ヤシチラン はパレンケからの日帰りツアーを利用して3回訪問していますが、ピエドラス・ネグラスはヤシチランより 更に辺境で容易に行けるところではなく、今回事前に、車、ボート、キャンプの手配をして遂に念願のピエドラス・ネグラス行きを敢行です。

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     (訪問日 2018年3月13日)
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ピエドラス・ネグラスへ   Viaje a Piedras Negras
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 (De Ciudad de Guatemala a Flores por TAG Airlines)

早朝 6時半にグアテマラシティーを発って拠点になるフローレスへ。 飛行機は 50人乗りのブラジル製エンブラエルでまずは順調に フローレスへ到着。

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 (De Flores a Cooperativa La Técnica, Frontera con México)

フローレス空港で待ち合わせていたガイドと合流、四駆で国境の村、ラ・テクニカを目指します。 途中のラス・クルセスの町までは 道は舗装され快適に走りますが、残り半分は未舗装のガタガタ道。 交通量は少ないので全行程 148Km を 3時間15分、11時過ぎには ラ・テクニカ到着です。 写真右はウシュマシンタ川でグアテマラとメキシコの国旗が見えます。

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 (Viaje por el Río Usumacinta)

ラ・テクニカで早い昼食を済ませ、ここからはメキシコ・グアテマラ国境を流れるウシュマシンタ川を船旅です。

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 (Lancha rentada y Embarcadero de Yaxchilán)

ラ・テクニカからは現地の旅行会社の手配。 フローレスからのガイドにラ・テクニカからのガイドと旅行会社の女性、更にボートの操縦者を加えて計5名で 50Km 以上先のピエドラス・ネグラスを目指し川下りです。 荷物の他に今晩と明日朝用の食材を入れたクーラーボックスも積み込みます。  暫く行くと左手にヤシチランの船着き場(写真右)が見えてきますが、ピエドラス・ネグラスは更に 40Km位下流です。

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 (Embarcadero de Piedras Negras y Un cocodrillo)

左手にメキシコ、右手にグアテマラを見ながら船は一路北へ。 風光明媚で急流もあり、乗っていても飽きません。 ラ・テクニカを出てから 2時間以上経って右手にピエドラス・ネグラスの船着き場(写真左)が見えてきますが、更に 下って今晩の宿泊地エル・ポルベニールへ。 この辺りは殆ど警察権が及ばない所でおまけにワニさんまで出てきます。

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 (Embarcadero de El Porvenir)

ラ・テクニカを出てから 2時間25分で、エル・ポルベニールに到着でした。 明日のピエドラス・ネグラス訪問に備えて今日はここで泊まります。 陸路、水路を併せてフローレスから 200Km 位ですが、常にツアーがオファーされている訳ではなく、その気にならないと来れない所です。

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 (Barraca para el alojamiento)

左は泊まったバラック、右がその室内です。 折り畳みベッド毎にカーテンの仕切りがあり、更に蚊帳を下げてその中で、おやすみなさい! 寝心地は頗る悪でした。

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 (Campamento de El Porvenir)

キャンプには電気は来ておらずソーラーパネル頼り、食事は旅行会社の女性が薪をくべた竈で持ってきた食材を調理してくれて、 チキンにトルティーリャ…と、暖かいものを頂きました。 左はキャンプで右はその中の食堂です。

ラ・テクニカを起点すれば日帰りも可能ですが、ラ・テクニカで一泊するよりは折角なので奥地の雰囲気を満喫したら…。  でも組織的盗掘団の暗躍はなくなったものの相変わらず麻薬の密輸ルートではありますが。



ピエドラス・ネグラス遺跡   Sitio de Piedras Negras
キャンプで朝食を済ませていよいよピエドラス・ネグラスへ向かいます。 ボートで 15分程上流へ戻りピエドラス・ネグラスの船着き場で下船です。

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 (Embarcadero de Piedras Negras)

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 (Marcador de Piedras Negras en la forma de cocodrillo)

川に面した岩場にピエドラス・ネグラスの入り口を示すマーカーがありました。 ワニの形をした祭壇で、 丸い枠の中に2人の人物が向かい合って座り会話している様子が刻まれますが、既にかなり風化していて左側の人物が確認出来る程度です。

