マヤ遺跡探訪

TULUM
エメラルドグリーンのカリブ海を背にして断崖上に聳え立つトゥルム遺跡。 後古典期後期 (1200-1520AD) の代表的なマヤ遺跡ですが、スペイン人の艦隊が最初に目にした大きなマヤの街として、 また 19世紀のマヤ人の反乱の拠点になった場所としても知られます。

カンクンから 128Km 南のトゥルムまで国道 307号が 1972年に開通、同じく高速道路が 1997年 に整備されたチチェン・イッツァと共に、カンクンへの訪問客の多くが訪れる最もポピュラーなマヤの観光スポットです。

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訪問客が増えると立ち入り禁止区域が増えるのは遺跡保護の観点から止むを得えず残念ですが、その分説明パネルが沢山設置され 遺跡の詳細な解説が加えられます。

遺跡への入り口が変更されており、トゥルムを世界遺産とするような誤った情報も溢れているので 説明パネルの解説も含めてトゥルム遺跡のページをより正確で新しいものに書き換えてみました。 写真は可能な限り 2019年のものに差し替えてあります。

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  (訪問日 1999年5月4日、2002年8月28日、2014年1月10日、2019年4月 25日)

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  (Vista aerea de Tulum por Google Earth)

トゥルム遺跡はカリブ海に背にして高さ 12m の崖の上に築かれ、西側と南北が城壁で囲まれた城塞都市で、南北に 400m、東西に 170m あり、 幅 8m、高さ 3-5m の城壁で守られていました。 遺跡公園に整備された現在の姿は Google Map で確認出来、遺跡内も Street View で覗き見出来ます。

左の地図で右上から左に伸びる道が国道 307号で、南側に広い駐車場と土産物屋街があり、ここから遺跡まで一本道が伸びています。

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  (Tulum turístico)

どの位観光地化しているか、オムニバス風の写真にまとめてみました。 マヤ戦士がコスプレしてくれ、大きなイグアナを触らせてくれたり、 マヤとは無縁の パパントラの鳥人 のアトラクションまであります。 インスタ映えするトゥルムの真っ赤なサインの奥から遺跡への送迎バスが出ています。

土産物屋街から遺跡まで 500-600m あり、ただ暑い中を歩くだけなので、有料ですがバスがお勧め、以前はトラクター列車でしたが、 現在は迷彩色を施したトラックの改造車です。

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  (Area de Entrada)

送迎バスは上の写真の所まで。 右上の写真正面左奥に石組みが見え、ここは西側の城壁中央にある正式な入り口のひとつですが訪問客の入り口は別、 城壁に沿って左(北方向)へ向かうと茅葺きの大きな屋根の下に入場券売り場(写真下)があり、ここで支払いを済ませます。 訪問客が多く 長蛇の列で 30分以上待たされましたが、何の事は無い3つある窓口はひとつしか開けていない。(怒)

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  (Panel de explicación del sitio)

やっとのことで遺跡に向かって歩き出します。 まず最初に置かれた説明パネル、トゥルムの概略説明です。

トゥルムが古くは日の出を意味するシャマ(Zama)と呼ばれ、その立地から海路、陸路を使いメキシコ中央高原、中米各地、太平洋岸地域と 手広く交易を行う 重要な港湾、商業都市だった事、その生活は政治、宗教、芸術、天文等が密接に絡み合ったもので、 ククルカン/ケツァルコアトルを具現する明けの明星、宵の明星として現れる金星が観測されていた事、城壁が重要な役割を果たしていた事、 等が説明されます。 最後にここでは、日の出/昼/日の入り、大地/海/空、宗教/政治/商業、マヤ人/スペイン人、全てががひとつになって…、 と余韻を残して締めくくられます。

まあ言葉による説明はさて置いて当時の様子がカラフルに描かれていたので下に切り出してみました。
遺跡に足を踏み入れても基本的に無彩色の廃墟 (修復の手は加えられていますが) なので、このカラフルな再現画は想像力を膨らませてくれます。

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  (Entrando al sitio)

入場券売り場は西側の城壁の中央外側で、壁に沿って北方向へ進むと写真左のゲートがあり、ここで入場券をチェック、 そのまま遺跡の北西角まで進むと城壁の北側に沿って階段があります。

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  (Entrada oeste de la muralla norte)

