マヤ遺跡探訪
AGUATECA
アグアテカは ペテシュバトゥン湖の南にある断崖、絶壁に守られた要塞都市でした。

7世紀に始まったペテシュバトゥン地域での 騒乱の中、ドス・ピラスの双子の首都として発展し、761年のドス・ピラス陥落後にはドス・ピラス王朝の拠点となります。 しかしその 繁栄も長く続かず、810年頃にはアグアテカも敵の襲撃を受けて放棄されたようです。

2004年から建造物の修復作業が着手され、ペテシュバトゥン地域では最も整備された遺跡公園になっています。
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     (訪問日 2010年11月26日)
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 (Vista aérea de Región Petexbatún con la ubicación de las ruinas principales)

まず地図で場所の確認。 アグアテカはプンタ・デ・チミーノから直線でおよそ南へ 5Km です。

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 (Escarpa de Aguateca)

プンタ・デ・チミーノを早朝ボートで出発、 ペテシュバトゥン湖を抜けると切り立った断崖が見えてきて、アグアテカはこの断崖の上です。

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 (Llegando al sitio de Aguateca)

石灰岩の切り立った崖を見ながら、ボートは最後の細い水路へ。 300m 位の水路を船底を擦らないように徐行しながらアグアテカの 船着場へ向います。

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 (Ruta acuática a Aguateca)

ペテシュバトゥン湖の先はかなり蛇行していているので 5Km 以上の行程になりますが、20分位でアグアテカ到着です。  修復が 進んだ為、GOOGLE EARTH でも建造物が点在しているのが確認出来ます。 画像クリックで拡大出来ます。

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 (Embarcadero de Aguateca)

船着場でボートを降ると斜面に階段があり、これを登っていくと直ぐ先がビジターセンターでした。

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 (Panel en el Centro de Visitantes)

ビジターセンターの前には Bienvenido (ようこそ)と書かれた遺跡の説明パネルがありました。 アグアテカの古い名前は キニチ・パ・ ウィツ(光り輝く山の割れ目)だったそうです。 古典期後期にこう呼ばれていたかはわかりませんが、山と割れ目を利用した要衝に築かれた 街でした。

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ビジターセンターは 2004年からの遺跡修復に併せて整備されたコンクリート製の建物ですが、用意された沢山の説明パネルは床に置かれた ままで、まだ中途半端な感じです。 遺跡のイラスト地図があったので、これを地図代わりに利用させて頂きます。

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 (Réplica de Estela 19 y camino hacia Mirador)

現在位置は②のビジターセンターを出たところ。 ここから地図の西へ伸びる赤線を辿ると、そのまま遺跡エリアに出るのですが、 北へ向う青い線を通ってまずミラドール(展望台)へ向います。

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          (Réplica de Estela 19)

その前に ここに置かれた石碑について。 これは石碑16の複製で、633年の日付がタマリンディートの王と共に刻まれていおり、ドス・ピラス が侵入する前はアグアテカはタマリンディートの領地だった事になります。 この石碑は中心から離れた谷間で発見されており、ドス・ピラス 王朝により廃棄されていたのでしょうか。

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 (Ruta para Grieta)

遺跡エリアの前にミラドールへ向うのは、街の防御に使われた地溝(丘陵上にできた地面の深い割れ目)を確認する為です。  「割れた山の細道」と題された案内板がありました。 案内板の注意をよく読むとこのコースは 1360m の行程で所要時間1時間とあり、 身体条件良好なる事と書いてあります。 帰ってから読みました。 (^-^;

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          (Parredón a la mano izquierda)

左手に断崖の岩肌を見ながら北へ、まずミラドールへ向います。 崖は石灰岩質で白っぽい壁になります。

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 (Laguna de Petexbatún vista desde Mirador)

ミラドールは展望台を意味し、その名の通り展望が開け、東側にペテシュバトゥン湖も望めます。

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 (Formación de Grieta)

ミラドールから回り込んで⑬の地溝 (スペイン語で Grieta) の前に出ます。 また案内板があり、ここが Grieta Principal、つまり 主地溝、長さ 100m、高さ 30m、幅が平均で 2m と書いてあります。 何千年も前の地震で丘陵に割れ目が 出来たものだそうです。

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 (Entrada a la Grieta Principal)

写真で見るとこれ。 ここが主地溝の入口で、底の見えない深淵が口を開けています。 ここを降りるの?と多少躊躇いもあり ましたが、これはアグアテカの防衛システムの要。 行ってみる他ありません。

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 (Bajada y subida dentro de Grieta)

降り始めたところで写真を1枚。 結構な急斜面で滑らないようゆっくり降りていきます。 一番底は少しぬかるんでいて 湿気が感じられます。 アグアテカへ侵攻しようと地溝の上に橋をかけても落とされたら奈落の底、天然の要害です。 右の写真は 瓦礫の上の登り坂。 雨が降ってくると登るのは難しそうです。

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 (Otra bajada y subida)

急斜面を登りきってホッとしたのも束の間、また下りです。 もう戻るに戻れず再度地の底へ。 アルフォンソ君の助けも 借りて何とか地溝を脱出、地底の旅は 20分強でした。 実は目の前にもうひとつ地溝が口を開けていてメイン・プラサまで 続いているそうですが、ここはもう宮殿のグループ近く。 ここからは地上の旅を!

