マヤ遺跡探訪
QUIRIGUÁ
738年にコパンの18 ウサギ王を捕らえて供犠にした事で有名なカック・ティリウ・チャン・ヨアートのキリグア。 王朝の創設は 426年とされ、同年にコパン王朝がヤシュ・クック・モにより創設されますが、おそらくそのコパンの出先としてヤシュ・クック・モ の後見によりキリグアに初代トク・キャスパーが即位します。

キリグアが歴史の表舞台に立つのは 738年の下克上からで、コパンの権威を継いだカック・ティリュウは壮麗な石碑群を建立し、そこに 記された歴史的記述と石造物自体の美術的価値から 1981年に世界遺産に登録されます。 最近はアクロポリスの発掘整備も進み建物 を飾った彫刻も一部 目にする事が出来ます。

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     (訪問日 2010年11月23日)
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 (Entrada al sitio arqueológico de Quriguá)

キリグア遺跡はグアテマラ東端のイサバル県にあり、ホンジュラスのコパンが南 50Km 位にある為、1泊して両方の遺跡を訪問 するのが一般的です。 以前 コパン単独で行ってしまいキリグアが未訪問で残った為、今回非効率ですが敢えてグアテマラ・ シティーから日帰りです。 直線で片道 180Km 位、高速が未整備の為、車で片道4時間近くかかりました(休憩含む)。

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 (Vista aérea del sitio)

GOOGLE EARTH で遺跡の確認。 この辺りは解像度が高く、石造物につけられた保護の屋根はひとつひとつ確認出来ます。 南北に広がる 広場と両脇の森が遺跡公園で、その外側は広大なバナナのプランテーションで、バナナが整然と植えられています。 (1910年から周りの 土地はバナナ栽培の為にユナイテッド・フルーツ・カンパニーが所有。)

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 (Placa del Museo del Sitio con logo de UNESCO y hacia a la Plaza)

キリグアの存在は 1840年にヨーロッパで既に報告されていますが、専ら関心は石造物、アクロポリスの発掘は 1974年からです。  遺跡の博物館は 2000年に出来たのでしょうか、ブロンズの銘板にはユネスコのロゴもあります。

世界遺産認定は 1979年のティカルに次いでマヤでは2番目に古い 1981年。 コパンはその1年後の 1982年で、国が違うので遺跡の重要度 の順ではありませんが、ここでも下克上です。

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 (Rótulo de explicación de Quiriguá)

朝8時前に出たのにもう正午近く。 急ぎ遺跡エリアへ向います。

これは広場手前の案内板で、モタグア川岸のキリグアが 翡翠や黒曜石を産するグアテマラ高地とカリブ海岸を繋ぐ重要な交易路にあった事、 426年にコパンにより創立されたキリグアが 738年にコパンから政治的、経済的独立を勝ち取った事が説明されます。 以後交易による 権益はキリグアの手に。  当時のモタグア川はキリグアの直ぐ西側を流れていたそうですが、恐らく地震のせいで流れが変り、 現在は遺跡の南 1-2 Km の所を蛇行しています。


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遺跡の地図は、赤が石碑、明るい緑が祭壇、濃い緑が獣形神を表わし、青の番号はアクロポリスにある建造物番号を示します。 遺跡の入口は 地図の左上になります。

石碑を始めとする石像記念物はカトゥン0年を基準に5年毎に設けられ、古い順に並んでいると判り易いのですが、ここでは広場の北から順を 追って…。 最初に目にするのが石碑Aになります。


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               (Estela A  9.17.5.0.0. 6 Ajaw 13 K’ayab',  Diciembre 29, 775)

広場には石碑が9本あり、その内7本はカック・ティリュウにより建立されたもので、まずその中の1本 775年の石碑A、彫られて いるのは勿論カック・ティリュウ自身です。

カック・ティリュウ・チャン・ヨアートは 724年の即位から 738年のコパンからの独立を経て、785年
7月までの長きにわたりキリグア王として君臨しました。

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     (Estela A)

