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PINTURA MURAL RESTAURADA DE BONAMPAK

                ボナンパック壁画の修復と解読
1946年 5月、当時ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンをしていたアメリカ人 ジャイルズ・ヒーリーがラカンドン人のチャン・ボールに 導かれ偶然発見したボナンパックの壁画。 単に 1000年以上昔の古い壁画というだけでなく、平和な民族だったと言うそれ迄のマヤのイメージを 覆す驚くような光景が描かれていて、世界中の注目を浴びました。

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壁画は首都にある人類学博物館マヤ室裏庭に神殿ごと3部屋全て複製されていて、写真は第2室正面(南面)で敵兵の髪を掴んでいるチャン ・ムアーン2世(写真中央右)です。

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これは上下が切れていますが、現地にある実物の壁画から上の複製の写真の場面を撮ったものです。 写真を見易く補正してもこの程度ですから、壁画の読み取り、 解釈には複製、復刻が必須という事がご理解頂けるものと思います。

  《 このページには生贄などの説明で一部残酷でグロテスクな表現も出てきます。》   画像

壁画の修復と複製   Restauración y Reproducción
壁画は石灰岩を積み重ねた壁に漆喰を塗り込めた上に描かれており、通常こうした漆喰壁画は時の経過と共に剥離して失われてしまいます。  しかし神殿の建築上の問題でアーチ天井から水漏れがあり、石灰と塩分を含んだ水が壁を伝って壁画を被膜で覆い(石灰化)、結果的に壁画の剥落が 防がれたそうです。

しかし石灰化した不明瞭な壁画はそのままでは解読が困難で、壁画の修復と複製化が必須であり、その作業は壁画発見直後から始まりました。

1947-1948年にユナイテッド・フルーツの援助を受けたアメリカのカーネギー研究所がメキシコ考古学局(INAH)の協力の下に調査隊を派遣、グアテマラ人の アントニオ・テヘダとメキシコ人アグスティン・ビリャグラが過酷な環境の中、最初の複製作業を行います。

1963年には国立人類学博物館(MNA) の委嘱を受けたグアテマラ人のリナ・ラソが壁画を実際にトレース紙に写しとり、博物館の複製画を完成させます。  これが冒頭に紹介した人類学博物館の複製で、壁画には下の画像の通り署名と 1966 の文字が残されます。

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         (Réplica de MNA firmado por Rina Lazo)

遺跡ではその後も壁画の石灰化が進み、1984年から 3年かけて INAH の修復センターにより壁画のクリーニングと修復が行われ、それまで隠されていた 細部が再現されて壁画の解読が進みます。

90年代に入ってメキシコ自治大学の壁画プロジェクト(PMPM)により、壁画が細部にわたり記録され 1999年に2冊の出版物にまとめられ、その後の ボナンパック壁画のバイブルになります。  ここ迄はアナログの作業で、正確を期した為に強調はあっても余分な書き加えは無く、逆に不明瞭な部分は無視 される難点がありました。

1995年になると INAH の協力のもとナショナル・ジオグラフィックの ボナンパック資料化プロジェクト(PDB)が始まり、最新のデジタル技術を駆使した 詳細な復刻作業が進みます。 赤外線写真で目に見えない輪郭を探し出し、マッキントッシュとフォトショップを使い 壁画をピクセル単位で精査、 補修した結果、これまで見えなかった細部も浮かび上がり、壁画読み取りの精度が格段に向上しました。 その成果は Arqueologia #55 2002 に紹介されて います。 下の画像はそのデジタル処理で復刻された第3室の展開図 (Arqueologia #55) です。

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 (Reconstrucción de pintura de Cuarto 3 reproducida por PDB)


ボナンパックの壁画は3室にわたって描かれた絵文書で、3部屋合計 150㎡ の壁面に 270体がおよそ実際の半分の大きさに描かれ、神聖文字も 108文字確認 されます。  絵文書は東の第1室から始まると考えられ、以下 複製画を中心に、その内容を見ていきます。

第1室  Cuarto 1
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 (Reconstrucción de pintura de Cuarto 1 reproducida por PMPM)

これは上述の PMPM の出版物から 第1室の壁画の展開図で、左から東の壁画、南の壁画、西の壁画、戸口の穴の開いた北の壁画と続きます。  部屋内部の形状もわかり、壁画全体の理解が可能になります。

第1室の主題は、チャン・ムアーン2世の跡継ぎの紹介と考えられ、北の戸口から楽隊と踊り手が入場してきて、ピラミッド基壇には祝祭の始まりを 待つ貴族たちが描かれます。

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         (Bóveda sur, heredero de Chan Muan II, MNA)

