マヤ遺跡探訪
COPAN
コパンはホンジュラス西部、グアテマラ国境近くに位置する、古典期前期から栄えたマヤ文明 南東端の遺跡です。  立体的で石像と呼ぶ方が相応しい素晴らしい石碑が沢山あるだけでなく、マヤ神聖文字の解読から王朝の歴史が歴代王の 名前と共にかなり明らかになっている大変興味深いマヤ遺跡で、1980年にティカルに次いでマヤで2番目の世界遺産に 登録されています。

初回の 2003年はサン・ペドロ・スーラまで飛んで、タクシーで往復しましたが、今回はグアテマラ・シティーから長距離バスを利用しました。  夜明け前の出発で多少不安でしたが、昼前にはコパン遺跡村のホテルにチェック・インし、まずは一安心。 バスはホンジュラスの ヘドマン・アラス (Hedman Alas) がお奨めです。
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   (訪問日 2003年 8月24日、2015年 1月15-16日)
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  (Centro de Visitantes de Copán)

12年振りに実現出来たコパン遺跡の再訪、取るものも取り敢えず急ぎ遺跡へ。 写真は遺跡のビジターセンターで、前回来た時より 綺麗になっているようです。 ここで入場料を払いますが、建物の中には下の写真の赤く塗られた遺跡の再現模型があり、 沢山のパネル展示で 遺跡の概略や発掘調査の歴史が説明されます。 

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         (Maqueta de grupo principal de Copán)



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 (Entrada al área de ruinas)

ビジターセンターから東へ遺跡に向かいます。 金網から先が遺跡エリアになり、左側の小屋でチケットを見せて中に入ります。

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 (Sacbé que nos conduce a la Gran Plaza)

金網の先です。 遺跡まで真っ直ぐ伸びた道はマヤの時代からの サクベ (マヤの白い道) で、150m 位行くとグラン・プラサに出ます。 サクベの先にポツンと最初の建造物が見えているのですが。

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 (Fragmentos de los monumentos líticos)

写真は金網の内側に集められた石造彫刻で、石碑には暦も刻まれるようです。 何処にあったものか、何時の時代のものになるのか、何も説明は ありませんが、複製ではなさそうです。


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         (Guacamayas que reciben a los visitantes)




サクベの周囲にはコンゴウインコが姿を現し 訪れる人の目を楽しませてくれますが、餌付けされていて一年中見られるようです。 英語名 Scarlet Macaw の体長が 1 m 近くになる大型インコで、和名はアカコンゴウインコです。  コパン王朝を創設した ヤシュ・クック・モ は、最初の (ヤシュ)、 ケツァール (クック)、コンゴウインコ (モ) を意味し、コンゴウインコは神殿や球戯場等 至る所にその姿が刻まれます。


         遺跡探索の前に地図を確認しておきましょう。

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地図は遺跡の売店で購入した "Copan's Maya Sculpture Museum Guide" と言う小冊子からスキャンしました。 この地図が一番細かく正確そうで、 建物に振られた番号は建造物番号、黒丸に添えられたアルファベットと数字は石碑や祭壇の名称になります。 MAP アイコンをクリックすると 大きめの地図で建造物番号等を確認出来ます。

グラン・プラサ     GRAN PLAZA
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 (Estructura 4 en Gran Plaza)

まず最初にグラン・プラサ。 写真中央は入口から見えていた建造物 4 で、四方に階段が取り付けられた方形のピラミッドです。   グラン・プラサの中央に位置し、ピラミッドの上ではマヤの時代 いろいろな儀礼が執り行われたのでしょうか。

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         (Estructura 4 en Gran Plaza)
ピラミッドの傍らから 16体のジャガーの埋葬が見つかっていて 16代王が最後の改築の際に奉納したものと思われますが、更に深い所から 同じく2体のジャガーが発見されており、初代か2代王が奉納したものと考えられ、王朝初期からここに建造物が築かれて増改築が 繰り返されてきたようです。


18 ウサギ王の石碑     Estelas del Rey 18 Conejo
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 (Lado norte de Gran Plaza)

写真は建造物 4 の上から見た 王の庭と呼ばれるグラン・アクロポリスの北側で、コパンの石碑芸術が頂点に達した時代の 13代 18ウサギ王の石碑群が立ち並びます。

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         (Estela A)

        建造物 4 の上から真下に見えていたのが石碑 A で、オリジナルは彫刻博物館に移され、精巧な
        複製に置き換えられています。

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         (Estela 4)

        時計回りに順に見ていきます。 これは石碑 A の北側にある 石碑 4 で、前に祭壇を伴います。

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         (Estela B y Estela C)

        左が石碑 B の側面で、右が両面に王の肖像が彫られ赤い彩色を残す石碑 C です。

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         (Estela D)