石碑Aの高さは およそ 4m で、左上から順に、南前面、西側面、北裏面、東側面です。 東側面は長期暦の導入文字から始まり9バクトゥン… と奉納の日付を記し、西側面に移ってカック・ティリュウの年齢が5カトゥン(79-98歳)に入っていて、コパンを倒して支配下に置いた事 等が記されているそうです。 自分で解読したのではないので定かではありませんが。


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               (Estela C  9.17.5.0.0. 6 Ajaw 13 K’ayab',  Diciembre 29, 775)
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隣の石碑Cは石碑Aと対をなし、大きさもデザインも石碑Aとほぼ同様で、併せて 775年に奉納されたものです。 マヤ創生となる 13バクトゥンの始めの日が記されていて、2012年世界終末説に関係するものとして最近脚光を浴びている石碑です。

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 (Estela C)

左上がカック・ティリュウ王の肖像が彫られた南面、下がその裏の北面、マヤ創生の 13.0.0.0.0. は写真右下の東側面にあります。  右上の写真で 13.0.0.0.0. を黄色い枠で囲みました、下の写真と見比べてみて下さい。 13 は棒2本と点3つで示され、その後は ゼロなので棒と点はありません。 黄色い枠に続く部分は 4アハウ、8クムクで、点が4つ、棒1本に点3つと続きます。

マヤ創生に続けて 455年のトゥトゥーム・ヨール・キニチ王の記述があり、マヤ創生からカック・ティリュウに繋がる自らの王朝の 正当性を主張するものでしょうか。


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  (Estela D  9.16.15.0.0. 7 Ajaw 8 Pop, Febrero 19, 766)

石碑Dは 766年に奉納された約 6m の石碑で、南を向いたカック・ティリュウの顔と体が大分磨耗している以外は素晴らしい状態で残されて います。 写真上段は左から、西面、北面、東面で、東西の側面は全身像の見事な神聖文字が刻まれています。

下段の画像は全身像文字の拡大で、マヤで最も洗練されたという表現が頷けます。 暦の導入文字の下で4番目と5番目の文字にあたり、 ウィナルとキンかも知れません。
因みにグアテマラの 10 セント コインには石碑Dが描かれています。画像



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 (Zoomorfo B  9.17.10.0.0. 12 Ajaw 8 Pax, Diciembre 2, 780)

カック・ティリュウの最後の石像記念物は石碑ではなく 780年に奉納されたこの獣形神Bで、長さが南北に 3.7m、高さ 1.8m の巨大な 石彫りです。 写真の南を向いた面からはカック・ティリュウが顔をだし、周りには赤い彩色が認められ、作られた当時は全体が 真っ赤に塗られていたようです。

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 (Zoomorfo B)

獣形神は後に製作される G、O、Pと併せて全部で4体あり、コパンの彫刻祭壇をキリグアで独自に発展させたものと言われます。  マヤの宇宙間を表わしていると言う事で、ワニやカメ、ジャガー等が彫られますが、マヤの宇宙間が今ひとつよくわからないので、 ここでは深入りは避けます。

写真は左上から、西面、北面、北東面、東面です。

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 (Vista hacia sur, Estela F, Zoomorfo G y Estela E)

獣形神Bの南側にまだ沢山の石像物があり、写真左が石碑F、中央の低い屋根が獣形神Gで、右が一番高い石碑として有名な 石碑Eです。
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 (Estela F y Estela E)

左が石碑F、761年 高さ 7.3m、 右が石碑E、771年 高さ 8.1m で、両方とも北側から見た写真です。 石碑Fは建立時には最も高い 石碑でしたが、10年後に更に高い石碑Eがつくられ、こちらは地中に埋まった部分をふくめると 10.7m の長さになるそうです。

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 (Estela E  9.17.0.0.0.  13 Ajaw 18 Kumk'u, Enero 24, 771)

石碑Eの奉納は 9.17.0.0.0. つまり丁度17カトゥンにあたります。 5年ごとに石造物を奉納していますが、20年のカトゥンは やはり時の区切りになるので、巨大石碑を頑張ったのでしょうか。