階段を登り切った先が城壁の中に入るトゥルム遺跡の入り口です(写真上左)。 説明パネルに遺跡の地図があったので大きく切り出しました。 地図中央下の赤く塗られた長方形が入場券売り場で、左の矢印で示された所が入り口になります。 トゥルムの城壁には南北にふたつづつ、 西側にひとつ、合計5ヵ所の出入り口が設けられていましたが、現在は北面西側の出入り口が観光コースの入り口として用いられています。

パネルの説明文を見てみましょう。 海に面したこの地帯には幾つかの港湾都市が築かれ、トゥルムはこの地域を支配し、シャーラ(Xala)と呼ばれた シェルハ(Xelha) やポーレ(Pole)と呼ばれた シカレ(Xcaret) と共に交易ルートを強固なものにしていた事、 また東海岸様式と言われる独特な建築様式が知られ、 チチェン・イッツァやその後のマヤパンのイッツァー族の影響を受けている事などが説明されます。

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  (Entrada oeste)

写真右が矢印で示された入り口ですが、城壁に沿って写真左の道が更に東へ伸びています。 道は北面東側の出入り口に通じていて ここからも遺跡に入る事も出来ます。

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  (Entrada este de la muralla norte)

これが北面東側の出入り口で、中で一度折れ曲がって城壁内に入る造りになっていて、海からの侵入に備えていたようにみえます。 急ぎでなければここから遺跡に入るルートがお勧めです。

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  (Mar del Caribe y Templo del Dios de Viento)

入り口の通路を抜けて城壁の中に入ると 早速カリブ海とトゥルムの建物が目に飛び込んできます。 30Km 程南西に下ると ムィル遺跡 があり、ここから世界自然遺産のシアン・カーン生物保護区が始まりますが、 トゥルムはこの世界遺産の外側です。  写真中央が風の神の神殿、その右奥に主神殿になるカスティーヨ(城砦)が見えます。

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        (Mirador geomorfológico)

ここに置かれた説明パネルは遺跡の拠って立つ地形の解説です。

200万年ほど前に海底が隆起してユカタン半島が形成された時に出来た若い陸地であり、石灰岩質の地表は水で溶けて空洞を作り、 セノーテ、水場、洞窟などが形成されて雨期に水を貯めて水源になっていたそうです。 海岸近くの浅瀬にはサンゴ礁が生成され、 カリブ海沿岸に沿って伸びていて、世界で二番目に長いサンゴ礁帯になるようです。

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さてここからトゥルム遺跡の詳細をポイント毎に見ていきますが、その前に北が上を向いた地図です。 Arqueologia Edicion Especial #21 からスキャンしたもので、2006年発行なので遺跡への入り口が西面になっていますが、現在は北面の矢印を付けた2カ所から遺跡に入れます。 地図はやはり北が上を向いた方が頭に入り易いです、太陽は右(東)のカリブ海から顔を出します。



CASA DEL CENOTE  セノーテの家

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  (Casa del Cenote)

それでは入り口を入ってすぐ右手にある「セノーテの家」 ( ③ Casa del Cenote) から。
東海岸のマヤ集落ではセノーテやチュルトゥン(水溜)の近くに家を作る事が多く、セノーテの家 は初めにセノーテ際に築かれ 後にセノーテ上まで部屋が拡張されたそうです。 遺骨も見つかっている事から水源の他に埋葬としても利用されたようです。 円柱が 2本ある開口部は上部が崩れていますが、建物全体の壁面は天井部までかなり残されています。

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  (Foto panorámica)

セノーテの家から南西方向をパノラマ合成した写真で俯瞰してみます。 右がセノーテの家のセノーテの上に増築された張り出し部分で、 左端にカスティーヨ(城砦)が見えています。 通路には黄色いロープが張られて、建物に入る事はおろか芝生に立ち入る事も出来ません。 セノーテの家の前の椰子の左奥に「北西の家」が見えています。



CASA DEL NOROESTE  北西の家

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  (Casa del Noroeste)

逆光になりますが中央が「北西の家」( ② Casa del Noroeste) です。 北面西側の入り口から城壁内へ入ると直ぐ目の前なのですが、 東側から入ったのでこの角度から。 西側から入場して城壁内の道を東へ歩いてくる方法もありですね。

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  (Casa del Noroeste)