下の画像右側の一段髙い基壇に召使いが子供を抱いて立っています。 この子供が第1室の主役たるチャン・ムアーン2世の後継者で、上の画像の 西面で更に一段上がった基壇に座るのがチャン・ムアーン2世と考えられます。 子供はヤシチラン王の親族と書かれているそうですが、チャン・ムアーン 2世の妃がヤシチラン王の姉妹ですから、王の甥と言う事になるようです。

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         (Foto de pintura original)

上の2枚の写真は人類学博物館(MNA) の複製画を撮ったものですが、この同じ場面を遺跡で撮った写真と比べると、一目瞭然。 描かれた内容を読み取る には複製画が必要です。 遺跡で撮った写真も 80年代の修復作業を経たもので、以前は王の子供の存在はあまり注目されませんでした。

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                        (Restauración por PDB, Arqueología #16 1995, p.49)

同じ場面を上述の PDB によりデジタル処理すると、服装や身に着けた装飾品など細部が浮かび上がります。

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         (Banda de música y nobles, MNA)

踊り手に導かれて入場してくる音楽隊 (写真上) と祝典の始まりを待つ貴族たち (写真下)。 人類学博物館の写真です。  ボナンパック のページ のオリジナルと比べてみてください。

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         (Nobles de alto rango en la bóveda oriente, MNA)

西面の一段高い基壇に座るチャン・ムアーンと向かい合った東面の壁画には、やはり一段髙くなった基壇上に貴族が立った姿で描かれますが、 高位の貴族でしょうか。

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         (Dioses y constelaciones pintados en el cierre de bóveda observan el ritual, MNA)

マヤアーチで閉じられた天井上部には神々や星座が描かれ、祝典を見守っていると解釈されます。

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         (Nobles en preparación, bóveda norte, PMPM)

入り口を入って後ろを見上げた所になる北面は撮影が厳しく、上述の PMPM の画像を借りました。 緑の被り物を被った踊り手 (貴族?)が準備する場面で、召使が手に持った器から塗料を踊り手に塗っているところだそうです。

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         (Danzantes y músicos que inician el ritual, PDB, Arqueología #16 1995, p.54)

入り口を入って左の北面東側の壁には奇妙な姿をした人達が描かれ、解釈が難しかったようですが、PDB の壁画再生で図像が読み取れる ようになってきました。

中央の球戯の競技者の姿をした二人が奇妙な仮面を被り、手に持ったトウモロコシの穂の皮を剥いていて、 下に白い被り物を付けて座るのが若いトウモロコシの神と考えられるそうです。 また右のザリガニや、ワニの衣装を着けた人達は次の祭事に 控えているとの事。 デジタル処理以前の現地の壁画ではこうした細かい様子の読み取りは困難でした。

壁画は鉱物性の顔料に植物性の顔料も加えて 紫から赤までの多彩色で描かれ、 270人の登場人物にはチャン・ムアーン2世など重複も ありますが、違う場面で異なる衣装を着けて表わされます。 また興味深いのは人の向きで、体の部分は前向きもありますが、顔は例外なく 全て横向きに描かれます。

第2室  Cuarto 2
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 (Reconstrucción de pintura de Cuarto 2 reproducida por PMPM)

チャン・ムアーン2世の嫡子のお披露目の儀式の後、第2室の主題は、激しい戦闘の場面と、捕えた捕虜たちの審問と凌辱です。 壁画は 東面 (画像一番左) から正面の南面、西面と3面にわたって戦闘の模様が描かれ、北面では王が捕えた捕虜を尋問し拷問にかける様子が表わされます。

上は PMPM の展開図で、第2室は左右の部屋に挟まれているので正面の壁画が長方形になります。

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         (Bóveda y muro del lado sur)

正面(南面)の壁画の右寄りに、戦闘の中で捕虜の髪の毛を掴むチャン・ムアーン2世が描かれます。 遺跡にある壁画では王が色あせて 図像の読み取りが難しいですが、人類学博物館の複製は色鮮やかで明瞭です。

デジタル処理で文字の解読も進み、戦争がラカンハの王の依頼で行われ、チャン・ムアーン2世の前で緑の被りものを付けている人物は ラカンハの王と読み解かれているそうです。

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                        (Restauración por PDB, Arqueología #16 1995, p.51)

PDB によりデジタル処理された画像では、捕えられた捕虜が手にする折れた槍まで確認出来ます。 赤外線写真で浮かび上がった線を補正した 結果です。

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         (Lado este y sur)

写真左側が壁画の東面で、背景の緑は戦闘がジャングルで繰り広げられている様子を表わしているようです。

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         (Bóveda norte y cierre de bóveda)

これも人類学博物館での写真で、入り口を入って背面にあたる北面の捕虜の審問の場面を見上げた所です。 

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         (Pintura restaurada en Museo Regional de Chiapas)