1917年に地盤が緩み倒れてしまった石碑を 1934年に元の位置に戻そうと試みた際、ロープが切れて石碑はふたつに割れてしまった そうです。 現在はセメントで繋ぎ直して修復してあります。

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 (Estela E)

左が北を向いたカック・ティリュウで、右が南を向いたカック・ティリュウ、 首の辺りで割れた石碑を繋いだ跡がわかります。  頭飾りは異なりますがほぼ似通った像が両面に彫られて います。 775年に作られた石碑A・Cと共にカック・ティリュウ時代の最後の石碑になり、キリグアでの石碑様式の完成型と言えます。

顔は彫りが深く3次元的ですが首から下は平面的で、コパンの 18ウサギ王(ウアシャクラフーン・ウバーフ・カウィール)の石碑と 比べるとやはりコパンの方に軍配があがるように思います。


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 (Estela F  9.16.10.0.0. 1 Ajaw 3 Sip, Marzo 17, 761)

石碑Fは 石碑Eの10年前の 761年に建てられ、南北両面にカック・ティリュウが彫られ、石碑Eとほぼ似た造りになっています。  北面の王の肖像は多少磨り減っていますが、南面は写真上に見えるように非常に良い状態で残されています。 写真左下が南面、右下は 東面で、石碑自体北東側に傾いています。


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 (Zoomorfo G  9.17.15.0.0. 5 Ajaw 3 Muwan, Noviembre 6, 785)

ここまでの石造物は全て広場の北側にあり カック・ティリュウが奉納したものですが、この獣形神Gはその中の巨大石碑E と F を南から 見守るような位置に据えられ、 カック・ティリュウの死後、後を継いだ シュル・シエロ(空シュル)(在位 785-800年頃)が先王に捧げた ものとされます。 写真は獣形神の南西側。

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 (Zoomorfo G)

高さは 1.2m ですが、長さは 4.4m にもなり、これも巨大な石彫りです。 写真は左上から西面、北面と北西面、北東面で、北と南から カック・ティリュウが顔を覗かせます。 四方に鉤爪のついた猫科の動物(ジャガー?)の足が見えますが、上面には斑点のある皮膚や 大きな目玉(写真左下)があり両生類(カエル?)が彫られているようです。

シュル・シエロが亡くなったカック・ティリュウに捧げたと言われますが、亡くなったのは 785年7月27日、獣形神の奉納日が 15トゥンの 記念日 11月6日。 3ヶ月ちょっとでこれだけの巨大獣形神が完成するとも思えません。 カック・ティリュウが準備していた獣形神を、 ご本人が崩御したので、後継者が碑文を奉納文に書き換えた? そんな気もしないでもありません。


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                    (Estela H  9.16.0.0.0. 2 Ajaw 13 Sek,  Mayo 9, 751)

獣形神Gから南へ進むと西側に石碑Hがあり、広場に背を向ける形で立っています。 751年に奉納されたもので、キリグアの広場にある 一番古い石碑になります。 当時は広場の西側にモタグア川が流れており、石碑Hはこの川を見下ろす形で立っていた事になります。

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 (Estela H)

写真左上は西を向いた石碑の正面、まだ髭のないカック・ティリュウが彫られています。 その右が広場に向いた石碑の背面で、 斜めに彫られた神聖文字は風化が激しく解読が難しいようです。 下段は北面と南面で、石碑は正面から両側面に回り込む形で 同じモティーフが回り込んで彫られていて、ラップ・アラウンド形式と言われます。 石碑の高さは 5.2m あります。


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 (Vista hacia sur, Estela I en el centro y Estela J a la derecha)

石碑Hから南東方向に更に石碑が3本。 手前が石碑 I、右が石碑J,左奥が石碑 Kになります。


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            (Estela I  9.18.10.0.0. 10 Ajaw 8 Sak, Agosto 19, 800)

5年毎の石像記念物は 780年の獣形神 Bからそれまでの石碑から獣形神となり、785年の前述の獣形神 Gから、790年獣形神 O、795年獣形神 P (全てシュル・シエロの時代) と獣形神が続きます。 しかしシュル・シエロを継いだハーデ・シエロ(翡翠の空)(在位 800-810年頃) の時代になってまた石碑に戻り、これが 800年の奉納物の石碑 I です。