        一番北側で建造物 2 の前に南を向いて建てられた石碑 D で、最も彫りの深い石碑のひとつです。

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         (Estela F)

        石碑 F はジャガーが彫られた祭壇を伴います。 まだ屋根がありませんが、オリジナルです。

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         (Estela H)

        石碑 F から祭壇1、2、3 を挟んで南側にある石碑 H で、同じく祭壇を伴います。

18 ウサギ王の石碑 については 遺跡の東端にある石碑 J (702年)から、石碑 C (711年)、石碑 F (721年)、石碑 4 (726年)、 石碑 H (730年)、石碑 A (731年)、石碑 B( 731年)と、時代を追って 王がキリグアの下剋上で落命する 2年前の石碑 D(736年) まで、 コパンの記念碑 I  として別ページで解説してあります。 詳細についてはこちらを参照ください。 祭壇も含めて画像が全部で 65枚あります。



先に進む前に これまで解明されたコパンの歴史について簡単に触れておきます。

冒頭で歴史がかなり明らかになっていると書きましたが、祭壇 Q や神聖文字の階段等 から初代から16代までの歴代王の存在が確認され、 426年の王朝創設から 763年の 16代王の即位まで、コパン王朝の輪郭が浮かび上がります。

1989年から行われたトンネル調査では王朝創設時から重層的に積み重ねられた神殿群が発掘され、初代王のものと思われる埋葬も確認されています。  王朝初期の石碑 36 には初代ヤシュ・クック・モと2代目のポポル・ホルの名前が確認されますが、3代目以降 6代王あたりまでは 考古学資料が希薄になり王朝の歴史はあまりわかっていません。

7代王睡蓮ジャガーについてはアクロポリス東広場地下のアンテ基壇の階段碑文から 542年の日付が確認されますが、王の在位年は諸説があり、 続く 8代、9代王の時代はまた解明が進んでいません。

10代王 月ジャガー(在位 553-578年) はロサリラ神殿を建てた王として知られ、11代王 ブッ・チャン(在位 578-628年) はコパン村に 残された石碑 7 とアクロポリス西広場の石碑 P にその姿を見る事が出来、徐々にコパン王朝史が碑文を通して解明されていくことになります。  12代の 煙イミッシュ王 (在位 628-695) の時に勢力が強大になり、10本を超える石碑でその足跡を見る事が出来ます。

そして上で見たような深浮き彫りの立派な石像を沢山残した 13代 18ウサギ王 (在位 695-738) の時代になります。 18ウサギ王は 半世紀にわたり強大な王権を維持してコパンの繁栄を導きますが、738年に長年コパンの支配下にあったキリグアの下剋上に遭い落命し、 コパン王朝は没落に向かう事になります。

現在 目にするコパン遺跡はおよそ13代王 以降に改築された遺構になります。


ヌニェス・チンチーリャ グループ 9L-22, 9L-23     Grupo Núñez Chinchilla
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グラン・プラサ北側に日本のイニシアティブで修復されたの居住区があり、2012年から公開が始まっています。  ヌニェス・チンチーリャ グループ  として別途まとめてあります。


球技場     Juego de Pelota
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 (Cancha de Juego de Pelota, vista de norte a sur)

グラン・プラサの南東側にコパンの球戯場があります。 初代王の時に現在の場所に最初の球戯場が設けられ、その後改築が加えられ、現在見る 姿は 18ウサギ王の時代のものになり、738年に王がキリグアに敗れる 4ヵ月前に完成しています。 右端に映っている石碑は 12代煙ジャガー王の石碑のひとつ、石碑 2 です。

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 (Vista panorámica de Juego de Pelota)

球技場は西側の建造物 9 と東側の建造物 10 からなり、それぞれの建物は壁面上部に装飾が施されていました。

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         (Estructura 10 de Juego de Pelota)

これは東側の建造物 10 の壁面彫刻が残された部分で、右側に見えてくる階段は建造物 26 の神聖文字の階段になります。

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         (Fachada con escultura de Estructura 10)

壁面彫刻を望遠で拡大してみました。 コンゴウインコが口を開けて大きな叫び声を上げている様子が見事に表されます。 6世紀に 作られたロサリラ神殿は漆喰を厚く塗って成形されましたが、これは切り石を集めたモザイク彫刻で作られています。 この時代 人口増加に伴い森林資源が減少し、石灰岩を焼いて漆喰を作る為の薪の入手が難しくなり、漆喰彫刻に代わってモザイク彫刻が 主流になったと考えられるようです。

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         (Estructura 10 de Juego de Pelota)

これは建造物 9 から撮った建造物 10 で、正面の3つの開口部の中には複数の居室が設けられ、内部は美しいマヤアーチの通路で 結ばれていました。 球戯場の斜面上部にはやはりコンゴウインコが表されたマーカーが置かれます。

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  (Fachada reconstruida en el Museo de Escultura)