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 (Foto panorámica de Río en Embarcader de Piedras Negras)

遺跡へは丘を登っていきますが、その前に振り返って船着き場の様子、 2枚の写真をパノラマ合成しました。 朝日を浴びて輝く対岸の緑が川面に映り込んで綺麗でした。

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 (Paneles de informacion y Mapa del sitio)

丘を登ると案内板が3枚あり、ここが遺跡の入り口のようですが、事務所はなく係員もおらず 入場料の徴収はありません。

3枚の案内板は、遺跡公園の概略、訪問にあたっての注意事項と遺跡地図で、概略には: 石灰岩質のウシュマシンタ川岸の 4㎢ にわたり遺跡が広がり、周辺にエル・ポルベニールを含む幾つかのセンターを従えていた事、 更にピエドラス・ネグラスの古い名前と現在の名前の謂れが説明されていました。 紋章文字には入り口を表すヨキブが記され、これは周辺に直径 100m、 深さ 60m を超えるセノーテがかつてあった為で古い名前がヨキブだったとされ、現在の新しい方の名前は黒ずんだ含有物を含む石灰岩が周辺にある事から ピエドラス(石)・ネグラス(黒い)と呼ばれるようになったそうです。

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 (Mapa de Piedras Negras)

右側にある地図は参考になると思い切り出してみました。 1 から 11 まで重要なところに番号が振ってあったようですが、 残念ながら地図にこの数字が見当たりません。 おそらく消えやすい色で書いてあったのでしょう。 公園の概略の所にはラ・リベルタ郡と あり、2011年にラス・クルセス郡に分離される前の地名になっていたので、綺麗に見えますが少なくとも 7年以上前に設置されたもののようです。 以下、加筆補正してこの地図を使わせてもらいます。


遺跡に行く前にピエドラス・ネグラスにおける調査・発掘の歴史を先に触れておきます。

ピエドラス・ネグラスの発見は 1890年代で、1895年にテオベルト・マーラーが立ち寄り、4年後にピーボディー博物館の支援を受けて現地に 戻ったマーラーは石造モニュメントを中心に調査し、美しい石碑の写真が世に知られるようになります。 しかし本格的な発掘調査は 1931年から1939年にかけてのペンシルバニア大学博物館によるプロジェクトとなり、グアテマラ政府の認可を受けてアクロポリス、K-5神殿、 テマスカル、球戯場を含むピエドラス・ネグラス中心部の発掘が行われ、同時に多くの石造モニュメントが遺跡から持ち出されます。 正確なマッピングも行われ遺跡入り口の案内板はこの時の地図が元になっているようです。 プロジェクトに参加したタチアナ・プロスコウリアコフによる 建造物の正確な復元スケッチはその後 数多くの書物で紹介される事になります。

その後は世界大戦やグアテマラ内戦等があり 1997年に活動が再開されるまで遺跡はそのまま放置されます。 そのままなら まだ良かったのですが、高温多湿の気候は 60年近い年月の間に 整理された発掘現場を元のジャングルに戻してしまい、アクロポリスや建造物 O-13 の前に残されていた石碑群は盗掘団の格好の餌食になり 遺跡は徹底的な破壊・略奪の場と化して荒廃してしまいます。

1997年以降またピエドラス・ネグラスでのプロジェクトが再開されますが、遺跡の調査と既に発掘されたものの修復・保善が中心にならざるを 得ないようです。 それでも J-4 ピラミッド前で石板 15 を新たに発見して回収、現地に複製を設置したり、遺跡内の散策路やアクロポリスに 登る階段を整備したり、また崩れかかった石組を補強したりと、遺跡を訪れる我々は大きな恩恵を被る事になるのですが。




南のグループ   Grupo Sur
さてここから遺跡探索、前段が大変長くなりましたが、いよいよここからがピエドラス・ネグラスの本編です。

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船着き場(Embarcadero)から上陸して最初に南のグループ(Grupo Sur)に入ります。

地図上には広場を囲んで建造物が整然と並びますが、これは発掘調査の結果を地図にしたもので、実際は殆どが密林に覆われています。 ガイドに導かれて密林の中の細道を歩くと建物跡と思われる土塁は散見されますが、それがどの建物にあたるのか皆目見当がつきません。

墓地 Tumba

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 (Tumba escavada)

