マヤ遺跡探訪
EL PERU WAKA
エル・ペルー・ワカは古典期マヤの歴史にしばしば登場する重要なマヤ・センターのひとつですが、ペテン県マヤ生物圏保護区の ジャングル奥深くにあり、未修復の遺跡を訪れる人は多くありません。

本格的な発掘調査が 2003年から始まり、発見された王墓から史実を裏付ける興味深い副葬品が次々に回収され、一部は昨年メキシコ市で 開催されたマヤ展にも出品されていて、一度どんな場所か行って見たいと思っていました。

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フローレスから日帰りは殆ど無理な場所で訪問は難しいと思っていましたが、遺跡訪問の拠点になる施設で一泊すれば行ける事がわかり、 2015年マヤの旅の最後に寄ってみる事にしました。

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     (訪問日 2015年1月22日)
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EBG から エル・ペルー・ワカへ   Desde EBG al sitio arqueológico

拠点は EBG (Estación Biológica Las Guacamayas) で、強いて日本語にすると 生態系調査ステーション ”コンゴウインコ” と言ったところでしょうか。 フローレスから北西へ陸路2時間半、サン・ペドロ・マルティール川岸の パソ・カバーヨス へ。 ここから 更にボートで西へ30分弱下って EGB に到着、ここで前泊です。

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 (Amanecer en Bungalo de EBG)

夜明け前に起きて遺跡訪問に備えます。 左は泊まったバンガローのベランダで、東方向は森があって日の出は見えず、右は西方向へ 下っていくサン・ペドロ川で、共に日の出直後に撮ったものです。

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 (Salida de Embarcadero de EBG hacia El Peru Waka)

食堂で朝食を済ませ、7時半過ぎに船で EGB を出発、右は船から見た宿泊したバンガローで、一路西へ、エル・ペルー・ワカを 目指します。

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 (Viaje en Lancha por el Rio San Pedro Martir)

この辺りのサン・ペドロ川は流れが緩やかで、川面は周囲の緑を映し出す鏡のようです。 20分程の心地よい船旅で、エル・ペルーワカ の船着き場到着でした。

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 (Embarcadero de El Peru Waka)

サン・ペドロ川の北岸に上陸、「ようこそエル・ペルーへ」 の手書きの看板です。 遺跡はここから北西へおよそ 6Km、徒歩で2時間の 行程ですが…。

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 (Camino hacia El Peru Waka)

遺跡へ向かって歩き始めますが、かなりの悪路。 ペテン地方ではメキシコより雨期明けが遅く、ぬかるみだらけの道で先が思いやられますが、 少し行くと分岐点があり右の看板が。 北へ遺跡、南は川です。

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 (4WD Polaris, gran ayuda para ir a la ruina)

ここで頼んでおいた車が待っていてくれました。 四駆のオフロード・ビークル、”ポラリス”です。 これで時間が節約でき、体力も 温存できます。 普通ここは時間をかけても歩くところですが、若くないのでお願いしました。 移動時間を短縮した分、遺跡でゆっくり 時間を使えます。

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 (Campamento para los arqueologos)

途中遺跡調査の起点になるキャンプを通ります。 2003年に始まったエル・ペルーワ・ワカ プロジェクトの本拠地ですが、まだ今年の活動が始まる 直前で閑散としていました。

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 (Letrero y mapa del sitio en el Campamento)

エル・ペルーの看板がありますが、遺跡はまだ先です。 広場には 1969年にイアン・グラハムがマッピングした地図がありますが、 その上に赤で加筆された広場の番号は間違っているので要注意です。

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      (Otro letrero en el Campamento)

これも広場にあった大きな看板で、「ようこそエル・ティグレ国立公園とエル・ペルー・ワカ遺跡へ」 となっていますが、自然を 求めて国立公園に来る人の方が多そうです。 地図で矢印が付いた所がキャンプで、ピラミッド・マークの遺跡はまだ先です。

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 (Recorrido de EBG al Sitio por GPS Logger)

これはGPSロガーで記録した当日の軌跡で、EGBから川を下り、船着き場から Campamento と書いてあるキャンプまで来ました。

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 (Monticulo en el camino)