少しアップで。 西に面した正面からの写真がありませんでしたが、2本の円柱で支えられた開口部があり、セノーテの家に似た造りです。 写真中央に頭を突き出した建物は城壁北西角に設けられた監視塔です。



ADORATORIOS Y TEMPLO DEL DIOS DE VIENTO  祭壇と風の神の神殿

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  (Adoratorios y Templo del Dios de Viento)

南東側に目を転じるとカリブ海を背に、手前に 「小さな祭壇群」 ( ④ Adoratorios) と 奥に「風の神の神殿」 ( ⑤ Templo del Dios de Viento) があります。

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  (Adoratorios)

小さな祭壇は遺跡の各所にありますが、この海に面した所には6つまとめて配置されています。 祭壇は神殿を小型化した高さ 1m に満たないもので、 石像が収められたり香炉が置かれてコパルが焚かれたりしたようです。 ここにもパネルがあり、こうした小祭壇は東海岸様式に特徴的なもので、 人が入れる大きさではなく奉納物等が置かれたと説明されます。

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  (Templo del Dios de Viento)

海側に突き出た所には「風の神の神殿」 があります。 風の神信仰はメゾアメリカ全般に見られ、名前は地域によって異なりますが、 マヤでは風の神はククルカンになります。 円形に造られるのが特徴で、トゥルムでは上部神殿は東海岸様式で矩形ですが、 神殿がのる基壇はマヤでは例外的に円形になっています。

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  (Panel de tortuga marina)

風の神の神殿の下には砂地が広がり、マヤの時代に交易船が着いた砂浜はウミガメが産卵に訪れ幾世紀にわたって命を繋いできた場所でした。  説明パネルによるとウミガメはアカウミガメで 6月から10月にかけて産卵の為に訪れ、メキシコカワガメも含まれるそうです。 ウミガメと同じようにパスポートを持って遠くから来た貴方もトゥルムの魅力に惹かれてまた戻ってくると思いませんか、と。



CASA DEL HALACH UINIC  ハラル・ウィニックの家

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  (Casa de Halach Uinic o El Palacio de Gran Señor)

道なりに南に進むと右手(西側)に「ハラック・ウィニックの家」 ( ⑪ Casa de Halach Uinic) があります。 別名 El Palacio de Gran Señor と呼ばれ、マヤ語のHalac Uinic がスペイン語で Gran Señor となり、トゥルムで一番の権力者の居所と言う事ですから、「首長の家」 と訳したら良いでしょうか。

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  (Lado norte y lado sur de Casa de Halach Uinic)

ハラック・ウィニックの家の北側と南側です。 右下のような説明パネルがあり、上の 2枚の写真の下の方が南側で建物の正面になり、説明パネルの復元画が これに当たります。 南側は居所で正面入り口を支えた4本の円柱と内部のベンチが残されますが、天井と壁面が殆ど失われて内部が露出した状態です。 柱の奥に建物北側に通じる戸口があり、その上の壁面装飾を保護する為に茅葺き屋根が取り付けてあります。 北側も一部の壁面を残して天井と壁面が 喪失された状態ですが、ここは家族が儀礼をおこなう祭壇だったそうです、内部に立ち入れないので確認出来ませんが。  (南側は今回修復中だったので写真は 2014年のものです。)

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  (Decoración de Dios Descendente dentro del nicho)

北側に通じる戸口の上に茅葺き屋根で保護された壁龕があり、降臨する神の漆喰装飾が残されます。 建物内部にあったので破壊を免れたのでしょう、 当時の彩色も一部見てとれます。

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  (Decoración en 2002 y 2014)

この降臨する神、2002年に来た時は左の写真のような状態でしたが、2014年には右の写真のようにかなり修復の手が加えられていました。 今回ここに大きな白いカバーが掛けられていましたが、また修復中なんでしょうか、のっぺらぼうの顔はどうなるのでしょう?