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         (Estela I)

写真左上から順に西面、北、東、南面で、正面は石碑Hと同じ西面です。 石碑は小振りになり王は台座がなく地上に直接立つ形で、 肖像はハーデ・シエロ、顎にヒゲがありません。 石碑の北側上部が欠けていますが、頭飾りの立派な鳥の羽は石碑の背面まで垂れ下がって いるそうです。

碑文にはカック・ティリュウの時代の栄光とコパンに対する勝利に加えて、カラクムルとの接触について触れられているそうで、コパンに 対する反逆にはその背後にカラクムルとティカルの勢力争いがあった事が示唆されます。


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                (Estela J  9.16.5.0.0. 8 Ajaw 8 Sotz', Abril, 12, 756)

頭が混乱しますが、またカック・ティリュウの時代に戻って、756年の石碑J、高さは 4.9m です。 761年の石碑Fはヒゲがありますが、 756年にはまだ生やしていません。

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 (Estela J)

石碑は西側正面が王の肖像、東側の背面には見事な頭字体で奉納文が彫られています。 首から上は石碑H同様、ラップラウンド様式で 王の肖像が側面まで彫りこまれ、側面下部には奉納文が続きます。

背面の奉納文は大きな暦の導入文字の下に4列にわたる頭字体で綴られ、この石碑が 756年に奉納された事、カック・ティリュウが 捕獲 斬首したコパン13代王を継いで14代王を名乗っている事等が書かれているようです。

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 (Estela J)

写真左が北面、右が南面で、続く奉納文にはコパン王も登場します。 石碑Jの碑文解釈は 「マヤ文明はなぜ滅んだか?」 (ニュートン・ プレス 中村誠一)の 114頁で詳しく説明されています。

青枠で囲まれた A1-A3 はディスタンス・ナンバーで 738年事件の日付、緑枠の B3 が斬首、続く黄色い枠の A4-A5 は18ウサギ王とコパンの名前、 B5 が受け取るを意味する動詞で、 A6 はその目的語のカウィール、下の3文字(B6-B7)がカック・ティリュウとキリグアだそうです。   コパン王を打ち倒してコパンの神像のカウィールを手にしたという、自らの偉業が綴られている訳です。


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                (Estela K  9.18.15.0.0. 3 Ajaw 3 Yax, Julio 24, 805)

石碑の最後はハーデ・シエロの石碑 K 805年。 800年の石碑 I 同様小型です。

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 (Estela K)

形式も石碑 I と同じで、王の肖像が西面と東面に彫られ、奉納文が北面、南面にあります。 写真は左上から順に西面、北、東、南面です。  奉納文は日付のみで、キリグア自体の勢力の衰えを示すようです。 5年毎に石造物を奉納する習慣はこの石碑をもって終わったのかも しれません。 次の 810年は切れ目の良い 19 カトゥンになりますが、その日付はアクロポリスの建造物に見られるだけのようです。


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 (Estremo sur de la Plaza)

石碑 K から南のパノラマ画像です。 まだ石造物があり、こうして説明文を書いていてもいい加減疲れてきますが、残るは 古い祭壇が ふたつと、祭壇と獣形神がセットになった二組の奉納物です。 頑張りましょう。

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 (Estremo sur de la Plaza)

正面に見えてくる石組みはアクロポリスに登る階段で、左手前の屋根の下に古い祭壇がふたつ、祭壇と獣形神のセットは右奥の階段際です。  右手前の屋根は休憩用で屋根の下はベンチです。

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          (Altar M  9.15.3.2.4. 4 Ajaw 13 Yax, Septiembre 15, 731)

祭壇Mは長さ 1.25m、高さ 0.7m と小型です。  731年とあるので 724年のカック・ティリュウ即位後で 738年の下克上の前の祭壇という 事になります。

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 (Altar M)

ジャガーが彫られ、後頭部から神聖文字が4列にわたって刻まれていて、既にキリグアの紋章文字の使用(独立の企て?)も始まって いるようです。


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          (Altar N  9.15.3.2.4. 4 Ajaw 13 Yax, Septiembre 15, 731 ?)