キャンプから更に北西へ遺跡を目指します。 遺跡への道半ばで傍らに土塁も出てきますが、遺跡の中心はまだまだ先。  掘れば石組みが出てくるのでしょうが。

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 (Anuncio de Ecosistemas)                  (Una cueva cerca del sitio)

遺跡に近づくと 国立公園内のエル・ティグレ湖がラムサール条約で登録された湿地である事を説明する看板があり、ここから右へ道をそれていくと マヤの時代から用いられていたと思われる洞窟があり、底に水が溜まっていました。 遺跡の中心部はもう近くです。

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 (Camino a las Plazas y el Grupo Mirador)

上の看板の少し先にミラドール・グループへの近道を示す看板がありました。 真っ直ぐ行くと遺跡中心部の広場ですが、右にそれて丘を登って 行くと直接ミラドール・グループへ出るようです。

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 (Pavimento de la epoca de Maya)

看板の先は湿地になっていて、マヤの時代には漆喰で厚く舗装されていたそうですが、チクレの採集業者が機械を入れるのに邪魔で 舗装は 脇に寄せら、現在はそそり立った壁のようです。 お蔭で道は右の写真のようにまた ぬかるみです。

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 (Entrada/Base a las Plazas)

さて少し開けた所に出ました。 看板が3つにベンチもあり 一応遺跡の入口のようです。 何せ遺跡は未修復で何処から何処までが遺跡か わかりません。 下は遺跡周辺のGPSロガーによる軌跡で、BASE と印した所が現在地です。

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 (Tres letreros en la Entrada)

看板のひとつはコンゴウインコについてで、エル・ティグレ国立公園がグアテマラで主要な繁殖地になっているそうです。 もうひとつは マヤの時代から生態系の頂点に立つジャガーについてで、ジャガーを意味するバラムはしばしばマヤの王の名前に用いられますが、その ジャガーもマヤ生物圏保護区が主要な生息域になります。

みっつめの看板ではマヤの時代の交易路について語られ、サン・ペドロ川による東西を結ぶ水路に加えて、北のカラクムルからの陸路について 触れられており、この重なり合う水路と陸路がエル・ペルー・ワカの運命を左右していくことになるのですが、この事は追って 説明していきます。

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 (Letrero hacia las Plazas)

エル・ペルー・ワカの中心部になる広場には、この看板の所から なだらかな坂を上っていきます。 ここまでポラリスに乗って来ましたが、 自然を愛でながら途中下車を繰り返し、結局 船着き場から2時間以上かかりました。 でも体力は十分、ここから遺跡はポラリスを 降りて歩いて回ります。

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広場に上がる前に地図の確認です。 地図は エル・ペルー・ワカ・プロジェクトの PDF資料 からお借りして、広場の番号を付記しました。 キャンプの地図では 広場1 が2、広場4 が3 と誤記されていましたが、広場2 はこの地図にあるように建造物 M13-1 の土塁の前で、遺跡に入って最初の広場 になります。



エル・ペルー・ワカ  広場 2   Plaza 2
前段が長くなりましたが、実際の遺跡は繁みに覆われた土塁と石碑の残骸が殆どで、あまり興味のない人には面白くないかも しれません。 でもテオティウアカンだ、ティカルだ、カラクムルだと、マヤの歴史が垣間見える興味深い遺跡なので是非 お付き合いください。

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 (Plaza 2)

細道を北へ登っていき、開けた所が広場2 で、左側の細い木に "PLAZA No.2" と看板が打ち付けてあります。 正面の大きな木の 後ろが未修復の土塁で、実はこれがエル・ペルー・ワカで一番大きな建造物 M13-1 です。

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 (Plaza 2)

広場の雰囲気がわかるように写真を2枚合成しました。 上の写真から左方向で、低木が生えていますが 一応広場らしい広場です。  広場2 が現在の遺跡訪問のスタート地点になり、往時のエル・ペルー・ワカの様子を描いた看板がありました。

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 (Letrero para el sitio de El Peru Waka)

上は看板の全体です。 エル・ペルー・ワカの中心部は 1.5㎢ の範囲に広がり、アクロポリス、宮殿、広場、住居など、全体で 700を超える 建造物があり、その立地、規模から古典期のマヤ低地で重要な位置を占めた事、またイアン・グラハムが70年代初めに測量を行い 石造物の登録を行ったが、本格的な考古学調査は2003年に始まったばかりである事等が書かれています。