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  (Foto panorámica)

ハラック・ウィニックの家の南側のパノラマ合成写真です。 左端に一部映っている建物が次の 「列柱の家」 になります。 2019年の写真を繋いだので、ハラック・ウィニックの家の降臨する神は白い大きなカバーで覆われています。



CASA DE LAS COLUMNAS  列柱の家

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  (Lado norte y lado sur de Casa de las Columnas)

「列柱の家」 ( ⑩ Casa de las Columnas) の北側と南側。 北側は小窓だけで全面壁で閉じられていて、正面は列柱がある南側です。 ここは説明パネルの写真が見つかりません、撮り損なったのか無かったのか。
南西側にも柱が並んで全体がL字型をしていますが、南西側に張り出した部分は後から付け足されたもので、 建物全体としてはトゥルムで一番大きな住居になるようです。 天井の梁の部分に木材を張り合わせ、 石灰に砂を混ぜてコンクリートのようにしたもの(カルクレート)を塗って平らな屋根に仕上げられていたそうで、 当然ハラック・ウィニックの家同様身分の高い貴族に使用されたと考えられます。

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  (Foto panorámica)

建物は更に南側に続いていて、列柱の家の南側をパノラマ画像で見てみます。 左側に基壇だけの建物がふたつあり、その奥に「フレスコ画の神殿」 の背面が確認できます。 フレスコ画の神殿はトゥルムで最も注目される建物のひとつですが、その前に少し戻って東側にある 「降臨する神の神殿」を見てみます。



TEMPLO DEL DIOS DESCENDENTE  降臨する神の神殿

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  (Templo del Dios Descendente y El Castillo)

右のトゥルムの主神殿になるカスティーヨ(城砦)の左隣に 「降臨する神の神殿」 ( ⑦ Templo del Dios Descendente) があり、大きな建造物ではありませんが、主神殿を取り囲む内陣北側内部にある事からその重要さがわかります。  ここはカスティーヨ及び後述するフレスコ画の神殿と並んでトゥルムでの一番の見所になります。

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  (Templo del Dios Descendente)

西側に階段が取り付けられた基壇上に神殿が建てられ、神殿の外壁面は外側に張り出し、所謂頭でっかち尻つぼみ、神殿の戸口は逆に 下に行く程広くなっていて、典型的な東海岸様式です。

戸口上部の壁龕の中に保存状態のよい降臨する神の漆喰装飾があり、 彩色されていた当時の塗料も一部残されます。 降臨する神の装飾は宮殿などの大きな建物の装飾にも用いられていますが、小神殿にこの目立つ装飾を持つ建物は 「降臨する神」信仰の中心として建てられたとも考えられるようです。

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  (Templo del Dios Descendente en 2004)

降臨する神の神殿は、登る事はおろか近くにも行けず、この写真は主神殿前の内陣に入る事が出来た 2004年に撮ったもので、 典型的な東海岸の建築様式が確認出来ると思います。

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     (Decorácion de Dios Descendente)

降臨する神の神殿へ近づけないので、西側の高台から望遠レンズで撮り、壁龕部分をトリミングしました。 膝から足首を上に向け、腕を下にして空から降りてくる人物は頭飾りと翼を付け、両手で何か捧げ持っているようです。 降臨する神のモチーフは遺跡の各所に見られ、トゥルムでもっとも崇められた神だったと思われますが、何の神だったのか?

降臨する神については諸説あり、夕暮れの太陽であるとか、金星、雨、稲妻に結び付ける説や、ミツバチの神だとする説もあり、 実際の所どうだったのでしょうか。 西向きに置かれているので夕暮れの太陽に照らされる事になりますが。

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  (Réplica exhibida en MNA)

メキシコシティーの国立人類学博物館マヤ室の最後にこの降臨する神の展示があります。 上の漆喰装飾と同一のように見えますが、 どうも型取りした複製のようです。 マヤ室が改装された 2003年からあるので、現地のものは風化が進むばかりでしょうし、 2003年以前の状態を保存した価値ある複製と言えそうです。

マヤ地域で降臨する神は シバンチェ遺跡の香炉 や、 トゥルムと密接な関係にあったコバ遺跡の大ピラミッド (ノホック・ムル、42m) の 頂上神殿の壁龕 に見られます。 両遺跡とも古典期以前に遡る古くからの遺跡ですが、その降臨する神は共に古典期ではなく後古典期後期に作られたものになるようです。  降臨する神はプーク様式の サイル遺跡のモザイク彫刻 の中にも見られ、 こちらは後古典期前期以前になります。 時期的にやや古く距離的にも離れたその降臨する神はトゥルムとどういう関連があるのでしょう?