最初に少し開けた所に出て目にしたのが写真の遺構で 墓地だそうです。 南北に下に降りる階段があり、東西にふたつづつ開口部があります。 ガイド君によると、墓地…、だそうで、何時頃のもので、被葬者は誰なのか、何も知りません。 どうも遺跡内の獣道を知っているだけで、 詳しい事は何も知らずにガッカリでした。 階段の下に同じような入り口が4つあり、王墓と言うより共同墓地のような感じですが。


R-5 の石像モニュメント  Los Monumentos de R-5

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 (Restos de Estructura R-5)

次に土塁と共に石造物が散乱する場所に出ました。 後で調べて判ったのですが、ここが建造物 R-5 でした。

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 (Fragmentos de Estelas)

R-5 の前には断片化したモニュメントが散乱しています。 自然に風化したものか、盗掘者の手によるものか、石碑の基部だけ 残されたような跡も…。 石造物を細切れにしてから表面だけ剥いで持ち出し、その後復元するというのが盗掘者の常套手段です。

屋根の下は石碑 37 でした。 表面が風化していたので盗掘者の被害に会わなかったのかもしれませんが、側面には碑文がはっきり 残ります(下の写真)。

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 (Situación actual de Estela 37)

ピエドラス・ネグラスでは 603年即位のキニチ・ヨナル・アーク1世(603-639)以降は 王朝崩壊まで石碑や祭壇などから連続した歴史が確認できますが、古典期前期の記念物は希薄であり、古典期前期から王朝が入れ替わった為に 古い記念物が意図的に壊されたと考えられるようで、実際隣接する建造物 R-3, 4 ではかなり断片化した6世紀前半の石碑が見つかっています。

南のグループは古い王朝の時代に建設されたピエドラス・ネグラス中心部では最も古い区域になりますが、ヨナル・アーク1世の息子 支配者2(イツァム・カン・アーク1世、639-686) は石碑 37 を含めて多くの石像モニュメントをこの R-5 に残します。 しかし乍ら この王の時代に西のグループの K-5 が既に建設され、ピエドラス・ネグラスは南から北の方へ拡大が計られていったようです。

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  (Estela 36, 33, Panel 4, exhibición de MNAE)

1930年代のプロジェクトで、R-5 の前に残されたものを含めて 16 のモニュメントが保存の為に遺跡から持ち出されますが、石碑 36, 33, 石版 4 はこの時に R-5 から移されたもので、現在首都の人類学考古学博物館で見る事が出来ます。


球戯場  Juego de Pelota

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 (Juego de Pelota)

次に球戯場跡にでます。 1930年代の発掘で全体が掘り出され、当時の写真には建造物を覆う石材が見えますが、現在は土を被り雑草に覆われ、 最近の修復である程度下草は刈り取られたので何とか球戯場とわかる状態です。

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 (Juego de Pelota)

左右の建造物がわかるように 2枚の写真を合成しました。 南から北方向を見た所で、斜面が東西に向かい合っています。 北と南は建物や 壁で閉じられ、所謂ダブルT字型だったそうです。

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 (Restos de Juego de Pelota y los Marcadores erosionados)

一部露出している球戯場を覆っていた石材と、球技面南北に並ぶ円形マーカーです。 マーカーには彫刻が施されていたようですが、 現在ではその痕跡も見えません。



東のグループ   Grupo Este
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南のグループから北東へ、東のグループへ入ります。

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 (Estructura O-12 ?)

少し大きめの土塁があり、球戯場の北なので多分 O-12 にあたると思いますが、木々と下草に覆われて ここは素通りです。


P-7 テマスカル  P-7 Temazcal

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 (Estructura P-7, Baño de Vapor)

O-12 ? の先に建物がひとつ見えてきましたが、テマスカル、スティームバスです。 ピエドラス・ネグラス発見当時から知られる建物で、 建造物 P-7 と呼ばれ、30年代のプロジェクトで発掘調査が行われています。

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 (Estructura P-7)

ピエドラス・ネグラスで修復されている数少ない建物のひとつですが、建物前面は無くなり中心部のテマスカルが露出している状態でした。 建物全体を見るために写真を2枚繋げてみました。

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 (Dibujoo por Tatiana Proskouriakoff)