下は街の想像復元画からミラドール・グループを除いて、広場 1-4 を切り出したものです。 東西がひっくり返っていて、右が西、 左が東方向になり、現在位置は左寄りの M13-1 の前です。

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 (Estela 6)

上の写真に茅葺きの屋根が見えていましたが、屋根の下はこの石碑です。 2003年からの活動で掘り出された石碑6 になるようで、 M13-1 の前に建てられていたものと思われます。 屋根で保護されていますが、掘り出された時に既にボロボロだったようです。

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 (Estructura M13-1)

石碑の左(北側)にトタンで蓋がしてありましたが、発掘現場を覆っているもののようです。 この横から土塁の上にあがってみます。

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 (Primer nivel de Estructura M13-1)

ここは最初の基壇を上がった所で 踊り場になっていますが、踊り場の先に中央と左右に建造物が3つ設けられていたようです。

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 (Primer nivel de Estructura M13-1)

上部建造物の基部が一部掘り出されていました。 現在は試掘段階で本格的な修復はまだずっと先の事でしょうか。

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 (Estructura central de M13-1)

これは基壇上の中央の建造物の土塁を見上げたところです。 発掘はしても修復前提ではないので、発掘後 直ぐに埋め戻されてしまい、 遺跡全体で石組みが露出している所は殆どありません。

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 (Escalinata central de M13-1)

最初の基壇の上から西方向を見降ろすと、先ほどの石碑が見えてきます。 中央階段の跡のようで、あちこちに石材が顔を覗かせます。  7世紀末のカーベル王妃の埋葬が 2012年の発掘で発見されていますが、中央階段の下との事なのでこの辺りだったかと思います。  カーベル王妃はカラクムルから送られたユクノーム・チェン2世の娘ですが、これは広場 1 の石碑のところでまとめて説明します。

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 (Seccion superior de la Estela 9)

発掘の過程で M13-1 の内部から石碑の断片が数多く発見されています。 1970年頃に盗掘で石碑が損壊されますが、エル・ペルー・ワカ 王朝没落後の古典期後期から終末期にかけて、既に多くの石碑が破壊されていたようです。 写真は内部から見つかった石碑9 の上部で、 石碑6 の北側に保護されています。

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 (Otra estela al lado de Estela 9)

更に北側にある石碑、人物が彫られているようですが、石碑の断片で、上の部分だけのようです。


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 (Otra estela en Plaza 2)

広場2 には北側に更に3本の石碑が寝かされています。 これがその1本で上部が失われて基部だけですが、テオティウアカン風のトラロックで 表された大地の怪物の上に立つ人物の足だけ残っています。

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 (Otra estela en Plaza 2)

この石碑もかなり断片化していますが、大きな羽飾りの被り物を付けた王が刻まれていたようで、様式は上のトラロックが 彫られた石碑とは異なります。

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 (Otra estela en Plaza 2)

更にもう1本。 上の石碑と似た図柄で 王の被り物が認められますが、全体的にはかなり風化しています。


広場2 の石碑はかなり風化したり断片化したものが多いですが、ここからどの程度の史実が解き明かされるのでしょうか。



エル・ペルー・ワカ  広場 3   Plaza 3
広場2 を西に抜けて少し行くと広場3 にでます。 他の広場に比べると小さな広場で、石碑が2本だけですが、マヤ史上極めて重要な 出来事が刻まれており、 実物は地面に寝かされていますが、 実物大の複製が2本並んで立てられています。

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 (Plaza 3 y las estelas)

上は2枚の写真を合成したもので、広場3 に入るとこんな光景が目に入ってきます。

正面と左端に保護の屋根があり、石碑のオリジナルはここに寝かされています。 かなり風化していますが、1970年代に模写されて いるので複製製作の参考になったでしょう。

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 (Base original de Estela 15 in situ)             (Base original de Estela 16 in situ)

それぞれの石碑の基部が元の位置に残され、石碑の建てられていた場所がわかります。 左が石碑15、右が石碑16 の基部です。

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 (Réplicas de Estela 16 y Estela 15)

