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GUERRA DE MAYA    マヤの戦争 1

          Tikal vs Calakmul
古典期マヤは 強力な王権を背景に王朝文化が花開いた時代で、各地で壮麗な都市建設が行われ、石碑や彩色土器等の優れた工芸品 が生み出されます。 しかしインカやアステカのような中央集権国家が築かれなかったマヤの社会では都市間の抗争が繰り返され、戦勝記録が 王の名前や捕虜、日付等と共に石碑や祭壇に刻まれる事になります。

碑文の解読が進むにつれ各都市間の争いの様子が明らかになり、特にティカルとカラクムルという二大勢力を中心にした古典期の騒乱の 状況が浮かび上がってきました。 1000年を超す時を経た碑文は風化してその解読は完全とは言えず、再構築された歴史も新たな発見で覆る可能性も ありますが、これまでの碑文学の成果を見ることで古典期マヤのより立体的な理解が進みそうです。
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  (Guerreros y prisioneros, pintura mural de Bonampak)

20世紀初め、まだマヤの研究が進んでいない頃、マヤは平和な民族と考えられていました、1946年に写真のボナンパックの極彩色壁画が発見されるまでは。   壁画にはボナンパック王 チャン・ムアーン二世(中央)と 戦士たちが描かれ、その足元には拷問を受ける捕虜たちが…。
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マヤの戦争  GUERRAS DE MAYA
マヤの戦争は「星の戦争」などとも呼ばれますが、どんなものだったでしょう。 文字で詳細が記録されている訳ではないので、碑文や図像などの 考古学資料から推測することになります。
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  (Dintel 2 de Piedras Negras)

ピエドラス・ネグラスの石版 2号(667年)には武装した王と跪く戦士達の様子が刻まれます。 鎧兜に槍と盾ですが、究極の石器時代のマヤですから金属は 使われません。  黒曜石やチャートを木と組み合わせて槍、槌、斧を作り、飛び道具として吹き矢、投げ槍、弓矢に投石器などが工夫された ようです。

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          (Las armas, Museo Nacional de Antropología y Etnología)

グアテマラ市の国立考古学民俗学博物館の展示には石器に柄を付けた斧が展示されています。 木製品は朽ちて通常残りませんが、カンクエン遺跡から 回収された木製の穂先のようなもの(写真下)もありました。


マヤの社会では戦争と言っても相手を根絶やしにする為の全面的な殲滅戦ではなく、貴族を中心にした少人数の集団による襲撃のような小規模戦闘で、 敵の大将を捕えた時点で勝負がついたようです。 勝利の後に敵の記念碑などの破壊はあっても住人の抹殺や街そのものの破壊は行われず、戦利品や生贄 の為の捕虜をとって直ぐに撤収となったようです(古典期終末期は別として)。

戦争の目的は支配地の拡大、交易路の確保や戦利品、労働力(奴隷)、生贄の獲得などが考えられます。 支配地の拡大と交易路の確保は表裏一体 で、交易路を抑えることは富の増大に繋がり、交易の為の要衝を支配下に収める事が勢力の安定・拡大に必須で、カラクムルとティカルの衝突の 原因もこの辺りにあったでしょうか。

星の戦争  GUERRA DE ESTRELLAS
星の戦争と言ってもダースベーダーのスターウォーズとは関係なく、この場合の星は金星です。

マヤは金星の会合周期が 584日で、その5倍が地球の公転周期(365日)のほぼ8倍にあたり、2920日周期で金星がおよそ同じ動きをする事を突き止めて いて、この金星の動きを戦争に於ける吉兆の予言・占いに結び付けていたようです。  

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  (Página 46-50 de Códice Dresde)

74ページあるドレスデン・コデックスはその大半がツォルキン暦(1年が260日の祭祀暦)に基づいた占い・予言ですが、46-50ページ(上の画像)は 金星の会合周期を元にしたもので、1ページが 584日をカバーし、5ページで 2920日分の予言がありました。

明け方に太陽に先がけて東の空に昇る「明けの明星」は不吉な兆候と見なされ、最初に明けの明星が現れる日を選んで戦争をすると相手にとって不吉が もたらされると考え 「星の戦争」を仕掛けたそうです。 明けの明星は8年に5回スタートするので、8年間でこのスタートの5日間の前後が危険な 時期だったでしょうか。

天文の知識は攻める方も攻められる方も持っていた筈ですから、双方共に周到な用意をしたかもしれません。 攻める方は作戦をたてて攻撃に備え、 攻められる方は罠を仕掛けたり待ち伏せしたり…。 でもこの辺りは残念ながら記録には残されません。