遺跡に残る建造物 10 はかなり崩れていますが、正面の壁面全体が屋根飾りも含めて彫刻博物館に復元されています。 コンゴウインコの モザイク彫刻は正面にふたつ、両角にふたつの合計4体ありました。

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         (Réplica de Pájaro de Estuco, Museo de Escultura)

建造物 10 の復元の横に 真っ赤に塗られた漆喰彫刻があります。 これは最初に作られた球戯場を飾っていた漆喰彫刻の複製で、 オリジナルは 1988年に球戯場の地下から見つかったものの遺跡から剥ぎ取る事は出来ず、ここに複製が作られたそうです。

同じくコンゴウインコが表されますが、腹部から顔を出すジャガーの開いた口の中には人の腕が置かれます。 マヤ神話の ポポル・ブフ では双子の兄弟がブクブ・カキッシュを退治する際に フンアフプが腕を捥ぎ取られてしまいますが、その場面が表されているようで、球戯がマヤ神話に結びついた神聖な行事として執り行われて いた事が窺い知れます。

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 (Marcadores de Juego de Pelota, Museo de Escultura)

同じく 彫刻博物館には球戯場で使われていた異なる時代のマーカーが展示されており、全てコンゴウインコの彫刻です。 コパンの球戯場では 傾斜面の上端に中央と南北両端の3つ、東西の斜面で合わせて6つのマーカーが置かれていました。  球戯場 は大きさや形で様々に異なり、 マーカーの形状もユカタン半島北部では穴の開いた環が多いですが ペテン地方以南では環状のものは見かけません。

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 (Marcadores de 18 Conejo, Museo Regional)

コパンの球戯場には円形のマーカーもあり、コパン村の地方博物館に収められています。 写真は 2003年に撮ったもので、2015年には左側の ひとつだけ展示されていました。 18 ウサギ王の姿が刻まれており、一番新しい球戯場のもので、斜面に挟まれた平らな球戯面に南北に 3つ置かれていたもののようです。

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 (Juego de Pelota, vista desde Estructura 11)

最後に球戯場を上から見下ろしてみました。 16代ヤシュ・パサフ王が完成させた建造物 11 から見える球戯場で、王はここから球戯を 観戦していたのでしょうか。


神聖文字の階段     Escalinata de los Jeroglíficos
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 (Escalinata Jeroglífica de Estructura 26)

球戯場の南西側に隣接して建てられているのが建造物 26 で、マヤで最も長い碑文を持つ事で知られる神聖文字の階段が西側面に取り付けられ 大きな天幕で保護されています。 階段は幅 10m、高さ 21m に及び、62段 あるステップには 2200文字を超える碑文で コパンの王朝史が刻まれます。

建造物 26 自体は初代王の時代から重層的に建物が積み上げられ、15代カック・イピヤフ・チャン・カウィール王が現在見る姿に 完成させていますが、碑文は 18ウサギ王の時代の地下建造物エスメラルダの階段に刻まれた12代王までの王朝史をそのまま移築し、 15代王がその後の歴史を付け加えて神聖文字の階段として完成させています。

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         (Primeros perdaño de la Escalinata)

神聖文字の階段の発掘が始まった 19世紀末は殆ど瓦礫の山の状態で、下から15段位はそのまま残っていたものの、上の段の碑文がこれを覆う形で 崩れ落ちていたそうです。  30年代から 40年代にかけて最初の修復作業が進められますが、崩れたブロックを正しく元の位置に戻す作業は 困難を極め、解明出来ない部分は取り敢えず 余ったブロックで穴埋めするだけの不完全な修復に終わったようです。  1985年からのプロジェクトで階段の再修復に着手されますが、現在も碑文の解読と修復努力が続きます。

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 (Dibujos de reconstrucción y corte transversal de Estructura 26, recortado del panel del sitio)

遺跡にあった説明パネルからイラスト部分だけ切り出してみました。 左は最後に改築が行われた 755年当時の想像復元画で、王朝史を 綴った神聖文字の階段には 12段毎に5名の歴代王の肖像が上下に並べられます。 上部神殿から建物前に置かれた 15代王の石碑 M まで 一体となってコパン王朝の正当性を誇示し 繁栄を祈願したもので、13代王が倒れた後に 15代王が復興に努めていた 当時のコパンの姿が 偲ばれます。

右は地下建造物を示す断面図で、695 d.C. と書かれた緑の建造物がエスメラルダで、碑文の一部はここにあったものでした。  Tumba 695 d.C. は 12代王の霊廟で、これを覆う形でエスメラルダが建てられています。 更に内部には王朝創始期の建物も見つかっていて、 碑文が刻まれた 石碑 63 や モッツモッツ神殿の埋葬の蓋石 は彫刻博物館に 展示されています。

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         (Estela M de K'ahk' Yipyaj Chan K'awiil)