これが2本並んだ複製で、FRP製です。 左が石碑16、右が石碑15 で ガイドのコルネリオ君と比べるとその大きさがわかります。

石碑15 は前面と両側面が全て碑文で埋め尽くされ、左上の 13 の数字は 10 Ajaw 13 K'ayab' 8.19.0.0.0. を表し、古典期前期の 416年にエル・ペルー・ワカのキニチ・バラム王がカトゥンの終了を祝うために奉じたものです。 これはエル・ペルー・ワカで 最も古い石碑になりますが、ここで更に注目されるのは碑文の中に 7 Mac 3 Kan 8.17.1.4.4 と 378年1月の日付でテオティウアカンの シャフ・カックの到着が刻まれている点です。

エル・ペルー・ワカの南を流れるサン・ペドロ・マルティール川はタバスコ州の モラル・レフォルマ の先でウシュマシンタ川に合流し、最後はグリハルバ川になってカリブ海に注ぎ込みますが、ペテン地方西部に位置する エル・ペルー・ワカはメキシコ中央高原と水路で繋がった謂わばペテン地方への入口とも言えます。  ここにテオティウアカンのシャフ・カック の到着が記され、その数日後にティカルにシャフ・カックが入り、ティカル王朝に新しい王が生まれる…、ここからはいろいろな推論が可能ですが、 実際テオティウアカンとエル・ペルー・ワカは当時どういう関係にあったのでしょう?  下はその石碑15 の現在の姿で、歴史の生き証人です。

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 (Estela 15, original)


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 (Estela 16, original y replica)

こちらはもう一本の石碑16 で、実物はこちらもかなり風化してきていますが、比較的状態の良い中央部分を本物と複製で比べてみました。

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            (Estela 16, original)

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        (Estela 16, réplica)

石碑15 はキニチ・バラムの後を継いだドラゴン・ジャガーにより458年に奉納されたもので、ここに描かれているのが例のシャフ・カック だそうです。 右手にふくろうの頭が付いた投槍器を持ち、左手にはテオティウアカン風の火の袋を持ち、死後に彫られたシャフ・カックの肖像 になるようです。

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  (Réplicas de Estela 16 y Estela 15)

シャフ・カックの到着を記した石碑15 とそのシャフ・カックの肖像が刻まれた石碑16。 この2本の石碑が建てられた5世紀の エル・ペルー・ワカはどんな王朝だったでしょうか?

テオティウアカンとペテン地域の間ではシャフ・カックの到着以前から交易を通じて交流があったようですが、エル・ペルー・ワカは 親テオティウアカンのマヤ王朝としてテオティウアカンのティカル侵攻を手助けしたのか、或は既にテオティウアカンの属国になって いたのか…、確かなことはわかりませんが、水路を通じて古くから東西の交易路の要衝を占めたエル・ペルー・ワカの存在を思い起こさせてくれる 2本の石碑です。



エル・ペルー・ワカ  広場 4   Plaza 4

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 (Recorrido dentro del sitio)

先を急ぎます。 木々に囲まれた小道を北西へ数分歩くと "PLAZA No.4" の標識が出てきます。


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  (Plaza 4 y un monticulo)

広場と言ってもあちこちに小木が生えていてあまり見通しがききません。 上は南東方向から広場4 に入ったところで、下のパノラマ 画像はその左(西方向)です。 土塁がありますが地図でどの建物になるのか、皆目見当がつきません。

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  (Un juego de altar y estela)

上の土塁の向かいに脚付きの祭壇と崩れた石碑があります。 保護の屋根があったようで 柱だけ残りますが、もう屋根を付け直す 努力はされないようです。 下は角度を変えて撮った同じ祭壇と石碑ですが、もう殆ど何が彫られているのかわかりません。

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  (Monumentos en Plaza 4)

石碑と祭壇のセットから西方向に広場が伸びていて、先の方にまた石造物が見えます。

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  (Otro juego de altar y estela)

これも別の石碑と祭壇のセットでした。 石碑は中央で鋭角的に切断されているので、盗掘者の被害に遭っているのかもしれません。

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  (Inscripciones en el altar)

