マヤ遺跡探訪
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イサパ遺跡はチアパス州南端、太平洋に程近いタパチューラ市からグアテマラ国境タリスマンへ向かって 12Km行ったところ、トゥーストラ・チコの手前 3Kmにあります。

紀元前の先古典期からの非常に古い遺跡で、文化的にどう分類するか(マヤなのか)専門家の間でも意見がわかれるようですが、 メキシコ市の人類学博物館のマヤ室では入って直ぐの所にイサパの石碑・石像が4点展示してあり、石碑にはマヤ神話が モチーフになっていると思われるものが沢山あるので、マヤ創成期の遺跡として位置づけても良いのではと思います。

この時代まだマヤの神聖文字は見当たりませんが、創成期のマヤ遺跡として見ると大変興味深い遺跡でした。
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    (訪問日 2004年2月12日)
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 (Caseta de Servicios en GRUPO F)

グアテマラ国境へ行く幹線道路に面しているので、それなりに訪問客もあるようです。 受付で入場料を払うと 30頁を越す分厚い パンフレットをくれました。 資料が少ない遺跡なので助かります。 すぐ目の前にグループF が広がります。

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 (Edificio 125 en GRUPO F)

早速手前の建造物から探索開始です。  写真はスロープのエントランスが付いた建造物 125 で、上部に更に5つの小さな建造物が 築かれています。 先古典期後期(400BC-200AD)に栄えた古い遺跡で、壁面は粗い石組みです。

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 (Edificio 125 en GRUPO F)

スロープを登ります。 建造物 125上の3つの建造物が見えます。 奥のピラミッドが 125a になります。

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 (Edificio 125 en GRUPO F)

125a のピラミッドに登って周りを見回してみました。 この写真は振り返って元来た方向を見返したもの、 手前に建造物 125上の建造物がふたつ、更に先には乗ってきた車と遺跡の入り口が見えます。

下の3枚の写真は同じ場所から左にパンしていったものです。

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 (GRUPO F)

上の写真の左側で建造物 125に平行した小建造物です。 装飾性の無いシンプルな作りです。  その奥は遺跡の事務所です。

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 (GRUPO F)

更に左側、 中央に祭壇のような平たい基盤があり、その先に前の写真の建造物と瓜二つの建造物があります。

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 (Juego de Pelota en GRUPO F)
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そして更に左側、球戯場がありました。 グループFは紀元前50年頃に建造が開始されており、球戯場の形態は古典期マヤのものとは 大分異なりますが、この時代に既に球戯が行われていた事がわかります。

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 (Estela 4 en GRUPO F)

建造物 125の北に農場が広がり、石碑4がぽつんと立っていました。 始めは新しい構造物かと思いましたが、パンフに寄れば 古いものでした。 遺跡中に小さなトタンの屋根が沢山あり、かなり風化が進んでいますが石碑・石像が保護されています。

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 (Esculturas de piedra en GRUPO F)

トタン屋根の下の石造物。 かなり風化していて、ここから歴史的解釈を引き出すのは難しい仕事のように思われます。  右下はカエルの顔、左下は中央に顔が彫られた祭壇のようです。

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 (Distribución de diferentes Grupos)

国道北西側のグループ Fを廻りましたが、国道の反対側にあるグループ A と B
も見学可能との事、行ってみました。

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 (Señal de bifurcación)

国道の反対側の舗装していない小道を 800m位南へ下って行くとグループ Aと Bの分岐点があります。  砂利道ですが車で行けます。 まず左のグループ Bへ行ってみました。

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 (Entrada de GRUPO B)

グループBの入口です。 水曜から日曜オープンと書いてあります。 週に2日も閉めてしまう、訪問したのは木曜日、 ラッキーでした。

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 (GRUPO B)

グループBはグループFより古く、先古典期中期(850-650BC)に遡り、イサパ初期はここが集落の中心 だったそうです。 写真の通り石の塊を含んだ土のマウンドはありますが、修復は試みられていないようです。

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 (GRUPO B)

入口の近くに発掘された石造物がまとめて置かれていました。 貰ったパンフレットと照合するとグループFからの物も まとめられているようです。

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 (GRUPO B)

グループF同様、トタンの屋根で覆われた石碑・石像が沢山あります。 どれもかなり風化しています。

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 (Estela 11 de GRUPO B)

因みに一番良く写真に撮れた石碑 11号です。 パンフレットにあるイラストと比べてみました。 中央で口を開けた爬虫類 (ワニ?) の 口から両手を広げた雨の神が現出しているそうですが…、どうやってこのイラストが描けたか不思議なくらい風化しています。

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 (Escultura de GRUPO B)

カカオの木の林を通って奥へ行くと、写真の様な、石垣の窪みの中に置かれた風化の激しい像がありました、かなり 古そうです。 口を開いたジャガーの中に人か神がしゃがんでいます。 オルメカの影響があるようにも思えました。

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 (Fruto de Cacao, Producto importante del Área)

カカオの実がなっています。 ココアはカカオの種を粉末にして作りますが、マヤ・アステカでは重要な飲み物でした。  イサパは、西のオルメカ文明のベラクルス州、テオティウアカンのメキシコ州と、東のグアテマラ南部 を繋ぐ交易ルートにありましたが、イサパにとってカカオは主要な交易品になっていたようです。

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 (GRUPO A en la granja)

グループA・Bの分岐点に戻ってグループAに行ってみます。 INAHが管理していますが、私有地で、家畜はロバ、豚、ヤギ、 鶏に七面鳥、作物もカカオ、トウモロコシと非常に生活感溢れるところでした。 グループBのような入口はありません。

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 (Cosecha de maíz en la granja)

農家の庭先では収穫したトウモロコシを乾燥させていました。 マヤの時代も現代も最も重要な穀物です。

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 (GRUPO A)

グループAは 300-50AC と先古典期後期に位置づけられます。 公園化された部分は芝生で綺麗に管理されていますが、 柵で囲われた外側にも遺跡は拡がっています。 私有地でもあり調査はあまり進んでいないように見えました。

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 (GRUPO A)

石造物の保存も、グループF・Bと同様です。 簡単なトタンの屋根だけでは、強い太陽の日差しと風雨から遺物を守るには不充分 でしょうね。


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 (Esculturas y Estelas de GRUPO A)

もっとも現地で保存されている石造物は既に傷みが激しく、写真の様な状態です。 これでも状態が かなり良い方ですが。


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 (Estela 50 en el Museo Nacional de Antropología, D.F.)
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石造物の状態の良いものは、現地保存ではなく博物館に移されてしまっており、写真はメキシコシティーの人類学博物館マヤ室にある石碑 50号です。

「ジャガーの面を被り、全身骨の死界の神(右側)、そしてそのあばら骨の下から伸びてとぐろを巻いて上に向かっている臍の緒に 小さめの人物が繋がっている。」と博物館の説明文にありますが、どれが小さめの人物なのかよく判りません。 今から2000年位前の 古いものです。



イサパ遺跡はこれで終わり、公開されているのは遺跡全体の1.5%だそうです。

余談ですが、タパチューラ市は 1897年に榎本移民団が移住した場所として知られています。  正確にはタパチューラ郊外のエスクィントラという場所ですが、過酷な気象条件で殖民計画は 1年で頓挫、明治中期に 35人の日本人入植者の夢が潰えた場所です。


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