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  (Panel de Pintura Mural)

もうひとつ説明パネルがありました。 宗教だ神だと言うと説明しづらいのですが、要約すると、建物の外壁や内部は宗教に基づいたマヤ社会が描かれ、 神々や神官が象徴的に表わされ、方位に基づく鮮やかな赤、黒、白、黄、青緑で描かれた神々の壁画は 20年のカトゥン毎に塗り直されたり、 新たに描き替えられたりした、と言う事になります。 後古典期マヤの終焉頃のカトゥンの切れ目は 11.14.0.0.0. だとすると 1500年6月になり、 この頃に最後の描き直しが行われたのでしょうか。 次のカトゥンだとすると 1520年2月で、スペインの艦隊が通過した後になります。

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  (Fachada rincipal del Templo del Dios Descendente)

西の高台から超望遠で撮った写真ですが、上のパネルにある復元画と見比べると興味深いです。 建物を飾った彩色は消えかかっていますが、 白い漆喰彫刻の下地は当時の様子を留めます。

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  (Resto de Pintura Mural)

望遠画像で壁面を精査してみると何と壁画が部分的に残っているではありませんか。 上の復元画はこれを手掛かりに描かれたように思われます。 トゥルム遺跡もこうして細部を見ていくと大変興味深い遺跡だと実感しました。



EL CASTILLO  エル・カスティーヨ (城砦)

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  (El Castillo)

さて次に カスティーヨ(城砦) ( ⑧ Castillo) です。 城砦都市の中心に聳えるトゥルムの主神殿で、最も注目される建造物です。 2019年にはカスティーヨを囲む低い壁の中には入れなかったので、外側の通路から写真を撮りました。

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  (El Castillo en 2002)

こちらは 2002年の写真で、低い壁で囲まれた内陣まで入り、カスティーヨの正面階段前から上部神殿を見上げる事も出来ました。 1999年に取引先に連れられて初めてトゥルムに立ち寄った時は殆ど写真を撮ってなかったのですが、カスティーヨの階段を登って 上部神殿の前まで行けたような記憶があります。 遺跡は人が増えるとどんどん制限エリアが広がってしまい、 遺跡好きには残念な限りです。

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  (Explicaciones de Arquitectura y EL Castillo)

説明パネルは建築様式とカスティーヨについての2枚。

建築様式はチチェン・イッツァやマヤパンの様式も取り入れて発展させた地域特有の東海岸様式で、色彩的に優れた美観を備えたものであったと説明されます。  (カラフルな復元画はフレスコ画の神殿。)

トゥルムの中心に聳えるカスティーヨは最も重要な建物で、500年前には 漆喰彫刻や鮮やかな色彩で飾られて更に威容を誇り、両脇の小神殿は奉納物で満たされて、上部神殿ではトゥルムの主要な祭礼が執り行なわれたそうです。

カスティーヨは当初中央階段を持つ二層の神殿だったものが、その後階段を上まで伸ばして上部神殿が追加され、最後に階段両脇に小神殿が配置されたそうです。 12m の断崖上で海を背にした建てられたカスティーヨは 8m 近い高さがあり、白い砂浜からは 20m 位の高さに聳えています。

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  (Fachada principal del Templo Superior)

超望遠で撮った上部神殿です。 神殿自体は外壁面が尻つぼみになった東海岸様式ですが、入り口を支える2本の円柱には蛇が模られ、 マヤ・トルテカ様式が取り入れられています。 大分崩れていますが、基部には蛇の頭、上部に蛇の尾が配され、チチェン・イッツァの ジャガーの神殿 とほぼ同じ造りになっていたようです。

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  (Detalle de la Decoración en Estuco)

壁面上部には壁龕が3ヶ所有り、中央に降臨する神、左右には人物像が配され、左右角の軒蛇腹の間には羽根飾りを付けて口を開けた仮面が飾られていました。  壁龕の中の神や人物はともかく、建物角の仮面は余程注意しないと見落としてしまいます。 細部まで見ると新しい発見がある、トゥルム遺跡の楽しみ方のひとつです。

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  (El Castillo y Recinto interior)

カスティーヨの階段前には上部構造の無い大きな「矩形の基壇 」( ⑨ Adoratorio) が有り、ここでは舞踊などの儀礼が行われたようです。 カスティーヨ前の内陣の中央がこの矩形の基壇で、北側に降臨する神の神殿が有り、南東側がイニシャルシリーズの神殿になります。