祭壇の方は周囲に彫られた碑文がかなり明瞭に残っています。 特に説明もなく どういう祭壇で 何が刻まれてのかわかりません。


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  (Mas monumentos en Plaza 4)

更に西方向へ進むと、また祭壇と石碑が…。 周りの茂みの中は多分土塁で、建物が埋まっているのだと思います。

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  (Un alter con soportes)

これは上の写真に写っている脚付きの祭壇で、彫刻が残っているように見えますが厚い苔で覆われており、風化の一途でしょうか。

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  (Una estela sasqueada)

こちらは同じく上の写真に写っている屋根の下にある石碑の残骸で、盗掘者の手で見事に鋸で挽かれた跡がありありです。  石碑の側面の碑文と正面の人物の足の部分だけ残っていますが、盗掘の途中だったのでしょうか? お金の為に歴史を解明する 手がかりを破壊する人たち、許せませんね。

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  (Un altar gravado con soportes con el diseño de monstruo de la tierra)

上の無残な石碑の北側の屋根の下はこの脚付き祭壇で、脚の部分は顔の彫刻が施されています。 ウィキペディアの エル・ペルー・ワカのページにはこの祭壇の写真が使われていますが、説明は見当たりません。



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  (Area de Acropolis de la Plaza 4)

石造物群のある所から西の方へ暫く歩くとやや起伏に富んだ場所に出ました。 これがアクロポリスなんだそうです。 地図を 見ると確かに広場4 の西側に中庭を持つ矩形の建造物がありますが、これがアクロポリスだと言われても何となく納得感があるような無いような。


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  (Monticulos de Juego de Pelota en la Plaza 4)

少し北東に移動すると今度は球戯場だそうです。 ふたつの土塁をパノラマ合成すると何となく球戯場跡のように見えてきます。  (^-^)


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  (Mas juego de estela y altar)

広場4 を東の方へ戻ると また別の石碑と祭壇のセットがありました。 共に彫刻が残るようですが厚い苔に覆われています。  ここがまだ広場4 なのか、広場の外に出たのかわかりませんが、一応ここまでを広場4 とします。



エル・ペルー・ワカ  広場 1   Plaza 1

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 (Recorrido dentro del sitio)

広場4 から 広場1 へ。 広場 1 へは北西側から入ります。 広場1 にはまた沢山の石碑があり、7世紀末頃のエル・ペルー・ワカの 様子が明らかになります。

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 (Estela 32 y 35)

これは広場1 に入ったところで、左側の屋根の下に石碑が1本あり、右の屋根は木製のベンチがあり休憩所なっていて、更にその右 に石碑の残骸が見えてきます。

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 (Monumento 2 Maria Tecún)

左は屋根の下の石碑(32?)で、表面が剥ぎ取られているように見えます。 右は休憩所の右手前(南方向)にある石碑(35?) と祭壇のセットです。

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  (Resto de Estela 33 y 34 despues de saqueo)

ここで重要なのは休憩所の横にある石碑33(写真手前) と石碑34(写真奥) の残骸で、剥ぎ取られた石碑の表面はアメリカの博物館に 納められています。


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 (Resto de Estela 33 despues de saqueo)           (El superficie de Estela 33 en Kimbell Art Museum)

石碑33 は ダラス・フォートワースのキンベル美術館 の収蔵品で、ダラスは帰国時の経由地になり、折角なので町まで足を運んで実物を見てきました。 高さ 273cm もある立派な石碑で、 繊細な彫刻も細部まで残っていて、感動を覚えました。

でも遺跡に残された残骸を見ると、石碑が縦横に鋸で挽かれた後、表面を剥がされていった様子がわかり、何とも無残です。  密輸の為に薄い断片にしてしまった訳ですが、実際博物館の展示を横から見ると下の写真のように薄っぺらい石碑になっています。

1960年代に盗掘され、博物館は 1970年に購入した事になっており、こうした文化財の略奪・密売は到底許されるものではありませんが、 博物館で保管された為に風化を免れたのも事実で、複雑な思いになります。 個人のコレクションとして私蔵されなかったのがせめてもの 救いです。

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 (Estela 33 vista del lado lateral)

石碑33 には6世紀後半から7世紀にかけてのエル・ペルー・ワカの王、キニチ・バラム2世の肖像が刻まれ、692年にあたる 9.13.0.0.0. のカトゥンの終わりを記念して石碑34 と共に奉じられたものと読み解かれています。