建物全体を理解できるようタチアナ・プロスコウリアコフの復元模写の助けを借ります。 左が建物の外観で、右は内部のテマスカル、 上の合成写真で中央で黒ずんで見えるのが内部のテマスカルでした。

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 (Entrada al Baño de Vapor)

テマスカルの入り口には網戸が取り付けてありますが、中に入れます。

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  (El interior de Baño de Vapor)

中に入ると左右にベンチがあり、奥にスティームを発生させる炉のようなものが
当時のままの姿で残されます。

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 (Restos de la Estructura y las Bancas)

上はテマスカルの左右で、今は露出していますが建物の内部でした。 下はその裏側で建物で覆われた内部には玉座が左右にふたつ があり、王を含めた高位の貴族に使用されていたもののようです。 壁に開けられたT字型の覗き穴はユニークです。

P-7 はピエドラス・ネグラスで修復されている数少ない建造物ですが、修復と言ってもピエドラス・ネグラスの場合は残された建物の補強が主で、 崩れた部分の作り直しは殆ど無いようです。


O-13 と石像モニュメント  Templo de las Diez Estelas O-13

建造物 O-13 が P-7 テマスカルの西隣にあります。 古典期前期に遡るピラミッド形式の建造物で、古典期後期の王朝最晩期まで度々増築が加えられ、 ピエドラス・ネグラスでも最も聖なる場所と考えられます。

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 (Fragmentos de Estelas en frente de O-13)

O-17 に近づくと石碑の残骸が目に入ってきます。 これは一番東側にある石碑 19 になりますが、既に激しく風化していて図像も碑文も 読み取れないようです。

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 (Estela 18)

こちらはピラミッド神殿の中央に残されていた石碑 18 で、後ろの土塁が O-13 の現在の姿です。 30年代のプロジェクトではここから 石碑 12, 13, 14, 15 の4本が持ち出されていますが、調査の為に多くの縦穴、横穴が開けられ、1997年に調査が再開された頃には かなり荒廃していたようです。

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 (Estela 17)

1997年からの調査で上の石碑 18 とこの石碑 17 が新たに掘り出されたそうですが、石碑 17 は殆ど読めず、石碑 18 の方は側面に残された碑文から ハ・キン・ショーク(767-780)の即位に関連したものと考えられるようです。

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 (Estela 16)

更に西側に細切れ状態になった石碑 16 があり、残された碑文には ヨナル・アーク3世(758-767)の即位が刻まれているようです。 同じくヨナル・アーク3世の石碑 14 は現在ペンシルバニア大学博物館に展示されていて保存状態は良好です。

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 (Altar 3)

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 (Altar 4)

O-13 の南に広がる広場には現在も祭壇 3 と祭壇 4 が残されますが、どちらも保存状態は極めて悪く祭壇の形を留めるだけで、 ここから得られる情報は殆ど無いようです。

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    (Estela 13, 15, 12, Panel 12 y 3, exhibición de MNAE)

建造物 O-13 から 30年代のプロジェクトの時に回収されたモニュメントは博物館で展示され、石碑 13, 15, 12 及び 石板 12, 3 は首都の 国立博物館で見ることが出来ます。 また石碑 14 と石板 2 はペンシルバニア大学博物館にあります。

O-13 には王朝最後の王達によって石碑が奉じられたようで、
ヨナル・アーク3世(758-767) は 石碑 16(756年)、石碑 14(761)、
ハ・キン・ショーク(767-781) は 石碑 13(771)、石碑 18、
最後の支配者7(781-808?) が 石碑 15(785)、石碑 12(795)を残しています。

ピエドラス・ネグラスでは5年毎にモニュメントが建立されていますから、 解読不能な石碑 17、19、20、21 は8世紀後半の5年毎の暦の切れ目の何処かを埋めるモニュメントだったのではと思います。

石板の方は 石板 3 は支配者7により 795年頃に作られたものと思われますが、石板 12 は古典期前期の 518年で支配者Cの時代、 石板 2 も 667年の支配者2の時代になり、O-13 を増築する際に材料として他所から移設されていたものと考えらるようです。



西のグループ   Grupo Oeste
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O-13 から北西へ。 西のグループに入ります。

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 (Vegetación densa que rodea el sendero)