TEMPLO DE LA SERIE INICIAL  イニシャル・シリーズの神殿

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  (Templo de la Serie Inicial en 2002)

これは現在は立ち入りが制限されている内陣の中から撮った「イニシャル・シリーズの神殿 」 (Templo de la Serie Inicial) の北側正面で、 2002年の写真です。 地図に記載がありませんが、カスティーヨの向かって右横、南側です。

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  (Lado trasera de Templo de la Serie Inicial)

写真にあるように現在は裏側からしか近寄れず、説明パネルは裏の道路脇に設置されています。 右はカスティーヨの南側面になります。

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  (Panel de la Estela)

パネルではこの神殿から人物像に暦が刻まれた石碑が発見され、日付けは 1300年も前の6世紀のものだった事、 またこの神殿の天井がマヤアーチで閉じられ、建物が非常に良い状態で保たれて、戸口左壁面には漆喰で浮き彫りされた人物像が 残される事などが説明されます。 残念ながら制限エリア内で神殿正面には近づけませんが。

6世紀と言うとトゥルム建設よりかなり前の事になってしまい、気になって調べてみました。 石碑は 1842年にトゥルムを初めて訪れた ジョン・ロイド・スティーブンスによって内部の祭壇で発見されたもので、下部は欠損していますが長期暦で西暦 564年にあたる日付けが記されているそうです。 導入文字から始り長期暦に月の情報などを加えたものがイニシャル・シリーズで図像と共に古典期の石碑に刻まれますが、 ここで古典期に遡るイニシャル・シリーズを含む古い石碑が発見され、この建物がイニシャル・シリーズの神殿と呼ばれる事になりました。 この石碑はその後大英博物館に買い上げられて現在はイギリスにあるようです。

それにしてもトゥルム建設以前に遡る古い時代の石碑が何故ここにあるのでしょう? トゥルムから北西に 47Km 離れたコバ遺跡は古典期前期に遡る古い遺跡で、 トゥルムはその交易の為の港湾都市として発展したと考えられる事から、この石碑はもともとコバにあったものがトゥルムに運ばれたと 言う説が有力で、トゥルムの歴史が古典期前期に遡ると言う事にはならないようです。


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  (Playa detrás de El Castillo)

イニシャル・シリーズの神殿の東側の断崖に階段が設けられ、砂浜まで降りられるようになっています。 マヤの時代に交易船が着いただろう浜辺は現在は海水浴場になって、時に海水浴客が溢れるようです。

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  (Panel de Mirador Histórico)

海に面した断崖上に、歴史展望?と題した説明パネルがありました。 ふたつの文明の出会いを目撃、と始まるパネルは次のように続きます。

「貴方はトゥルムの長です。 貴方は水平線を見つめポールに布を張った大きな船団を目にします。不思議に思い近づくと船乗り達が見えますが誰も降りて来ず、 そして船は遠ざかっていきます。 貴方は自問します、彼らは誰で何処から来たのか、彼らは何が欲しいのか、果たして友達なのか。」
「貴方はスペイン人の船長フアン・デ・グリハルバです。 貴方はキューバから探検の旅に出て、岩礁に囲まれたコスメルに上陸し、人々は貴方を見ると 逃げ出しました。 それから海岸沿いに航海を続けて、大きな建物や塔を持ち遠いセビリアを思い起こさせる街に近づきます。上陸せずにそのまま航海を続けますが、 自問します。 彼らは一体何者だろうか、彼らはどんな富を持っているのだろう、危険なのだろうか。」

フアン・デ・グリハルバの船団は 1518年1月にキューバから探検の航海に出て、コスメルからトゥルムやイスラ・ムヘレースを経てカンペチェに至り、 更にタバスコ、ベラクルスの湾岸地域を回ります。 この航海の際パネルに書かれたようなスペイン人とトゥルムとの最初の出会いがあったと想像され、 1528年5月の事でした。



TEMPLO DE LOS FRESCOS  フレスコ画の神殿

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  (Templo de los Frescos)

遺跡に戻りましょう。 イニシャル・シリーズの神殿から西の方に 「フレスコ画の神殿」 ( ⑫ Templo de los Frescos) があります。 漆喰装飾で飾られた二層の神殿は保存状態が良好で、ここがもうひとつのトゥルムの見所になります。