ティカル 対 カラクムル  TIKAL vs CALAKMUL
戦争の中心となる二大勢力のティカルとカラクムルですが、現在それぞれの遺跡に足を運んで目にする建造物は全て古典期のものであり、碑文学から再構築 された両王朝の歴史でも紀元前には遡れません。 しかしながらカラクムルの建造物 II やティカルの北のアクロポリスや失われた世界の下には先古典期の建造物が眠っており、 エル・ミラドールやナクベ等の初期のマヤ王朝が栄えた先古典期には既に 存在していた事がわかります。 先古典期に繁栄期を迎えていたエル・ミラドール等のマヤ王朝は理由は明らかになっていませんが、古典期前期に入る前に 放棄されて姿を消してしまいます。 エル・ミラドールだけで8万もの人口を擁していたと考えられる先古典期の都市は一体何処へ消えたのでしょう?
エル・ミラドールはカン王朝と呼ばれ、遺跡の説明板では右の紋章文字が使われます。 画像
先古典期にはまだ紋章文字は無かった筈だし、同じくカン王朝と言われるカラクムルは異なる紋章文字ですが、同じカン(蛇)王朝と言うのは少々気に なります。 地図で見てもカラクムルはエル・ミラドールの少し北で、カラクムルの起源をエル・ミラドールに求めたくなるところですが、これは 考古学的には根拠が見つかりません。 ただカラクムルもティカルも先古典期を生き残ってエル・ミラドールの没落後にその北と南で繁栄期を迎える事を考えると、 古典期に永遠のライバルとなって抗争を続けるのも頷けるような気がします。

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ティカルとカラクムルの位置関係を確認しておきます。 グアテマラ領内メキシコ国境沿いの緑で表示したエル・ミラドールを 挟んで、北にカラクムル、南にティカルがあり、双方の直線距離はおよそ 100Km です。 時速 5Km で歩くと 20時間で着く計算ですが、敵対する都市間では サクベは整備されていませんし、猛獣や毒蛇のいる密林を武器を持って移動した筈で、どの位時間がかかったのでしょう、川を利用したかもしれま せんね。

地図にはその他の古典期マヤ主要都市も赤丸で示しました。 古典期マヤの争いに度々登場する主要なプレーヤー達で、カラクムルとティカルの争いの サイドプレーヤーにもなります。

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                  (Siyaj Chan K'awiil II, 411-456AD, Estela 31 de Tikal)

碑文学から解明されているティカルとカラクムルの最初の衝突は 562年になるようですが、ティカルはそれ以前、368年にテオティウアカンの勢力の浸透があり、 この間の様子は ティカル石碑博物館とティカル王朝史 のページで取り上げてあります。  そして ワク・チャン・カウィール(在位 537? - 562AD) の時代を迎える事になります。 写真は ティカルの石碑 31 に刻まれたシャフ・チャン・カウィール2世 (411-456AD)の横顔です。 

一方カラクムルはと言うと、石碑は数多くあるものの風化が甚だしく、またカラクムルの調査・研究自体 日が浅い事もあって、5世紀以前のカラクムルに ついてはあまり知られていません。 石碑 114、435年(9.0.0.0.0.)や 石碑 43、514年(9.4.0.0.0.)が発掘され、日付は解明されているものの、史実は あまり読み解かれていません。 この為 562年の戦争についても他の遺跡の碑文資料に拠る事になります。

562年の星の戦争とティカルの敗北 Guerra de Estrellas en 562
古典期前期(250-600年)の終わりにかけてカラクムルとティカルの動きが周辺のセンターで記録されます。

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 (Altar 1 de Naranjo y su detalle)

ナランホはティカルの南東にあり、ティカルに従属しておかしくない立地ですが、546年の新王アル・フォサル(在位 546-615年~)の即位はカラクムルの 後見のもと行われます。 写真の祭壇1にはナランホの歴史が綴られ、対になる石碑25にはアル・フォサルの即位がカラクムルのトゥーン・カッブ・ヒシ ュの後見で行われたことが記されているそうです。 アル・フォサル王は長命で在位中 ナランホはカラクムルに従属していたものと思われます。

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 (Templo de Caana, Caracol)                    (Juego de Pelota del Grupo A, Caracol)

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                 (Altar 21 de Caracol)

ナランホの更に南東にあるベリーズの カラコル でも動きが見られます。 カラコルも 規模の大きなマヤセンターで カーナ神殿(写真上左)で知られますが、その球戯場に置かれた祭壇 21 (写真下) にカラコルの歴史が刻まれていました。  これによると 553年のヤハウ・テ・キニチ2世の即位はティカルのワク・チャン・カウィールに後見されるものの、3年後の556年には一転してティカルに 攻め込まれたようです。