神聖文字の階段を背にした 石碑 M には自己犠牲の儀礼を行って祖先を呼び出す 15代王が刻まれ、後ろに置かれた 逆さになった トラロックの口からは呼び起された祖先の王達が姿を現し、王朝史を刻んだ碑文と共に階段に展開されていくと言う構成になるそうです。

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         (Efigies de los Governantes anteriores en la forma de guerrero, Museo de la Escultura)

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         (Efigie del Rey Humo Jaguar)

階段に置かれた王の肖像の一部は彫刻博物館に展示されていて(写真上)、戦士の姿をした彫刻を間近に見る事が出来ます。  一番下の肖像は階段にそのまま残され 12代煙ジャガー王ものとされますが(写真下)、階段の内部に煙ジャガーの霊廟があったからでしょうか。  キリグアに敗れた 13代王では都合が悪かったのかもしれません。

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 (Máscaras de Templo 26, Museo de Escultura)

神聖文字の階段は当然乍ら立ち入りが制限されていて上部に築かれた神殿の様子はわかりませんが、神殿を飾ったモザイク彫刻の一部が 彫刻博物館に移されて展示されています。 神殿には長い鼻を持つトラロックのマスクが全部で6体あり、博物館の展示は中央左の2体に なるようです。

トラロックはメキシコ中央高原の雨の神で、ユカタン半島では チャーク と呼ばれますが、テオティウアカンをルーツに持つと言われるコパン王朝ですから、博物館の説明はトラロックでした。  キリグアとの争いの敗北から立ち直る為に 過去のテオティウアカンの威光が必要だったのかもしれません。 トラロックは蝶を連想させる様式化 された翼を持ち、蝶は死んだ兵士の化身と考えられ、トラロックは雨の神と同時に軍神としても崇められたようです。

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 (Inscripciones Jeroglíficas del interior de Templo 26, Museo de Escultura)

これは上部神殿内部にあった碑文で、これも彫刻博物館に移されています。 15代王が付け加えた 碑文の一部になり、11代から 14代までの 王が、トラロックの称号と共に華麗な全身体の神聖文字で書き残されます。

18ウサギ王の死については、キリグアの石碑 J では斬首と書かれているのに対して、神聖文字の階段では 石と楯で表されて戦死したと 記されているのは興味深いところです。


グラン・プラサには 18 ウサギ王の石碑以外に、アクロポリスの南側を中心に 12代 煙ジャガー・イミッシュ王 や 15代 カック・イピヤフ・チャン・カウィール王の石碑など、見るべき石碑が沢山残されます。  コパンの記念碑 II  にコパン遺跡と博物館、更に周辺地区の石碑、祭壇を含めて解説してあります。 画像は 96枚あります。


アクロポリス     Acropólis
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 (Juego de Pelota y Lado Norte de Estructura 11)

写真左は球戯場で、その右に見えている斜面がアクロポリスの建造物 11 の北面になります。

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         (Lado Norte de Estructura 11)

グラン・プラサはこの建造物 11 の北面で広大な広場の南側が閉じられ、急峻な斜面は部分的に修復されています。  斜面にはところどころに彫刻された石のブロックが無造作に嵌め込まれ、修復は崩落を防ぐ為の一時的なもののように見えますが、 彫刻を元に戻すのは難しそうです。

建造物 11 の南側はアクロポリスの西の広場に面しており、グラン・プラサはこの辺にして西の広場へ向かいます。

建造物 11     Estructura 11
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         (Escalinata poniente de Estructura 11)

アクロポリスは王侯貴族たち特権階級の私的空間で、グラン・プラサより一段高い所に設けられています。 西の広場への入口は幾つか あったようですが、現在は建造物 11 の西側を回り込む形で登っていきます。 写真は建造物 11 の西側に取り付けられた階段です。

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         (Plaza Occidental)

階段を登ると西の広場を見下ろせ、右の緑で覆われた所が未修復の建造物 13 で、左は建造物 16 のピラミッドになります。  広場に3つ並ぶ四角い祭壇は球戯場のマーカーを表し、広場は冥界と繋がった仮想の球戯場として、聖なる空間を創り出します。

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         (Lado Sur de Estructura 11)

これは西の広場から見た建造物 11 の南側で、3つのマーカーに沿って球戯場に模した階段が取り付けられ、階段上部中央に貝のマーカー、 両端に嵐の神の像が取り付けられています。

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         (Escultura de Dios Tormenta)

これは西端の嵐の神で、サル顔の神とか、パワトゥーン神とか、アトランテとも説明されますが、手に持ったトーチに風を表す T字が 刻まれており、嵐を起こす神としておきます。 階段には建物の奉納を記した碑文が残されるようですが、かなり風化が進んでいます。

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         (Pared esculpida del Templo Superior)