地図では建物を超えて西のグループの広場へ入るのですが、現在は写真にあるように一面密林で 獣道の先に急に建造物 K-5 が見えてきます。

建造物 K-5 仮面の神殿  Templo de los Mascarones K-5

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 (Estructura K-5)

これが南東側から見た K-5 の現在の姿で、神殿の東半分が掘り出されていますが、30年代のプロジェクトでは全体が掘り出され、 プロコウリアコフの復元スケッチも残されます。

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 (Dibujoo por Tatiana Proskouriakoff)

K-5 の調査では古典期後期初期から 3段階の建築時期が確認され、プロスコウリアコフは3段階のスケッチを残します。 左は最終段階の復元模写で 中央階段左右に8つの仮面装飾が施され、高い屋根飾りを持つ上部神殿も復元されています。 右は 30年代の発掘現場で、一層目の基壇に 仮面が一つだけ残され、その上にも仮面の跡が確認されたようですが、ここから左のスケッチに復元する才能には驚かされます。

右の古い写真は こちらで 公開されている論文 にあったものをお借りしました。

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 (Escalinata central de K-5)

中央階段は左右で段差がついていますが、これは異なる建築時期のものが掘り出されていて、30年代の発掘当時のままです。 左側は再び土砂と木々に覆われており、現在露出している部分は 1997年以降にかなり整理されているのでしょう。

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 (Famos Mascarón ahora tapada en el primer cuerpo)

K-5 は低層の基壇の上に建てられた四層のピラミッドで各基壇に設けられた仮面の漆喰彫刻は目と口が大きく彫り込まれた 独特な容貌を持つものでしたが、唯一残っていた仮面も 30年代から風雨に晒されてきた為に風化が著しく、1997年以降 補修が加えられ 2007年には保存の為に蓋が取り付けられた為に残念ながらもう見る事が出来ません。 上の写真の中央が取り付けられた蓋の部分で、写真下左は蓋を横から見た所です。 蓋の上には上段の仮面の一部でしょうか、 漆喰彫刻の一部(写真下右)が露出していました。

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 (Estelal 39 al pie de la Pirámide)

階段は上まで登れますが、上部神殿があった所は草木に覆われた瓦礫の山です。 写真は階段を上った所から見下ろした所で、 中央階段前に屋根で保護された石碑が横たわっています。

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 (Estela 39)

これは屋根の下の石碑 38 で、4m近い高さの立派な石碑でしたが、表面は既に風化して図像は読み取れず、 辛うじて側面の碑文だけ残されます。

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 (Estelal 38)

石碑 39 の向かって左に石碑 38 が残され、碑文は一部残るものの石碑 39 より断片化しています。
石碑 38 と 39 は残された文字から 支配者2(イツァム・カン・アーク1世、639-686)によるものとされますが、 支配者2は長命で R-5 の前に沢山の石碑を立てた後に、K-5 を建立して石碑を奉じ続けたようです。

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 (Juego de Pelota ahora casi cubierta por la vegetación)

この写真は K-5 正面から南へ伸びる道で、よく見ると左右が盛り上がっていて、これが球戯場跡だそうです。 30年代の写真では K-5 と共に球戯場が掘り出されているのを確認出来ますが、現在はただの道と化しています。

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 (Tractor del proyecto de la Universidad de Pennsylvania, 1931-39)

球戯場の傍にトラクターの残骸が放置してありますが、これはペンシルバニア大による 30年代のプロジェクトで 使われたもので、これも歴史の生き証人と言えるでしょうか。


西のグループ・アクロポリス   Grupo Oeste -Acrópolis
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球戯場を過ぎると直ぐにアクロポリスの前に出ます。

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 (Parte frontal de Gran Acrópolis)

これはアクロポリス前の広場で、中央左の階段が上の地図で J-1 と書かれた所です。 右上に J-4、左奥に J-3 が聳える筈ですが、 密生する木々に阻まれて見通しが利きません。 写真は2枚撮って繋いであります。

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 (Estela y Altar al pie de Acrópolis)

上の合成写真の右側で これも2枚繋いでいますが、中央に基壇下で屋根で保護された石碑と 更にその右の屋根の下には 円形の祭壇 1 があります。

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 (Altar 1 con tres soportes)