この背景としてはカラクムル勢力の伸長が考えられ、カラクムルと組んだカラコルをティカルが罰したものと考えられます。 しかしティカルの ワク・チャン・カウィール は562年の星の戦争で敗北した事が祭壇21に刻まれ、勝利者の名前は カラコルのヤハウ・テ・キニチ2世ではなく、カラクムルの 「空をみる者」王 と 読めるようで、その後のティカルの没落とカラクムルの繁栄を考え合わせると、カラクムルとカラコルが組んで、562年の星の戦争でティカルを打ち破ったと 考えて良さそうです。 562年の星の戦争にナランホが参加した記録はありませんが、ティカルの近くにあって周辺のティカルの従属国への備えにはなっていた かもしれません。

562年の星の戦争について、ティカルはその後低迷期に入った為に記録がなく、カラクムルでは石碑は沢山あるものの風化してしまっている為、書かれたものは 見つかっていません。

7世紀前半のカラクムルの繁栄  Evolución de Calakmul
カラクムルでは「空をみる者」王の後、「渦巻きヘビ」(在位 579-611年~)が更に覇権主義を継続したようです。

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 (Escalinata jeroglifica de Palacio, Palenque)          (Templo de las Inscripciones, Palenque)

メキシコ・チアパス州のパレンケは古典期マヤの西端で繁栄した大きなマヤセンターのひとつで、キニチ・ハナーブ・パカル1世(在位615-683年) と キニチ・カン・バラム2世(在位684-702年) の時に最繁栄期を迎えるのですが、その直前にカラクムルの侵略を受けていた事がわかっています。 大宮殿の 東の中庭に残る神聖文字の階段(写真左)に599年にあったカラクムルによる侵略、略奪が、また碑文の神殿上部(写真右)にある碑文に611年に再びカラクムル の略奪を受けたことが記されているそうです。

こうした碑文の解読は部分的で、消えてしまった碑文や未発見の碑文もあるでしょうから、読み解かれたものが全てと言う訳ではありませんが、それにしても パレンケの繁栄の直前に、遠く離れたカラクムル (パレンケから直線でも 250Km !) からの侵略を受けていたと言うのは興味深い事実です。

パレンケの東にはメキシコ中央高原とグアテマラ高地を繋ぐ主要な交易ルートだったウシュマシンタ川があり、カラクムルがパレンケに行き着く前に、 ウシュマシンタ川沿いのピエドラス・ネグラスやヤシチラン、或いはより小規模なマヤセンター等と数多くの争いが繰り広げられていた事は容易に 想像できます。 

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                               (Ajau Nudo, 599-613AD, Estela 5, Caracol)

東の方に目を転じてみましょう。 カラクムルと共にティカルを敗北へ追いやったと思われるカラコルでは写真の「結び目アハウ」、カン2世と親カラクムル の王が続きますが、ナランホではアル・フォサルの後の王が反旗を翻した(多分親ティカルに転じた?)為に、626年にカラコルのカン2世に攻められます。  そして631年の星の戦争でナランホはカラクムルの「ユクノーム頭」に屈服させられたようです。

カラクムルとティカルと言う2大勢力の間で、ナランホやカラコルが翻弄されていた様子が見えるようですが、 この時代カラクムルについた方が分が良かった事になります。

ドス・ピラスを巡る戦い  Guerras en Petexbatun
6世紀中頃にティカルと別れたペテシュバトゥン地方のドス・ピラスを巡って、カラクムルとティカルの争いが繰り広げられます。  詳しくはドス・ピラスのページ で紹介済みでそちらを参照頂きたい と思います。

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  (B'alaj Chan K'awiil de Dos Pilas, Estela 9)           (Itzamnaaj K'awiil de Dos Pilas< Estela 11)

左はドス・ピラス王朝の初代バラフ・チャン・カウィール(在位 648-692) が刻まれた石碑9から王の横顔。 右は2代目 イツァムナーフ・カウィール (在位 698-726 AD)で石碑11から。

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         (Escalinata jeroglifica 2 de Dos Pilas)

写真は2001-2002年の発掘調査で全て掘り出された神聖文字の階段2で、この解読からティカルとドス・ピラス、そしてカラクムルの関係が明らかに なってきました。 ごく最近の話です。

碑文の解読からバラフ・チャン・カウィールの誕生とドス・ピラスへの到着、その後カラクムルの干渉を受けてのティカルの ヌーン・ウホル・チャーク (在位~657-679AD?) との戦争、 672年の敗北ではティカルによりドス・ピラスを追われ、 677年にはまたドス・ピラスを取戻してと、歴史が克明に再構築されました。 そして最終的には 679年に星の 戦争でティカルのヌーン・ウホル・チャークがカラクムルとドス・ピラスの勢力により打ち負かされます。