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 (Resto de Estela 34 despues de saqueo)        (El superficie de Estela 34 en Cleveland Museum of Art)

そしてこれがもう一方の石碑34 で、こちらの方が盗掘の跡が更に生々しく残っています。 下の写真は遺跡に残された石碑の残骸で、 側面に彫られた碑文は今も遺跡で眠っています。

石碑33 同様 1960年代に盗掘され、クリーブランド美術館が 1967年に購入しており、高さ 274cm の これまた見事な石碑です。  画像は同美術館のページ からお借りしました。 石碑に刻まれた人物はカラクムルからキニチ・バラム2世に嫁いだ カーベル王妃で、 カロームテと最高権力者の称号が与えられ、夫の王よりも大きな権力を持っていたようです。

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 (Lado lateral con inscripciones de Estela 34 que queda en el sitio)

さてここでカラクムルが登場しました。 古典期マヤでティカルと覇を競うカラクムルです。 古典期後期の興味深いマヤ史の一端を 見る事になります。

古典期前期にあたる4世紀後半のエル・ペルー・ワカについては 広場3 の石碑15 と 16 で、テオティウアカンのティカル侵入の 起点になった事が明らかになっていますが、ティカルで新しい王が即位した後は、ティカルとの友好関係が維持されたようです。

これまでに明らかになった古典期のマヤ史では、562年にティカルは戦争に負けて暗黒時代に入ります。 現在のベリーズに位置する カラコル遺跡 の祭壇21 にティカルの敗北が刻まれますが、 カラコルの背後にいたのがカラクムルだったと言うのが現在のおよその定説のようです。

ティカルの敗北後ティカルと友好関係にあったエル・ペルー・ワカはどうなったのでしょう? 詳しい事はわかりませんが、石碑33 には キニチ・バラム2世がカラクムルのユクノーム・チェン2世の後見で即位した事が記され、ユクノーム・チェン2世の娘と婚姻関係を 結び、王妃の方が大きな権力を持ったという事ですから、ティカル敗北後のエル・ペルー・ワカがカラクムルの勢力範囲に入った事は 明らかです。

遺跡の入口の看板で カラクムルから南へ延びる交易路についての言及がありましたが、カラクムルからラ・コロナを通ってエル・ペルー・ワカ で水路による東西の交易路と交差した後 ペテシュバトゥン地域を抜けてペテン南部のカンクエンに至るルートが出来ていたようです。 この 南北のルートが東西の交易路と交差する所に位置するエル・ペルー・ワカが、ティカルとカラクムルの勢力争いに無縁でいられた筈はありません。



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 (Conjunto de los monumentos en Plaza 1)

先を進めましょう。 石碑33、34 の真東の方向に また沢山の石碑が見えてきますが、石碑の番号を含めて詳細がわからないので、 写真だけ並べておきます。

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 (Replica de una estela y original abajo)

これは上の写真の右の方に見えている石碑で、唯一複製が作られています。 上が複製で、オリジナルは複製の後ろの方に横たえられて います。 キニチ・バラム2世の石碑だそうです。

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 (Mas y mas estelas)

これは複製のある石碑のおよそ南側にあった石碑4本で、詳細がわかれば説明を追加しますが、既にかなり風化の進んだ石碑です。

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 (Conjunto de los monumentos en Plaza 1)

これは複製のある石碑の北側。 大きな円形祭壇の他、屋根が付けられた石碑が沢山並んでいます。


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 (Una estela con inscripciones medio saqueada)

これは上のパノラマ画像の一番左の屋根の下にある石碑で、厚い側面に文字が刻まれた立派な石碑だったようですが…。

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 (Mas estelas)

上の石碑の右とその後ろの石碑で、前面に文字が彫られた石碑は下の部分だけです。

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 (Mas estelas)

右上の写真の石碑の右(東方向)に更に石碑が続きます。

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 (Una estela esculpida con estado de deterioro)

上の画像の右側の石碑で、折れて風化も進んでいますが、細かく図像が彫られていたようです。

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 (Mas estelas)