これが祭壇 1 の現在の姿で、祭壇を支えた3本の角柱も横に残されます。 盗掘者に断片化され持ち出される所の写真もありますが、 未遂に終わったようです。 上面には外側に2列の碑文があり その中に図像が刻まれていましたが、 既に極度に風化していて碑文も図像も殆ど読めません。

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 (Glifos que rodea al costado)

側面全周に刻まれた2列の碑文は比較的読める状態で残され解読が進んでいます。 紀元前 3114年のバクトゥンの始めに先立つ 4691年 に最初の王が即位し、次の王が 前 3114年に王位に就き (と、ここまでは神話的な誇張かもしれません)、 そして3番目の王が古典期前期の 297年に即位したと、興味深い内容が記されるようです。

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 (Estela fragmentada)

こちらは祭壇 1 と向かい合った屋根の下にある石碑の残骸です。 上の地図に手書で A-1 と記されますが、上の段の J-4 の前に8本の石碑が並べられていたので、これが A-1 の前に崩れ落ちたものでしょうか。

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 (J-1 entrada al Acrópolis)

これは J-1 の基壇で、右の木の向こうは石碑が8本並んでいた J-4 の前面です。

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 (Escalinata Megalítica de Estructura J-1)

J-1 の基壇に取り付けられた階段を登って石碑が並んでいた所に向かいますが、この階段の最初の5段だけ他と違って 巨石が使われています。 アクロポリスは7世紀後半位から活発に建築が進められますが、この巨石の階段はアクロポリスの 古い時代のものになるようです。

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 (Estelas colapsadas)

J-4 神殿の前に来ると崩れた石碑の残骸が沢山横たわっていました。 ここには 1895年に来たテオベルト・マーラーによって 8本の石碑が確認されており、その後の調査で 支配者2の後を継いだ キニチ・ヨナル・アーク2世が(687-729)が 5年(4分の1カトゥン)毎に石碑を8本並べていった事が知られます。 写真中段右は石碑 1 になるようですが、他は 何が何だか? まるで石碑の墓場です。

8本の石碑は 石碑 1 - 8 と呼ばれ、30年代のプロジェクトで多くのモニュメントを運び出された時に石碑 6 だけ保護され、 これは現在首都の国立博物館の展示(下の写真)になっています。 しかし残された石碑は 60年代に組織的な盗掘団の被害に遭い、 断片化され表面を剥がれて密売され、取り返しのつかない破壊を受けてしまいます。 現在は一部がアメリカの博物館で展示される他、 首都の博物館に返却されたものもありますが、個人所有で行方知れずになったものもあり、盗掘前の写真や模写が 貴重な資料になります。

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    (Estela 6 y Panel 15, exhibición de MNAE)


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 (Replica de Panel 15)

1997年から再開された発掘調査で 2000年に J-4 神殿で新たな石板の発見があり、これは直ぐにグアテマラ市の国立博物館に移され、 2008年にそのレプリカが遺跡に戻されます。 石板 15 と呼ばれ、最後の王となる支配者7が 785年に奉じたものとされます。  写真は現在遺跡にあるレプリカで、上が博物館に展示されている実物です。

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 (El área donde se colocado ocho estelas)

アクロポリスに登る前に J-4 前の石碑が並べられていた所を見返してみました。 ここに石碑が8本建ち並んでいたと思うと感慨一入です。  写真右隅に苔むして横たわる石碑 1 が見えます。

中央階段左側に建てられた J-3 神殿は密林の中で見学コース外でしたが、ここにはキニチ・ヨナル・アーク2世の次の支配者4(729-767) により石碑が4本建てられます。 30年代に持ち出された石碑 40 は博物館にありますが、他の3本は盗掘団の被害に遭っています。

続く3人の王達は石碑を O-13 神殿に残した事は上述の通りで、石碑を時代を追っていくと、7世紀には R-5 等の南のグループ、700年頃から J-4, J-3 の西のグループ、そして8世紀中頃から最後の王3人は東のグループの O-13 に石碑を残していました。


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 (Maqueta y dibujo de Acrópolis)

アクロポリスは国立博物館の古典期のコーナーに復元模型が飾られ、プロスコウリアコフのスケッチを見ても 1000年以上昔の勇姿を想像させてくれますが、 これは飽くまでも復元した場合の模型と模写で…。

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 (Subida al Patio 1)