建造物 11 も古くから積み上げられてきた建物ですが、トンネル調査はここまでは及んでおらず、16代王の碑文からここに埋葬されたと 思われる 15代王の墓も見つかっていません。 773年に建造物上部に 16代ヤシュ・パサフ王が 二層の神殿を完成させ、ここを王の宮殿 としていたようです。 神殿は屋根が崩れていますが 通路の壁にはモザイク彫刻で碑文が残されます。

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 (Pared esculpida del Templo Superior)

碑文が刻まれた壁は8面あるようですが、2面だけ正面から写真が撮れました。

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                  (Pared esculpida reconstruida en el Museo de Escultura)

一番状態の良い壁面が彫刻博物館に移されています。 碑文には 763年のヤシュ・パサフ王の即位や重要な祭礼に加えて 日食や宵の明星の位置などが記されているそうです。

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         (Panel exhihibido en el Templo Superior)

建造物 11 の宮殿からグラン・プラサを見渡せる場所に説明文無しでこんなパネル展示がありました。 球戯場で催される競技を 観戦するヤシュ・パサフ王とその家族といったところです。 ジャガーの敷物を敷いた玉座に座る王は頭にターバンを巻き、妃はケツァール の尾羽で飾られた豪華な被り物を付け、身を乗り出して声援を送るのは王の息子でしょうか。 群衆が取り巻く球戯場では香が焚かれて 二筋の煙が上がります。

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         (Vista actual)

”夏草や兵どもが夢の跡”  建造物 11 の宮殿から見える現在の球戯場はひっそりと静まり返っています。


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         (Cabeza del Anciano, Pauahtun)            (Original en el Museo de Escultura)

建造物 11 を北東側に降りると大きな老人の頭の彫刻が置かれています。 マヤ神話では陸地は水に浮くワニの体と考えられ、これを支えるのが パワトゥーン神で、老人の頭はその頭部になるようです。

建造物 11 は 北東側と北西側を 2体の巨大なパワトゥーン神で支えられ、 パワトゥーン神は頭部だけではなく手足を含めた全身で、古く は手や崩れた体の部分も見られたそうです。 左は遺跡に残された頭部で、右は 彫刻博物館に展示されているものですが、遺跡の方は複製でしょうか。

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         (Estructura 16 en el lado este de Plaza Occidental)

建造物 11 の南東から西の広場を見下ろすと東側に建造物 16 のピラミッドが聳えます。 初代王ヤシュ・クック・モはこの建造物の中に 葬られており、コパンで最も聖なる場所になります。


建造物 16     Estructura 16
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 (Lado este de Estructura 16)

西の広場に降りて北西側から見た建造物 16 です。 16代ヤシュ・パサフ王により 776年に完成され、有名な祭壇 Q が正面に据えられますが、 1989年から行われたトンネル調査により ピラミッドの下からは王朝創始時から積み上げられてきた建造物群が掘り出されています。

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  (Panel colocado en frente de Estructura 16 que ilustra sus sub-estructuras)

これは建造物 16 の前に置かれたパネルを写真に撮ったもので、ロサリラ神殿を始めとした地下建造物が重層的に築かれていった様子が イラストで示されます。 漆喰彫刻もそのままに丁寧に埋納されたていたロサリラ神殿は彫刻博物館に実物大のレプリカで復元され、 東の広場から入るトンネルでは発掘された神殿の一部を見る事が出来ます。 ロサリラ神殿については ロサリラのトンネル のところで説明してあります。

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                     (Panel de Recorte de Estructura 16, Centro de Visitantes)

こちらは遺跡入口のビジターセンターの展示パネルから建造物 16 の断面図を撮ったもので、異なる時代の建物が色分けして示されます。  ロサリラ神殿の下には 王朝初期の建物も埋もれていて、黄緑色がマルガリータ神殿、緑色がイェーナル神殿、最下層のオレンジ色が ヤシュ・クック・モにより最初に建てられたフナル神殿です。

マルガリータ神殿からは初代ヤシュ・クック・モを表した極彩色の漆喰彫刻が発見され、ヤシュ・クック・モの妃と考えられる埋葬も 見つかっています。 イェーナル神殿は 2代王ポポル・ホルによって作られたもので、ここでも極彩色の太陽神の漆喰彫刻が 発掘されています。 最下層になるフナル神殿ではヤシュ・クック・モの墓所も確認されており、歴代王はこの場所をコパン王朝の 最も重要な聖地として神殿を積み重ねていったようです。


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            (Esculturas colocadas en la escalinata central de Estructura 16, Museo de Escultura)

歴代王に神殿が積み上げられてきた建造物 16 は 王朝最後のヤシュ・パサフ王によって広場から 20m を超える高さの方形ピラミッドに 仕上げられます。 崩れていたピラミッドを修復する過程で 中央階段を飾っていた上下 3つの突き出しが復元され、彫刻博物館に 移され展示されています。