更に東側に石碑が続き、2本とも また別の石碑です。

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 (Parte inferior de una estela saqueada)

右上の石碑の部分写真です。 石碑の鋭い断面から20世紀になって盗掘者の被害にあっているようで、中央に刻まれた人物の 膝から下だけが遺跡に残されます。 中央の人物は大地の怪物の上に立つようで、大地の怪物の目は向かい合った2人で 表されています。 

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 (Resto de trinchera hecha por los saqueadores)

石碑を辿って広場1 の東端に来たようです。 上の石碑の後ろ側辺りに土塁が掘り進められている所があり、これは 盗掘抗の入口を塞いだものでした。


石碑33 と34 以外はあまりよくわかりませんでしたが、以上、広場1 でした。 キニチ・バラム2世はカラクムルがティカルに 敗れた後も生き延びて 711年にあたる14カトゥンの終わりを祝う石碑にも登場し、4カトゥンの王と呼ばれて長命だったようです。  カーベル王妃 (女王と呼んだ方が適切かもしれませんが) の正確な没年はわかりませんが、711年以前には逝去していたようで、 その埋葬は広場2 の建造物 M13-1 で発見されています。



エル・ペルー・ワカ  ミラドール・グループ   Grupo Mirador
ミラドール・グループは発掘・調査は始まっていますが、観光的にはあまり見るべきものが無く、殆どの人は広場だけでミラドールへは 寄らないようです。 しかし メキシコのマヤ展で展示されていた埋葬39の奉納品 の印象は強烈で、どんな所で見つかったのか自分の目で確かめたく、 これがエル・ペルー・ワカへ来るひとつの動機でもありました。 埋葬39 はミラドール・グループで見つかっているのです。

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  (Recorrido dentro del sitio)

ミラドール・グループは広場のある中心部から南東方向で、広場より 50m 位高く、エル・ペルー・ワカで一番高い丘の上に築かれた ピラミッド複合で、 す。

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  (Sendero hacia Grupo Mirador)

距離はそれ程でもありませんが、ミラドール・グループに近づくにつれ 急な登り坂になり、倒木で道を塞がれた所もあり、 ガイドなしでは到底行ける所でありません。

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  (Letrero del Grupo Mirador)

広場1 を出てから20分弱でミラドールのピラミッドの麓まできました。 ミラドール・グループを紹介する看板を見つけて一安心。  やれやれです。


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  (Letrero del Grupo Mirador)

上は広場2 にあったエル・ペルー・ワカ全体の想像復元画で、左隅にミラドール・グループの赤く塗られたピラミッドがふたつ見えていました。

下はミラドールの看板で、ミラドール・グループが広場2 より 45m 高い位置にある事、考古学調査で古典期前期に遡る埋葬24 と 25、 および古典期後期初めの埋葬39 が発見されている事、埋葬39 の副葬品は当時の宮廷風景を偲ばせる24体の人形が含まれる事、 等が説明されます。 (人形の数え方で、23体とする場合もあります。)

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復元画は方角が不正確で、正確にはこの地図のようにふたつのピラミッドはおよそ西を向いて建てられています。 この内 調査されて 埋葬が発見されたのは南側の O 14-4 で、ここからの発掘品の整理修復の為に更なる発掘は控えられているようです。 北の O 14-2 も調査すれば驚くような発見があるのかもしれませんが、発掘は何時着手されるのやら。

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  (Estela 1 de Grupo Mirador)

さてここから 建造物 O 14-4 を探索です。 O 14-4 は上の図にあるような構造で、高さ 8m の基壇上に建てられた 高さは 12m の3層の ピラミッドで、ピラミッドの前面に低層の基壇が取り付けられている訳ですが…、全体が深い繁みに 囲まれている為、今 一体 何処にいるのかもわかりません。 でも写真の石碑があり、既に 8m の基壇上にいる事がわかりました。 知らないうちに基壇を 登ってきた事になります。

石碑はキニチ・バラム2世により 657年に奉じられ、王の肖像が彫られていた可能性があるようです。  692年の石碑33 の 35年も前にキニチ・バラム2世がエル・ペルー・ワカの王になっていた事になりますが、風化した石碑からは 解読が不正確なようです。

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  (Plataforma adosada a la piramide de Mirador)