実際は写真のように緑に覆われており、写真中央の曲がりくねった階段を登っていきます。 現在の階段の奥に建造物 J-2 に上がる幅の広い階段が有り、 本来であればここを登って中庭 1 に行けた筈なのですが。

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 (Patio 1)

兎に角現在の借りの階段を登りきると中庭 1 (Court-1)に出ます。 写真右が建造物 J-6 の階段、正面に J-5 の階段が有ってその上に中庭が あったのですが、現在は緑の中です。

30年代の発掘では多くの調査坑が掘られ、中庭 1 には掘り出された土砂が山積みにされ、1997年からの調査が始まった時には緑に覆われた小山になって 残されていたそうです。 調査坑はそのま放置された為に崩落を招いて遺跡の荒廃が進んだようですが、まだ発掘調査を続けるつもりだったのでしょうか。 2003年からの活動で調査坑は埋め戻され 山積みされた土砂は片付けられて、現在見る姿になりました。

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 (Estructura J-2)

建造物 J-2 は地図にあるように南北に角柱で仕切られた入り口が沢山あり、東西には2列部屋が配置されていて、中庭 1 の南側に位置します。 アクロポリス前の広場から階段を登って J-2 を抜けると中庭 1 に抜ける、謂わばアクロポリスの入り口となる重要な建物でした。

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 (Un cuerto al lado oeste de J-2)

J-2 で残されるのは角柱と壁ばかりで天井は失われていますが、東西に居室が設けられていて、西側には写真のアーチ型の戸口が残っていました。

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 (Vista norte de Patio 1 con escalinata de Estructura J-6)

J-2 から北側を見ると建造物 J-6 の階段が有り、階段の上に東西に部屋が広がっていました。 現在は角柱と壁面を一部残すだけですが、 J-6 からは玉座が破片の状態で発見され、修復された玉座は首都の博物館に展示されています。 息を呑むような素晴らしい逸品で ピエドラス・ネグラスの芸術水準の高さが窺われます。 碑文から 785年に作られたとされますが、最後の王の支配者7 がここから 中庭 1 で行われる祭事を取り仕切ったのでしょう。

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    (Trono 1, exhibición de MNAE)


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 (Vista noreste)

これは中庭の北東側で、東側には J-7 の階段があり、上は中庭になっていたようです。 写真が小さくて分かり難いですが、左側には J-6 の柱と壁の一部が見え、更に上の段には広場 2 の建造物 9 の壁面が広がります。


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 (Resto de Estructura J-6 vista del lado este)

J-6 の東側の階段(見学者用に設けられた)を登って上の段にあがります。 写真は東側から見た J-6 の側面で、 中央に見える壁の奥で玉座が発見されたそうです。

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 (Patio 1 vista de parte superior)

中庭 2 の高さまで登って、中庭 1 を見下ろした所です。 左に中庭 1、中央が J-6、右隅に J-9 の石組みが見えます。

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 (Patio 2 vista de este al oeste)

これは建造物 J-9 の背面に広がる中庭 2(Court 2)で、もう少し奥行きがある筈なのですが。

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 (Primera crujía de Estructura J-9)

地図で間取りが確認出来ますが、建造物 J-9 は中庭 1 の J-2 同様に部屋が東西に2列並び、両端に各1部屋付け加えられていましたが、 現状は写真の通りで、南に面した前列には角柱と壁面が残されます。

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 (Patio 1 vista desde J-9)

J-9 から南を見下ろすと木々の間から中庭 1 が覗けます。 右側の木の根元辺りが J-6 で玉座が発見された所です。

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 (Lado este y oeste de la crujía posterior, Estructura J-9)

J-9 の北側の後列は天井は崩落していますが、壁面はかなり残されていて、写真左は東方向、右が西方向です。

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 (Lado este de Patio 2, Estructura J-12 ?)

中庭に戻り東方向です。 建造物 J-12 があった筈ですが、露出している石材はその一部なのか それとも単なる瓦礫なのか?