一番上の突き出しには洞窟の怪物が開けた口が表され、中には縄で縛られた捕虜の座像が置かれていました(写真上)。 二番目の 突き出しには太陽の盾を示す枠の中に太陽神の姿をした初代ヤシュ・クック・モが刻まれ、一番下の突き出しには大きなトラロックの彫刻があり 周りに並べられた骸骨で T字が形作られていました(写真下)。

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         (Fragmentos de Esculturas del Templo 16, Museo de Escultura)

上部神殿などから発見されたモザイク彫刻もまとめて博物館に展示されていて、初代王の名が刻まれたトラロック像や、祭壇 Q に刻まれた初代王と 同じ姿をした初代王の彫刻などもあります。 トラロックなど テオティウアカン の様式が多く見られ、ヤシュ・パサフ王は遠い王朝の祖先を辿り、歴代王が築いてきた強大なコパン王朝を誇示する事によって 弱体化した王朝の立て直しを試みていたと考えられるようです。

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         (Altar Q original, Museo de Escultura)

中央階段下に置かれた祭壇 Q はレプリカに置き換えられ、オリジナルは博物館に移されています。 写真は博物館のオリジナルから、 16代ヤシュ・パサフ王が初代王から王笏を受け取る場面の祭壇西面です。 コパンの祭壇で最も有名な 祭壇 Q の詳細 は別途まとめてあります。

ヤシュ・パサフ王は テオティウアカンとの繋がりを強調したかったようですが、 実際 初代ヤシュ・クック・モのものと思われる遺骨を科学的に分析した結果、遺骨の人物は コパン土着ではなく青年期をティカルで過ごした 戦士だったという可能性が指摘され、葬祭殿の様式、テオティウアカン土器を含む多くの副葬品からも、 ティカルに来ていたテオティウアカンの戦士がその後コパンに至り コパン王朝の開祖になったという説が広く支持されるようです。


エル・セメンテリオ     El Cementerio
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建造物 16 の南側に回ると眼下に見下ろせるのが エル・セメンテリオ と呼ばれる貴族の居住区域で、博物館に修復された壁面彫刻と合わせて 別ページで紹介してあります。

建造物 18     Estructura 18
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  (Tumba de Yax Pasaj Chan Yopaat)

アクロポリスの南東角にはヤシュ・パサフ王の時代の建造物 18 があり、建物の下には王の葬室がありました。 写真は葬室の入口ですが、 遺体や副葬品は王朝末期に既に持ち出され発掘時には空になっていたそうです。

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          (Lado frontal de Templo 18)

これは北側から見た上部神殿の正面で、コパン川の浸食による ”断面” に近い建物は半ば崩壊していましたが、修復作業の結果、 4本の柱と横長のベンチが現地で復元されています。

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         (Columnas esculpidas con imagen de Yax Pasaj)

4本の柱の内側には浅い浮彫りのモザイク彫刻で、戦士の姿をしたヤシュ・パサフ王の姿が刻まれます。 写真上は王の横顔が 残る南西側の柱で、写真下は北西側の柱で、戦士の姿はコパン王朝晩年の混乱した状況を反映していると言われます。

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 (Banco interior esculpido)

奥の柱の手前に横に長いベンチが設けられ、側面には 3つの丸で表される大地の怪物と大きな仮面が並べられます。

コパン川 浸食による断面     El corte arqueológico
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         (Panel de explicación de El Corte)

アクロポリスの東端はコパン川の氾濫で崩れ落ち、東の広場の東側にあった建造物 19, 20, 21 が失われてしまいます。 建造物 19 があった辺りには写真のパネルが置かれ、崩落により生じた断面について当時の写真と地図で説明してありました。

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         (El corte arqueológico de Acrópolis)

崩落は 20世紀の始めに起きたようで、30年代になって河川の改修で川の流れは遺跡から遠ざけらます。 写真は東側に降りて 崩れた断面は見上げたところで、トンネル調査が始まった 1989年以降に現在見る形に石材で補修されています。

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         (Terraza en frente de Templo 18)

神殿 18 の前は石で固められたテラスが拡がり、右手に見える階段と金網の先は崩れた建物があった所で、現在は崖になっています。

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         (Trono de Jaguar)

階段の上にはジャガーの豹紋が刻まれた玉座が残されますが、直ぐ後ろは金網で遠くに現在のコパン川が見えています。

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         (Escultura de Murciélago que decoraba Estructura 20 ya perdida)

崩れ去った建造物について、過去の冒険家や研究家による記述や残された建物の断片から、建造物 20 は ”コウモリの家” で、 建造物 21 が ”ナイフの家” で、共に 13代 13ウサギ王の時代に作られたと考えられるようです。  ”コウモリの家” は 暗い冥界の住人であるコウモリの彫刻で飾られ、生贄にされる前の捕虜を留め置く2階建ての牢獄だったそうです。  ”ナイフの家” の方はナイフの彫刻で飾られていて、牢獄の番人の家、若しくは生贄に対してナイフを用いる場所だったようです。