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   (6 Cielo o Lady Sky de Naranjo, Estela 24)

631年の星の戦争でカラクムルに屈服させられたナランホはその後も反旗を翻し(ティカルの後押し?)、680年にはカラコルに星の戦争を仕掛けて、 カラコルを破り、カラコルをその後100年を超す暗黒時代に追いやったようです。

でもナランホの優勢も長くは続かず、おそらくその後カラクムルに敗北したのでしょうか、682年になるとドス・ピラスのバラフ・チャン・カウィールの 娘 「6の空」 女王がナランホの王位に就きます。 写真左はその女王の横顔、足元には捕虜を踏みつけて…、石碑24です。

ティカルとカラクムルの争いが、属国を巻き込んで…、結果としてティカルから分岐したドス・ピラスからティカル近くのナランホへ女王が派遣されて、 ティカルに睨みを利かす…、何ともスケールの大きな話です。 この時代カラクムルの王は大ユクノームと 呼ばれる ユクノーム・チェーン2世(在位 636 - 686AD) で、その勢力は西はタバスコ州の モラル・レフォルマ、ウシュマシンタ川東岸のピエドラス・ネグラス、 エル・ペルー、そしてドス・ピラス、更に南に下ってカンクエン、 東部はカラコルにナランホと、ティカルを取り巻く地域を抑えていたようです。

ティカルの勝利 695年  Tikal derrota a Calakmul en 695
679年にドス・ピラスとカラクムルの前にヌーン・ウホル・チャークが敗北したティカルですが、3年後に息子の ハサウ・チャン・カウィール1世(在位 682-734AD) が即位して復興が計られます。

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  (Jasaw Chan K'awiil I, 682–734AD, Estela 16, Tikal)

左は石碑16の複製から切り出したハサウ・チャン・カウィール1世、不鮮明なので右に模写をつけました。 ハサウ・チャン・カウィール1世は即位 13年後の695年にカラクムルに対して決定的な勝利を収めたようで、ティカルのアクロポリスに聳える1号神殿 上部を飾る木製のまぐさ(写真下左)にはその勝利の様子が刻まれます。 敗れたカラクムルの王はイチャーク・カックで、その後捕えられて生贄に された可能性もあるようです。(イチャーク・カックの豪華な副葬品を伴った埋葬がカラクムルの建造物 II で見つかっているのですが…。)  この勝利によって永年低迷を続けたティカルは飛躍的な復興を遂げ、大規模な建築活動が始まり、現在遺跡で目にする神殿群の多くは この時代以降に築かれる事になります。

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  (Dintel 1 de Templo I, Tikal)          (Altar 5, Tikal)

711年のカトゥンの終わり (9.14.0.0.0.) を記念した複合Nの祭壇 5 (写真右)にはハサウ・チャン・カウィール1世とマーサルの王が刻まれていますが、 マーサルとはエル・ミラドール近郊のナーチトゥンと考えられ、ティカルがカラクムルの近くまで攻め上っていった可能性が示されます。


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(Yuknoom Took' K'awiil de Calakmul, Estela 51)    (Yik'in Chan K'awiil de Tikal, Dintel 3 de Templo IV)

695年の敗北後のカラクムルでは ユクノーム・トーク・ カウィール(在位~702 - 731?AD) (写真左、石碑51から)のもと復興が計られ、石碑や建造物の建立が行われますが、次第に衰退の途を辿った ようです。

ティカルでハサウ・チャン・カウィール1世の後を継いだ息子の イキン・チャン・カウィール (在位 734-746~) (写真右、4号神殿のまぐさ3)は建築活動および軍事面で成果を残し、カラクムルが衰退 に向かう中、743年にエル・ペルーを、744年にはナランホを破っていったようです。

しかし時代は古典期マヤの崩壊に向かいつつあり、2大勢力に伍して周辺のセンターの力が増していった事が、周辺での石碑等の記念物の 増加で確認されます。




ティカルとカラクムルの戦争についてはここまでですが、周辺部でも戦争の模様が明らかになっており、ヤシチランとピエドラス・ネグラスの宿命の対決、 パレンケとトニナの争いなどが知られます。 ヤシチランと ピエドラス・ネグラスは共に石造記念物が豊富で、 「マヤの戦争 2」 として別途まとめます。

「遺跡へ」 のページでは各遺跡を個別に点で見ていますが、戦争と言う切り口で遺跡間の関係が線でつながると、古典期マヤ社会の理解が立体的になり、 マヤの魅力も倍増です。



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