祭壇Nは祭壇Mの北側に並んでいて、長さ 1.8m、高さ 1.2m で祭壇Mよりは少し大型です。 石碑Mと同じ日付に ”?”が付けられ ていて、同じ時期の祭壇だろうが不確実という事のようです。

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 (Altar N)

亀の甲羅を背負って片側から生きた人間、もう片側からは骸骨が顔を出していると説明されます。 あまり詳しい事はわかりません。


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 (Zoomorfos O y P)

階段の直ぐ脇に覆いがふたつあり、手前の覆いの下が祭壇Oと獣形神O,奥が祭壇Pと獣形神Pです。 共にカック・ティリュウの後を継いだ シュル・シエロの5年毎の記念物で、キリグアの石造物の最高傑作と言えます。

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            (Altar O y Zoomorfo O)

      手前(北側)が祭壇O、奥が獣形神Oで、ふたつ合わせて 790年に奉納されています。

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 (Altar O  9.18.0.0.0. 11 Ajaw 18 Mak, Octubre 11, 790)

始めに祭壇の方から。 祭壇Oは東西に 5m、南北に 3.8m、高さ0.5m の平たい大きな石で、上面がびっしり彫刻で埋め尽くされて います。 上の写真は西から、下の写真は北西側からみたところで、彫刻の北側3分の1 に人か神が東側を頭にして彫られ、南側の 3分の2には神聖文字が刻まれていますが、一見してどちらから見るのが正しいのか迷います。

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                      (Dibujo de Altar O)

FAMSI © 2005: Matthew G. Looper に キリグアの石造物の模写が公開されていて、祭壇Oを写し取ったものもあり、これを見ると少しは理解が進みます。  斑点のある巨大な蛇がとぐろを巻く上で神が躍動しているという説明がある一方、渦巻く雲の上に現れた稲妻の神という説明もあります。  北を向いた顔はジャガーの仮面をつけ、左手を振り上げ、右足蹴り上げて、踊っている様に見えますが…。

模写で白くなっているところは神聖文字が刻まれた部分で、文字の向きを見ると南を上にこの祭壇を見るのが正しそうです。  その記述にはシュル・シエロの即位の期日を含めてキリグアの歴史が記され、コパン18ウサギの捕獲にも触れられているようです。

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 (Zoomorfa O  9.18.0.0.0. 11 Ajaw 18 Mak, Octubre 11, 790)

祭壇Oの南側に併置される獣形神Oは、19世紀に発見された時は木の根が絡まっていたそうで、割れて風化が進んでいたものを その後補修して現在見る姿になっています。 写真上の南側がよく残され、顎の肉がなくなり骸骨のようになった怪物の面が彫られ、 下の列の神聖文字には 790年の獣形神の奉納日が記されているそうです。


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          (Altar P y Zoomorfo P)

         手前(北側)が祭壇P、奥が獣形神Pで、 795年に奉納されたシュル・シエロによる
         最後の奉納物になります。

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 (Altar P  9.18.5.0.0. 4 Ajaw 13 Kej, Septiembre 15, 795)

まず祭壇Pから。 サイズは不明ですが、祭壇O同様大きなもので、彫りが深く立派です。 非常に複雑な図像で、祭壇Oもそうですが、 横から眺めたのでは何が彫られているのか理解しづらいところです。

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                      (Dibujo de Altar P)   
これも FAMSI © 2005: Matthew G. Looper からの 模写で上から見てみましょう。 雨の神チャークがV字型に割れた地面から姿を現しているそうですが、V字のところに足があるのは判り ますが、頭は果たしてどれなのか? 模写を見ても判然としません。 横から実物を見ただけでは到底わかるものではなさそうです。 


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 (Zoomorfa P  9.18.5.0.0. 4 Ajaw 13 Kej, Septiembre 15, 795)