写真は彫刻博物館に展示されるコウモリの彫刻で、 ”コウモリの家” を飾ったものでした。 同様のコウモリの彫刻がグアテマラシティーの ポポル・ブフ博物館 でも見られますが、崩れた建造物から人の手 によって更に流出されたものでしょう。

東の広場     Plaza Oriental
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 (Lado suroeste de Plaza Oriental)

これは東の広場の南西角で、アクロポリスの中心を占める建造物 16 のピラミッドの側面が見え、広場の角にはロサリラのトンネルの入口が あります。

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         (Lado noreste de Plaza Oriental)

こちらは広場の北西角になり、北側の階段の上には広場で中心的な建物になる建造物 22 が見え、西隣にはポポル・ナとして知られる 建造物 22A も見えています。 広場面には 3つの四角い祭壇のようなものが南北に並びますが、これは西の広場と同様に儀礼の為の 仮想の球戯場を表していて、広場の下は地下世界と言う事になります。 広場の東側には ロス・ハグアレスのトンネルの入口と出口があります。

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         (Escultura de Dios Solar)

ジャガーの広場として知られる東の広場は太陽崇拝の場で、かつて東側に若い太陽神の彫刻があり、西側には冥界の太陽ジャガー神の彫刻が 現在も残されます。 若い太陽神像はコパン川の浸食で崩壊してしまったそうですが、東の階段に頭部が復元してあり、これが若い太陽神の 一部でしょうか。 若い太陽神の背後から毎朝太陽が昇ってきます。

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         (Esculturas de Dios Sol Jaguar y Jaguar Danzante)

西の階段には冥界の太陽ジャガー神が置かれ (写真上)、左右下方に踊るジャガーの彫刻 (写真下) を伴います。 冥界の太陽ジャガー神は 戦争と生贄の守護神で、東から上った太陽は西に沈んで冥界に入ります。 北側の神殿 22 から 王が監督する中、仮想の球戯場で儀礼が 執り行われ、コウモリの家から出された捕虜が生贄に付され、放血儀礼で集められた王の血は香炉で燃やされ、永遠の太陽が祈念された、 と言う事になるようです。

アクロポリスのトンネル     Tuneles de Los Jaguares y Rosalila
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古い時代の建物を調査する為にトンネルが掘り進められ、その一部が公開されています。 入り口は西の広場にあり、 ロス・ハグアレス と ロサリラ の トンネル  として別途まとめてあります。


建造物 22     Estructura 22
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 (Parte frontal de Estructura 22)

東の広場の北側の階段の上に築かれた建造物 22 です。 13 ウサギ王の即位後 1カトゥンを記念して 715年に作られ、内部に 漆喰彫刻で王の玉座が設けられています。 1934年に一度地震で崩れているそうですが、その後現在見る姿に復元されています。  2003年に来た時は玉座まで近寄れたのですが、今回 正面の階段も登れずチョット残念でした。

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         (Templo Superior)

止む無く離れた所から望遠で正面を撮りました。 前面に7段の階段があり、7段目のステップ左右に大地の怪物の牙が一対あり (写真上)、ここが聖なる大地の怪物の口で、地下界の入口を示します。 階段の上の戸口の奥には上下左右に漆喰彫刻が施された 玉座が見えてきます (写真下)。

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 (Puerta Interior y Banca del Templo 22, Museo de Escultura)

現地では立ち入りが制限されて近づけませんが、玉座は彫刻博物館にそっくりそのまま復元されています。 モザイク彫刻ではなく漆喰成形で、 地震で一度崩れているそうですから、博物館の複製がオリジナルを移したものか良くわかりません。

玉座の下に並べられたドクロは冥界を表し、玉座が地上界にあたり、左右に刻まれたバカブ神が双頭の波打つヘビで表された天界を支えるという 図柄です。 この玉座に 18 ウサギ王が着座して儀礼を取り仕切っている様を想像するとコパンの歴史を一部実感したような気がしてきます。


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 (Escultura de Calaveras y Glifos, foto en 2003)

これは 2003年に玉座の近くから撮ったもので、玉座の下のドクロと文字は新しく作り直してあるように見えます。 文字部分には建物が 奉納された日付が刻まれます。

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 (Monstruo Witz que decoraba cuatro esquina de Templo 22, Museo)      (Réplica de Templo actual)
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 (Esquina suroeste)                        (Esquina noroeste)

建造物 22 の四隅は大地の怪物を表すウィッツモンスターで飾られ、西を向いた両角は上下二連ウィッツモンスターが残りますが、 コパン川に面した東側はウィッツモンスターがそれぞれ一体だけ復元されています。