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 (Grieta para el sistema de defensa)

地上に出たところにあった説明パネル。 マヤの人々はこの地形の特性を最大限 防御の為に利用していたとの事。  地溝は更に 700m 伸びているようです。 そして最深部は 70m !  冒険旅行ではないのでもう結構です。 

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 (⑥ Casa Larga de Reunión)

⑬地溝から地上にあがり、細長い建物に出ました。 ⑥ Casa Larga de Reunión (集会用の長い家)の遺構です。 写真の右側(西側)に 広場があり、この辺りが宮殿のグループです。

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 (⑥ Casa Larga de Reunión)

入口は10ヶ所あるものの、中は仕切られておらず、南北に広い空間が手前と奥に2列並びます。 独特な間取りから貴族の集会用に 用いられたと考えられています。

写真に靄がかかったように見えますが、地溝から出てレンズが湿気で曇ってしまった結果です。フィルターを外して湿気を拭き取るだけ で事なきを得ました。

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 (Patio en Grupo Palacio)

建造物⑥番から見た宮殿のグループの中庭です。 中庭の南側は階段だけ修復され、西側には ⑤ Residencia de la Familia Real(王家の家)が修復されています。

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 (Grada en el patio)

左の写真は南側の階段です。 右は ⑤ の王家の家の説明パネルで、この建物がアグアテカで最も手の込んだ建物で石で屋根もつけられており、 王の住居だっただろうとの事です。 ここからは目ぼしい出土品は全くなく、王はいち早く避難したと考えられています。

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 (Panel en Grupo Palacio)

このアグアテカ遺跡、ナショナル・ジオグラフィックで「焼き尽くされた宮殿」として紹介された事があります。 マヤの戦いは勢力 争いであり、相手を壊滅させる事はなかったと考えられていますが、ここでは徹底的に破壊され火を放たれたようです。

建造物 ⑤ からは出土品はなかったと言う事ですが、パネル右上の建造物 M7-22 からは王が用いた儀礼用の品々がまとめて発見され、逃亡に 先立って隠されたと考えられています。 儀礼用品には布を土で固めた仮面も見つかっていて、このパネルにも写真が示されています。

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 (⑤ Residencia de la Familia Real)

正面から見た建造物 ⑤ とその居室を上から覗いた細部です。 戦乱の世に作られた割には壁も厚く確かにしっかりした造りと言え ます。

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 (⑦ Casa Comunal y ⑧ Casa del Nicho)

建造物 ⑤ から南へ道路が伸びていて その左右に貴族の居住区が広がり、建造物 ⑦、⑧、⑨、⑩、⑪ が発掘修復されて います。  ⑦ Casa Comunal (公共の家)、貴族が集まって儀礼を行ったと思われ、パネル中央にある香炉他、多くの土器等が 焼かれた状態で見つかっています。 ⑧ Casa del Nicho (壁龕の家) は高位の貴族の住まい。

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 (⑨ Casa Larga de Cinco Cuartos y ⑩ Casa de la esposa de un noble)

⑨ Casa Larga de Cinco Cuartos (5つの部屋を持つ長い家)、貴族の家でやはり焼かれているそうですが、工芸の跡があった そうです。 ⑩ Casa de la esposa de un noble (貴族の妻の家)、同じく焼かれています。

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 (⑪ Casa de las Columnas)

⑪ Casa de las Columnas (柱の家)、王宮から南に伸びた家の南端で やはり貴族の住まいでした。 左上の写真に丸い柱が2本あります。

ここまでが宮殿のグループとその南に広がる貴族の居住区で、地溝の東側。 ここから (22) の橋を渡って地溝西側のメイン・ プラサへ。


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 (Entrando a Plaza Principal)

写真の石組みは ⑮ Templo Dinastico(王家の神殿)の南東側。 この横を通ってメイン・プラサに出ます。

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 (Plaza Principal)

メイン・プラサは一般民衆を集めて儀礼を執り行った祭祀センターで、大型の建造物が広場を囲みます。 と言っても現在は生い茂った 林で見通しが利きませんが、説明パネルのような建物の配置になっています。  ドス・ピラスを追われた後のドス・ピラス王朝の 祭祀センターです。

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 (Estructura L8-6)

神殿 ⑮ の南側にある未修復の神殿 (L8-6) の前に石碑19のレプリカが置かれています。 実物は横にある屋根の下でしょうか。   1999年に非常に良い状態で見つかったものの、その後バンダリズムにあって壊されてしまったそうです。

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 (Estela 19 réplica)

石碑19はタン・テ・キニチ王のもので、石碑の記述から 770年から 802年にかけて王の地位にあった事が確認されていて、4代目ドス・ ピラス王、カウィール・チャン・キニチの後を継いだものと思われます。 石碑にはアグアテカ崩壊の 30年位前にあたる 775-778年の 日付があるそうです。