写真は歪んでしまうので、復刻画で見てみます。 これはチアパス地方博物館マヤ・コーナーに飾られた復刻画の部分で、全体写真は チアパス地方博物館のページ にあります。

上の写真で槍を手にして中央に立つのがチャン・ムアーン2世で、王の足元に捕えられた捕虜が並べられます。 下の写真の左隅に一人の捕虜が爪を剥がれて いるような場面も描かれます。

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         (Restauración por PDB, Arqueología #16 1995, p.55)

PDB によりデジタル処理された画像はより リアルで、縛られた捕虜の縄目が見え、捕虜たちは指先から血を流し、中央の捕虜は息絶え絶えの様子です。

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         (Peralte de banqueta, MNA)

入り口を入り、床面との間にも縛られた捕虜が描かれていました。 人類学博物館の複製です。

第3室  Cuarto 3
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 (Reconstrucción de pintura de Cuarto 3 reproducida por PMPM)

儀式で生贄にする為の捕虜を戦争で確保した後、第3室はボナンパックでの祭礼です。

PMPM の展開図。 正面(南面)の壁画は屋根の傾きの為、台形になります。 第3室は服装の描写が粗く、塗られた顔料の厚さも薄く、まだ 完成していなかったという見方もあるようです。 この為 書き添えられた文字も少な目との事。

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         (Banda de música, boveda occidente, MNA)

入り口から儀式の行列が入場し、西面の壁では楽隊が音楽を奏でます。 楽隊の上には太鼓を叩く小人も描かれます。

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         (Danzantes en bóveda y pare de los lados este y sur, MNA)

大きな被り物を付け、腰から左右に長い旗竿のようなものを下げた踊り手が舞って、儀式が執り行われます。 平和な踊りかと思いきや、これが 生贄の踊りだったようです。

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 (Lado sur, réplica en MNA y reproducción por PDB)

何故生贄の踊りと分かったのかと言うと、左の人類学博物館の復元では捕虜の手足を持つ2人だけが描かれ 捕虜の上の段に居る人が省かれているのに対して、 PDB の復刻では隠された人を見つけ出して生贄の執行者として描き足されています。 執行者は右手に切り裂く道具、左手に取り出した心臓を 持っていると言う事ですが…。 あまり気持ちの良い話ではありません。

第3室では王の位置が説明されませんが、恐らく生贄の捕虜の上で儀式を取り仕切っているのがチャン・ムアーン王ではないかと思います。

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         (Templo de las Pinturas con ocho niveles de plataformas)

壁画には背景として8段の基壇が描かれますが、壁画の神殿前に8段の基壇があり、壁画に描かれた場面はここで繰り広げられたものだろうと言う見方 もあります。 ここで拷問や生贄が行われたのでしょうか?

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         (Bóveda oriente, MNA)

東面の壁画 (正面左) 上部には放血儀礼を行う女性たちが描かれます。 舌に穴を開けて縄を通して神に捧げる血を採ります。 床面には召使の膝に 抱えられた王子が描かれて、小指を引っ張って放血儀礼に参加しているとされます。 女性たちに囲まれていて、世継ぎは王女だったのではと言う指摘 もあるようです。

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                        (Restauración por PDB, Arqueología #16 1995, p.52)

PDB のデジタル画像では、右の女性が左手に持った 舌に穴を開ける為のエイのトゲや、中央の女性が舌に通している縄が確認出来ます。

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         (Bóveda norte, MNA)

入り口を入り、振り返って見上げた北面の壁画。 貴族が10人立って並びます。 

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 (10 nobles en bóoveda norte, PMPM)

正面から見れないので PMPM の画像を借ります。 10人の貴族は第1室南面に描かれた貴族(下の画像)と同じようです。 絵が未完の為か、放血儀礼 の道具などは認められませんが、貴族たちの仕草から隣の女性たちと同様 放血を行っている可能性があるようです。

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 (10 nobles en bóoveda sur de Cuarto 1, PMPM)

捕虜の心臓や放血儀礼で集められた貴族たちの血があるので、香などと共に火鉢で燃やして神に祈る儀式の場面が続いてもよさそうですが、 3室にわたるボナンパックの絵文書はここで終わりです。

壁画に残された最後の日付は 792年8月2日で、壁画の完成後間もなくボナンパックは放棄され、紹介された世継ぎも即位することなく、 ボナンパックは歴史から姿を消したようです。


失われた部分もあるので壁画を全てを読み解くのは不可能でしょうが、今後更に図像や文字の解読が進み、新しい事実が明らかになったり、従来の説が 覆ったりするかもしれません。  それにしても壁画修復と最新の研究によって 1946年の発見時にはわからなかった壁画の詳細がかなり解き明かされてきた事に なります。

ボナンパック壁画のオリジナルは、ボナンパック遺跡のページ を参照ください。  複製より不鮮明ですが、歴史の重みと雰囲気はオリジナルに勝るものはありません。


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 壁画の発見者  ¿ Quien descubrió la pintura mural ?