獣形神Pの方はとても良い状態で残されています。 幅 3 m、高さ 2.2 m あり、重さは 20 トンとの記述もあります。 写真は上から 北面の王の肖像、南面の神?の顔の彫刻、下段左が西面で、右は北西側になります。

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          (Zoomorfo P)

北面の王の肖像と南面の神の面以外に複雑な図像(山とワニが絡み合った?)が多くの神像と共に彫り込まれ、神聖文字は枠に収まった部分 以外に小判模様の中などにも彫られて、一体どう言う順序で読むのか、専門家にも難解なようです。


石像記念物は以上ですが、年代が前後してわかり難いと思います。 5年毎の記念物を古い順に並べてみました。

    Estela H     9.16.0.0.0.   2 Ajaw 13 Sek     May. 9, 751   K'ak Tiliw

    Estela J     9.16.5.0.0.   8 Ajaw 8 Sotz'     Abr. 12, 756

    Estela F     9.16.10.0.0.  1 Ajaw 3 Sip      Mar. 17, 761

    Estela D    9.16.15.0.0.  7 Ajaw 8 Pop      Feb. 19, 766

    Estela E     9.17.0.0.0.   13 Ajaw 18 Kumk'u  Ene. 24, 771

    Estela A     9.17.5.0.0.   6 Ajaw 13 K'ayab'  Dic. 29, 775
    Estela C     9.17.5.0.0.   6 Ajaw 13 K'ayab'  Dic. 29, 775

    Zoomorfo B   9.17.10.0.0.  12 Ajaw 8 Pax     Dic. 2, 780

    Zoomorfo G   9.17.15.0.0.   5 Ajaw 3 Muwan   Nov. 6, 785    Xul Cielo

    Altar O      9.18.0.0.0.  11 Ajaw 18 Mak    Oct. 11, 790
    Zoomorfa O   9.18.0.0.0.  11 Ajaw 18 Mak    Oct. 11, 790

    Altar P      9.18.5.0.0.  4 Ajaw 13 Kej     Sep. 15, 795
    Zoomorfa P   9.18.5.0.0.  4 Ajaw 13 Kej     Sep. 15, 795

    Estela I      9.18.10.0.0.  10 Ajaw 8 Sak    Ago. 19, 800   Jade Cielo

    Estela K     9.18.15.0.0.  3 Ajaw 3 Yax    Jul. 24, 805

カトゥン(20年)の変わり目の祝いは一般的ですが、キリグアでは5年毎(4分の1カトゥン)に石造物が奉納されました。  5年毎ですが、長期暦 1年=360日をベースにしているので、石碑E 771年(1月24日)、 石碑A 775年(12月2日) と西暦ではズレが 生じるケースも出てきます。

キリグアの石造物は 5Km 離れた石切り場から切り出して運ばれてきたそうです。 20トンにもなる石造物もあり、運搬も困難を 極めたものと思います。 石材はマヤで一般的な石灰岩ではなく砂岩だった為に、風化が少なく良い状態の石像物が残る事になります。



キリグア遺跡、既に超長編です。 後の建造物関連は手短に説明を加えて終わりにしましょう。


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                               (Juego de Pelota)

アクロポリス際の祭壇+獣形神 OとP の直ぐ北に球戯場があります、と言うか球戯場跡。 カック・ティリュウがそれまでの球戯場 をつぶしてアクロポリスを拡張した際、ここに新たに球戯場を設けたものですが、芝面がわずかに盛り上がっているだけです。

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 (Escalinata al Acrópolis)

アクロポリスの入口になる南の階段のパノラマ画像です。

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 (Estructura 1B-5)

上のパノラマ画像の左部分にある建造物 1B-5 の背面(写真左)と階段を登って同じ建造物の西側面(写真右)。

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 (Estructura 1B-5)

建造物 1B-5 の南に面した入口付近。 切り石はそれ程大きなものではありませんが、サイズが揃って隙間なく積み重ねられた 丁寧な作りでした。

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 (Estructura 1B-4)