建造物 22A ポポル・ナ    Estructura 22A Popol Nah
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 (Lado frontal de Estructura 22A Popol Nah)

さてコパン遺跡をグラン・プラサからアクロポリスと紹介してきましたが、いよいよ最後の建造物 22A ポポル・ナ です。 ポポル・ナは 共同体の家とも訳され、壁面上部には王権の象徴であるゴザ目が残され、有力貴族が集まって合議を行った場所と言われます。  コパン王朝 晩年の建物になり、東側は建造物 22 に密着して建てられ、後ろには建造物 26 のピラミッドが聳えます。 

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         (Lado frontal de Estructura 22A Popol Nah)

13代 18 ウサギ王が没した後 およそ1か月経って 14代王カック・ポプラフ・チャン・カウィール(在位 738-749年) が即位します。  キリグアに敗れた後の混乱期にあって 14代王は殆どその足跡が知られませんが、746年に建てられたと考えられる この建造物が 14代王の 時代にあたります。

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 (Fachada frontal reconstruida en el Museo)

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 (Fachada oeste reconstruida en el Museo)

遺跡に残るポポル・ナの壁面上部はゴザ目を残して 上の方が無くなっていますが、彫刻博物館に南正面がゴザ目の上まで復元してあります。  ゴザ目の上に 9アハウの文字がふたつづつ並べられ、文字の間には着飾って胡坐をかく貴族の坐像が窪みの中に嵌め込まれ、その下に場所を 示す文字が刻まれます。

9アハウはツォルキン暦ですから 260日毎に来ますが、長期暦の 4分の1カトゥンとの組合せでは 65年に一度になり、9.15.15.0.0.0  9 Ajau 18 Xul の西暦 746年 6月 2日 が建物の奉納年と考えられます。

ここで注目されるのは貴族の坐像で、建物の南面から西、北面にかけて場所を表す文字と共に全部で 9体刻まれ、コパン王朝支配下の 9ヶ所の有力貴族が集まり合議し 王を補佐したのがこのポポル・ナだったと考えられるようです。

ポポル・ナの復元の横に別途 坐像と文字が4組展示されますが(下の画像)、復元された建物には別に 5組あり、併せると 9つの坐像と場所の文字になります。 エル・セメンテリオ、 ラス・セプルトゥーラスラストロホン等、コパン周辺部の発掘修復が進み、 9つの場所の候補があがってきていますが、この解明が今後の調査のひとつの鍵になりそうです。

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 (Figuras y Glifos de Popol Nah)


コパン王朝の終焉    El fin de la Dinastia
あまり消息の知れない カック・ポプラフ・チャン・カウィール王が死去した後、息子の カック・イピヤフ・チャン・カウィールが 15代王 (在位 749-763年) として即位します。 15代王はパレンケから妃を迎え、神聖文字の階段を完成させ、石碑 M、N の 2本の石碑を建立し、コパン王朝はかつての繁栄を取り戻したかに見え、合議の場としてのポポル・ナの役割は薄れたかもしれません。

しかしながら 15代王の治世は長く続かず、 763年に 王位は 16代 ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート王 (在位 763- ca. 820) に引き継がれます。 即位時 王は 9歳位だったと考えられ、建造物 11、26 の改築や、祭壇 G、 Q 等の制作は進められますが、 強大な王権を背景に王の肖像を刻んで カトゥンを祝った石碑はもやは見られません。 王が周囲の補佐を得て政治や祭事を行っていたとすれば、 またポポル・ナの重要性も増していたでしょうか。 800年を超える頃になると新たな石造物の制作も殆どなくなり、ヤシュ・パサフ王の没年も 明らかになっていません。

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         (Altar L)

コパンで最後の記念碑と考えられる 祭壇 L には ウキット・トークと言う人物が ヤシュ・パサフ王から王笏を受け取る場面が彫られ、 822年 2月の即位日が書き残されます。 ウキット・トーク王? は自らの王位を正当化する為に 祭壇 Q を模して祭壇 L を作らせたと 思われますが、出来上がったのはこの面だけで未完に終っており、その後の王の消息は知られません。  長く繁栄を続けてきたコパン王朝も この辺で歴史の舞台からその姿を消したようです。   祭壇 L は球戯場を北側で閉じる建物の上に残されているので、最後に寄ってみたら如何でしょう。

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以上、グラン・プラサからアクロポリスと、建造物を個別に見てきました。 主要部だけ駆け足で回れば 1時間位で足りるかもしれませんが、 ここはやはり半日はかけてじっくり見て回りたいところです。

コパン遺跡を写真を元に解説を加えて紹介してきましたが、素人にはやや手に余る試みで、解説も不完全なものですが、 日本語で詳しく書かれた文献も少なく、コパンの理解を深めて コパン遺跡を訪問する際の一助になればと思います。





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