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 (⑮ Templo Dinastico)
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未修復の神殿の北隣が ⑮ Templo Dinastico(王家の神殿)で、前に石碑を伴います。 現在立っているのは複製2本ですが、周りには 壊れた石碑や祭壇が散らばります。

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 (⑮ Templo Dinastico)

王家の神殿は 731年に建設され、メイン・プラサでは一番古い建造物になるようです。 731年はドス・ピラス王朝ウチャーン・キン・ バラム (在位 727-741 AD) の時代にあたり、ドス・ピラスとアグアテカはドス・ピラス王朝の双子の首都でした。

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             (Panel de Estela 3)

石碑3は、王家の神殿が建てられた 731年に奉納されたもので、刻まれているのはウチャン・キン・バラム王です。 しかしこの石碑は 60年代に盗難にあったそうで、現地にはこのパネルだけ置かれています。

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             (Réplica y dibujo de Estela 2)

2本置かれている複製の内 1本が石碑2で、735年のウチャン・キン・バラム王のセイバルに対する戦勝が刻まれています。 これは ドス・ピラスの石碑2と同じ構図の小型版で、足元の縛られたセイバル王も同じです。

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      (Réplica y dibujo de Estela 1)

もう1本は石碑1で、ウチャン・キン・バラムを継いだカウィール・チャン・キニチが 741年の即位を記念して奉納したものです。 複製では 右手の部分が崩れ落ちていますが、模写で手から血を流して放血儀礼を行っている様子がわかります。

石碑1も2も実物に似せて割れたものを継いでありますが、攻め入った敵方に壊されたものと思います。

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 (⑲ Casa de Consejo)

王家の神殿の北隣は ⑲ Casa de Consejo、会議の家? 議会とでも訳すのでしょうか? まあ後からつけた名前ですが。 王家の神殿と 繋げてパノラマ写真にしました、右端に王家の神殿が見えます。

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 (⑱ Casa Larga de Sede de Poder)

メイン・プラサの北辺は ⑱ Casa Larga de Sede de Poder、権力の本部ですから、政府若しくは役所? 

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 (⑰ Templo Inconcluso)

そしてメイン・プラサの西側は一番規模の大きい建造物で ⑰ Templo Inconcluso、未完の神殿です。 24mm広角でも収まり切れない ので2枚写真を繋ぎました。 少し歪みます。

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 (⑰ Templo Inconcluso)

この神殿は太陽の沈む広場西側にタン・テ・キニチ王が自らの霊廟を建てさせていたと考えられ、前面の階段の奥に残る窪みは墓室を意図 したものだったようです。 結局 王は霊廟に眠る事はなく敵襲を受けてしまった訳ですが。

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 (⑰ Templo Inconcluso)

未完の神殿の前部中央には彫刻のない石碑が割れて横たわっています。 アグアテカは 810年頃に敵の襲撃で最後を迎え、 この神殿もそして石碑も未完のままで、遂に完成する事はなかったと言う事になります。

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 (Fragmentos de estela y altar)

メイン・プラサの中央や南側には更に石碑や祭壇の残骸が散らばっています。 

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 (Plaza Principal)

最後に王朝の神殿にもう一度登ってメイン・プラサを見下ろしてみました。 神殿の前に建てられた複製の周りにも石造物の残骸が…。

それにしてもアグアテカを襲った勢力は一体どこだったのか、犯人探しをしてみたくなります。 これは遺跡での説明にはなく、 いろいろな文献でもあまり触れられていないようで、敢えて想像を働かせてみると…。

761年にドス・ピラスを襲ったのはタマリンディートとアロヨ・デ・ピエドラだったようですが、 810年には既に衰退しています。

それではティカルとカラクムルの二大スーパーパワーはどうでしょう? カラクムルはかつての盟主国だし、ティカルは家系を同じく する王朝で7世紀から8世紀の騒乱の中でも殲滅戦はなかったし、9世紀の初めには両者共に衰退期に入っていたと思われるので、可能性は 薄いでしょうか。

9世紀に入って勢力を保っていた残る容疑者は、セイバル、マチャキラ、ウカナル、カラコル辺りになりますが、735年にドス・ピラスに 蹂躙されたセイバルが一番怪しいように思います。 交易を通じてメキシコ中央高原の文化を持ち込んだプトゥン人の痕跡がセイバルの石碑 に認められ、火を放って抹殺してしまうというのはプトゥン人の発想のようにも思えます。 さて犯人はセイバル人か、プトゥン人か、 それとも両者の共謀か…。


アグアテカは地溝探検を含めて 約3時間の滞在でした。 チミーノ・アイランド・ロッジに戻り、シャワーを浴びて ゆっくり昼食。  2泊3日のペテシュバトゥン地区遺跡訪問を無事終了して、フローレスへ戻ります。

フローレスでは 前回 2003年に修復途上だった ヤシャー遺跡 を再訪します。


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