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 (Lado norte de Patio 2)

こちらはアクロポリスが上に伸びている北方向で、良く見ると奥に石組も一部見えますが、手前は瓦礫のように見えます。

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 (Entrada a la Estructura J-11)

東側の坂をあがっていくとマヤアーチの戸口が見え、これが中庭 2 北側の建造物 J-11 でした。

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 (Banca del este y la puerta, J-11)

中庭 2 は 1 より高い位置にあり、より重要で限定された区域になり特権階級の居所として使われたようです。 マヤアーチの入り口を入ると すぐ左に大きなベンチ(左の写真)が当時のままの姿で残されていました。

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 (Cuartos de la cruj'ia posterior de J-11 vista de oeste a este)

J-11 の東西の幅は J-6 より短いですが、2列並ぶ居室は奥行きがあり、壁が厚い頑丈な造りになっていて、ピエドラス・ネグラスで 重要な宮殿のひとつだったようです。 写真は後列の東方向です。

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 (Cuartos de la cruj'ia posterior de J-11 vista de este a oeste)

こちらは同じく後列の西方向です。 西端の独立した部屋はほぼ失われているようです。

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 (Banca del lado oeste, J-11)

ベンチは西側にもうひとつあり、見取り図にベンチの位置が印されていますが、同じものを別の方向から見た所です。 非常に大きなベンチで王侯貴族に使用されたものでしょうが、誰が寝ていたのでしょう?


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 (Estructura J-21 ?)

J-11 の西側に建物があり、盗掘抗のようなものが見えますが、多分建造物 J-21 の一部になるかと思います。 この辺りまで来ると崩れた建物ばかりで何処にいるのかだんだん判らなくなります。

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 (Estructura J-21 ?)

J-11 の西側に J-11 と直角に建てられた J-21 がありますが、上の写真はその西側(背面)、下は南側の部屋、 だと思います、今一つ定かでありませんが。

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 (Patio 2 vista de parte superior)

この辺りから見下ろすと、中庭 2 の J-9 の東側が見えました。 J-11 との間には緑に覆われた瓦礫の山が あったように見えます。



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 (Parte superior de Acópolis)

かなりアクロポリスの上まで登ってきました。 アクロポリス最上部の写真をパノラマ合成してみました。 多分左から J-20、J-23、J-22 になるのだと思います。 案内板が設置してあり、1890年代から今日に至る ピエドラス・ネグラスでの調査の歴史が簡単に紹介してありました、それだけです。

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 (Costado de Estructura J-23 ?)

更に上へ。 階段の右に見える石組は多分 頂上の建造物 J-23 になるのだと思いますが、多分です。

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 (Templo superior de Estructura J-23)

そして遂に最上部の J-23 に到達。 博物館の復元模型では J-23 は三層の基壇を持つ神殿ピラミッドになっており、 残されているのはその上部神殿になるものと思います。 そしてここに タチアナ・プロスコウリアコフのお墓が。

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 (Lápida de la Tumba de Tatiana Proskouriakoff)

マヤ文字解読とマヤの歴史解明に多大な貢献をした ロシア系アメリカ人の女性マヤ考古学者 タチアナ・プロスコウリアコフは 1985年に 76歳で亡くなります。 死後 彼女の遺言でここに埋葬される事になりますが、治安上の問題から 1998年になって やっと遺骨の移送とお墓の設置が実現されたそうです。

近くにあったベゴニアの花を一輪捧げてきました。

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 (Templo superior vista de este a oeste)

これは東方向から見た上部神殿で、中央に見える壁の裏側に墓碑銘が埋め込まれていました。

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 (Se domina vista maravillosa de Rio Usumacinta)

アクロポリス最上部から見下ろしたウシュマシンタ川。 川の流れはいつも変わることなく…、
マヤの時代も、そして今日も。


ピエドラス・ネグラスでの滞在時間はおよそ3時間半。 昼前にボートに乗船し、 フローレスのホテルに着いたのは既に太陽が沈んで夕方の7時近くでした。 大変でしたが、やっと長年の夢が叶いました。



ピエドラス・ネグラスは調べ物も多く手間取り長編になりました。


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ピエドラス・ネグラスまで足を運んでみようと思う方は少ないと思いますが、念の為 旅行会社とコンタクト先を 紹介しておきます。 国境の村、コオペラティバ・ラ・テクニカにある旅行会社がアレンジしてくれると思います。 以下コンタクト先です。 写真右がロズメリさん。
   Ms. Rosmery Ramirez,
   Ruta Maya Usumacinta  turismolatecnica@gmail.com 




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