これは石碑の前から東へ盛り上がった傾斜で、多分3層のピラミッドの前面に取り付けられた基壇だと思います。 調査プロジェクトの レポートには石組みや石の階段が掘り出された写真がありますが、調査シーズンが終わると埋め戻されてしまうようで、土塁の形から 想像力を働かす以外にありません。

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  (Hacia arriba de la Piramide)

前面に取り付けられた基壇の右側(南)を通ってピラミッドに登っていきます。 ピラミッドは3層ある事になっていますが、全面的に 土を被っていて何層目にいるかは判然としません。

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  (Parte superior de la Piramide)

ピラミッドの頂点が見えてきましたが、これ以上は道がなく、滑りやすい自然の起伏をよじ登っていく他ありません。 ガイドのコルネリオ君が上まで 頑張るか聞いてくれましたが、ご辞退申し上げました。

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                         (Techo para cubrir parte de excavacion ?)

ズームレンズでピラミッドの上の方をみると、人工の屋根がありました。 発掘現場に蓋がしてあるようです。 埋葬39 はどの 辺りだったのでしょうか? 


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            (Figurillas ofrendadas en el Entierro 39)

これが埋葬39 の副葬品の人形、上はミラドールの看板に描かれた6体、下はメキシコのマヤ展での展示で、正面左で丸い楯を持っているのが カーベル王妃です。 宮廷における祭礼を表現した人形の一群で、先王の埋葬で先王がトウモロコシの神となって再生する場面を表現したものと 考えられますが、詳細はエル・ペルー埋葬39の奉納品 にまとめてあるので、そちらを参照ください。



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  (Regreso a las Plazas)

写真はミラドール・グループから広場への帰り道を示す看板で、もと来た道を戻り、広場1 経由で帰途に就きます。


695年にカラクムルがティカルに敗れた後もエル・ペルー・ワカはカラクムルの同盟国として生き永らえたようですが、最終的に 743年には キニチ・バラム2世の跡を継いだ王がティカルに敗れ、カラクムルの同盟国としてのエル・ペルー・ワカ王朝はその終焉を迎えたようです。

エル・ペルー・ワカの歴史解明はまだ道半ばで、エル・ペルー・ワカ考古学プロジェクトの進展と今後の成果に期待です。



EGB また何時の日か。   EGB, hasta proxima vez !

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 (Estacion Biologica Las Guacamayas)

最後に遺跡訪問の拠点になった EBG について少し触れておきましょう。  写真は船着き場から上がって EGB の入口で、右奥の茅葺きの 屋根の下が食堂だったと思います。

下は EBG のロゴで、これをクリックすると EBG の遺跡ツアーのページが開きます。 ご希望の向きはここから EBG にコンタクトして エル・ペルー・ワカに是非足を運んでみたら如何でしょう。

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  (Vista panoramica desde el Mirador de EBG)

これは EBG にある展望台に登って南の方角を眺めおろしたパノラマ写真です。 左がサン・ペドロ・マルティール川で、右に見える 水路はサン・ペドロ川に注ぎ込む支流のサクルック川です。 一面緑に覆われて、自然を愛でるにも最高の場所です。

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 (Habitacion interior de Bunalo Loro Real)

サン・ペドロ川に一番近い、Loro Real とインコの名前が付けられたバンガローに一泊しました。 自然保護区内で電気は自家発電のため 使える時間は限られますが、室内は写真の通り一流ホテル並みです。 

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 (Comida en el comedor y Personal de EBG)

遺跡から戻り遅い昼食を取り、EBG のスタッフと記念写真を撮ってフローレスへ戻りました。

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 (Mirador de EBG)

これは帰途 船上から見上げた EBG の展望台で、上のパノラマ写真はこの展望台から撮ったものでした。

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 (Rio San Pedro Martir, Embarcadero y Iglesia de Paso Caballos)

帰りはサン・ペドロ川を遡ってパソ・カバーヨスへ。 右はパソ・カバーヨスの村の教会です。

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 (Atardecer en Laguna Sacpuy)

フローレスへは更に陸路2時間半ですから、フローレスへ着く前に夕暮れとなりました。

またいつか EBG とエル・ペルー・ワカに戻る日が来ると良いのですが。



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