ボナンパック壁画の発見者は冒頭に書いたようにカメラマンの ジャイルズ・ヒーリーですが、ボナンパック遺跡自体の発見者はカルロス・フレイという別の アメリカ人で、その経緯については少し込み入った状況があるので、最後に少しこれに触れておきます。


カルロス・フレイは第二次世界大戦中にアメリカからオコシンゴに移り住み、ラカンドンのジャングルに入ってラカンドン人の妻を娶り、デンマーク人 探検家フランス・ブロムと遺跡探しなどもしていたようです。 アメリカ軍の脱走兵で、Karl Hermann Frey という名前を Carlos Frey と改名しており ドイツ系だったでしょうか。

当時映画製作の仕事でサン・クリストバルに住んでいたヒーリーはフレイと知り合い、もう一人のアメリカ人ジョン・ボーンと3人で 1945年に遺跡探索で 密林に分け入り、ボナンパック以南の遺跡を3か所発見しています。 年上で資金もあるヒーリーがリーダー格でしたが、遺跡発見の功績を独り占めされた フレイはヒーリーと仲違いして離反します。 フレイはヒーリーと異なり金銭的には困窮していたようです。

マヤの古い遺跡はあちこちに散在し、ラカンドン人たちはその場所を知っていて 聖地として礼拝を行う秘密の場所でしたが、フレイはラカンドン人たちと 住んでいたのでこうした状況を知っていたのでしょう、 蓄音機に興味を持っていたラカンドン人チャン・ボールの為にメキシコ市でこれを入手して贈り、 遺跡を案内させます。

1946年2月初め ジョン・ボーンを伴いチャン・ボールの案内で チクレの集積所だったエル・セドロを出発したフレイは2月6日にボナンパックに到達、 西洋人として最初のボナンパックの発見者となります。 ボナンパックには 2日間滞在し、地図を作製して記録をとり、写真も撮影しますが、フレイに とって不幸だったのはこの時に壁画の神殿を発見できなかった事でした。 この旅でフレイはボナンパックやラカンハを含め 10カ所の遺跡を見出し、 旅から戻って 3月に INAH へ報告を行いますが、赤痢に罹り、マラリアに悩まされて大変な旅だったようです。

フレイと離れていたヒーリーはこの発見を知り、エル・セドロでチャン・ボールを探し出し、ライフルと弾薬を提供して遺跡の案内を依頼します。フレイの ボナンパック発見3カ月後、乾季の5月でした。 チャン・ボールは最初にボナンパックへ案内しますが、ここでひとつの偶然が起こります。 案内のチャン ・ボールが、鹿を追って灌木を分け入ると、そこに新たな神殿が。 神殿の周りを整理して中に入って松明を点けると壁一面に壁画が浮かび上がり…、 これが壁画の神殿 第3室でした。

エル・セドロに戻ったヒーリーはフレイと出会って壁画の話を伝えます。 フレイはすぐさまボナンパックへ取って返しますが、時すでに遅し、壁画の発見者 としての栄誉はフレイではなくヒーリーに。 沢山の写真と共にメキシコ市に戻ったヒーリーは INAH へ報告を行い、壁画のニュースは世界を駆け巡って、 ボナンパックの初期の学術調査が1947-48年シーズンの 2年にわたりカーネギー隊によって行われることになります。

ここまでがボナンパック壁画発見に至る経緯で、ボナンパックに行き着きながら壁画を見つけられなかったフレイは不幸ですが、これも運命のいたずら、 仕方ありません。 壁画発見の栄誉を目の前で奪われ怒りの収まらないフレイは、メキシコの反米・愛国感情に訴え、メキシコ人によるボナンパック発見を 演出すべく 1949年に地元の調査隊を率いてボナンパックへ赴きますが、調査が始まった直後、途中に残してきた発電機を取りに行ったフレイは船が転覆 して不慮の死を遂げてしまいます。

結局フレイの復権はならず、ボナンパックの呪いの犠牲者として歴史に名を残すことになります。 1990年にダム建設で水没することになったフレイの墓を 移す為、埋葬された遺体を掘り出したフレイの息子は、父の頭蓋骨に銃弾で開けられた穴を見つけた、と言う話も伝わります。  でも真実は闇の中。  まさかヒーリーが贈った弾丸がフレイの頭部を襲ったなどと言う事はないと思いますが…。

             ( Arqueología #93 2008 p.28-34 の記事を参考にして、コンパクトにまとめました。)