獣形神Oからアクロポリスの階段を登り、南方向のパノラマ画像です。 右側(西)に建造物 1B-4 が見えます。

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 (Parte posterior de Estructura 1B-4)

建造物 1B-4 の裏側。 保護の屋根が付けられています。

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 (Decoración recuperada)

屋根の下に保存されている建物を飾ったモザイク装飾。 当時は直ぐ西側をモタグア川が流れていた為に、このアクロポリスの西の壁は モタグア川から見えたかもしれません。 モザイク装飾はコパンの球戯場などに見られる装飾様式に似ています。

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 (Parte sur de Acrópolis, vista desde oeste)

アクロポリスの南西角から東方向のパノラマ画像。 右の基壇上が建造物 1B-1 です。

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 (Estructura 1B-3)

アクロポリスの南西角から北側に回り込むと建造物 1B-3 の前面に出ます。 居室に入る入口はマヤ・アーチではなく横にまぐさ石 が渡されています。

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 (Hacia 1B-4)

建造物 1B-3 の前面から北方向。 保護の屋根は裏側で見たモザイク装飾の為のものです。

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 (Estructura 1B-4)

更に北へ、建造物 1B-2。 石造りのベンチもあり、貴族の居室だったでしょか。

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 (Estructura 1B-5)

建造物 1B-2 前から東方向が 既に見た建造物 1B-5 になります。

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 (Acrpólis, vista desde norte)

アクロポリスの北の基壇から南を見渡すと正面に保護の屋根が3つ見え、これが建造物 1B-1 の正面です。

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 (Estructura 1B-1)

建造物 1B-1 の前に幅の広い階段が付けられ、左右2ヶ所が柵で囲われていますが、ここには彫刻が嵌めこまれていました。  現在は殆ど崩れていて彫刻跡です。

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 (Escultura sobre la escalinata)

彫刻跡はこれです。 (^-^;

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 (Estructura 1B-2)

彫刻のある階段の右側(西)に建造物 1B-2 があります。

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 (Decoración en la parte posterior de 1B-2)

建造物 1B-2 の裏側には壁面モザイク装飾が一部修復してあります。

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 (Estructura 1B-1)

3つの入り口があるアクロポリスの中央の建造物 1B-1 。

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 (Las bancas con hieroglifos)

3つの入口の中は同じ造りで、正面のベンチには神聖文字が彫り込まれており、写真は上から順に東、中央、西の神聖文字です。  この中に 810年の 19カトゥンを祝う文字もあるようです。


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 (Pájaro Trogoz en Quiriguá)

これでキリグア遺跡を一通り見終わりました。 戻る途中に綺麗な鳥がひらひら飛んできて石碑に付けられた屋根の上に。  エルサルバドルの国鳥 Trogoz、和名はアオマユハチクイモドキ。 マヤの遺跡でよく見かける鳥です。

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               (Pájaro Trogoz con cola larga)

望遠レンズで追いかけるとうまい具合に長い尾を見せて木に留ってくれました! チョット息抜き。


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 (Altar L y Altar Q en el Museo)

帰り際に閉まる直前の博物館に滑り込みました。 480年の日付が読み取れる石碑Uや、652年の 11カトゥンを祝った祭壇L(写真左)等、 古い時代のキリグアを物語る遺物も展示されています。 アクロポリスで発掘された球戯場のマーカーQ と R(写真右はQ)や、 彫刻された石片、土器等もあり、ゆっくり見たい博物館です。 閉まるところでたった8分間の見学でした。

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                    (Altar L original en Museo Nacional)

後でシティーの国立博物館の写真をチェックしていて祭壇Lの本物を見つけてしまいました。 遺跡の博物館の方は複製だったようです。  騙されました。


遺跡では3時間半近く粘りましたが、周辺部を散策する時間はなく、多少 心残りです。 往復するだけで8時間近くかかるので、 日帰りはやはり厳しいようです。 やはりコパンと合わせて1泊2日がお奨めになります。


キリグアの次はフローレスへ飛んで、ペテン南部のペテシュバトゥン地域を探索です。
最初に セイバル遺跡 から。


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