この神殿もカスティーヨ同様に建て増しが行われています。 最初は内部に祭壇を持ち外観が壁画で飾られ入り口上部壁龕に漆喰彫刻を持つ 小神殿でした。 その後その小神殿を回廊で囲む形で西正面と南北側面が拡げられ現在見られる一層目が作られます。 最後に天井部分を石の屋根で補強して二層目が追加されました。

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  (Lado sureste y lado sur de Templo de los Frescos)

南東から見た神殿の背面と南から見た側面です。 正面は西側ですが、南側面にも角柱で支えられた開口部があります。

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  (Lado frontal del Templo de los Frescos)

こちらが西を向いた神殿の正面で、前に石碑がありロープが張られているので神殿正面の写真は斜めからになってしまいます。 石碑は風化が進んでますが、 人物像と共に暦が刻まれていたようで、古典期の石碑であれば、イニシャル・シリーズの神殿の石碑同様、元々コバ遺跡にあったものでしょう。

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       (Lado suroeste en 2002)

2002年に来た時は鉄の補強材が無く、戸口がスッキリした美しい姿を見せてくれていたのですが…。
この写真を見ると現在の金属で補強された姿は痛々しく見えてしまいます。

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  (Templo superior)

細部を見ていきましょう。 最後に積み増しされた二層目ですが、一層目に比べると装飾が簡素で、戸口上部の壁龕に漆喰彫刻が施され戸口左の壁面に 赤い手形が残されます。

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  (Detalle de la fachada decorada)

一層目は4本の円柱で大きく開口部が確保され、壁面上部は全面にわたり漆喰彫刻で飾られています。
画像は西側正面の壁面上部の左半分で、左隅の大きな仮面から始まり、3つある壁龕の左側、そして中央の壁龕と続きます。 右半分もおよそ左右対称になっていて、右隅は仮面で閉じられ、左右に広がる二本のモールディングはバラ型の模様で飾られます。

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  (Detalle de la fachada decorada)

壁龕を繋ぐ2本のモーディングの間には頭を下にして空から落ちてくるような姿勢の人物像が表されます。 片手をモールディングに置いて体を支え、 もう片方の手で渦巻き模様を掴み、なかなかユーモラスな描き方ですが、瞬間をとらえて写実的でもあります。 人なのかそれともこれも降臨する神なのか?

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  (Decorácion del Dios Descendente en el nicho central)

3つある壁龕の中は大分崩れていますが、中央のものは上向きの脚が二本あるので降臨する神が飾られていた事がわかり、 赤や青の彩色も残されます。 両脇の壁龕には部分的に彫刻と色彩が残されますが上向きの脚は認められないので 降臨する神の構図ではなく立像だったようです。

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  (Gran Máscara en el lado suroeste)

正面左右の角は二本のモールディングを突き抜け天井部からモールディングの下まで大きな仮面が飾られます。 左は南西角に見える仮面の正面、 右は南側から見た横顔です。 目の周りが飾られ、婉曲した鼻、突き出した顎、下がった口角を持つ老神が表され、雨の神チャークか、生命の創造主イツァムナ、 と考えられるようです。

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  (Pintura murall del Templo Interior)

フレスコ画の神殿の説明パネルに壁画の模写があったので切り出してみました。 壁画は内部神殿の外壁を飾ったものですが、外から覗くと内部は暗闇です。  でも何とか撮れないかと思い、壁画のある面にピントを合わせて撮り、後でRAW現像で明るく補正してみると…。

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  (Resto de Pintura Mural)

模写の一部分が写っていました。 模写は全て青になっていますが、人物が立つ帯は赤く彩色され、足元はゴザ目になっています。  ゴザが王権を示すものだとすると描かれた人物はトゥルムの王かもしれません。 それにしても手前の補強材は無粋です。 補強材の所まで近寄って撮る事が出来ればもっと広い部分の写真が撮れるのですが、 でもここにこの壁画がある事を確認出来たのは収穫でした。

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  (Resto de Pintura Mural en el lado sur)

南面の開口部からも内部を撮ってみると、かなり汚れていますが同様に壁画の跡が認められます。 内部神殿には 8m にわたって 壁画が描かれていたそうで、北側から西正面、更に南側迄壁画が広がっていたようです。

壁画で飾られた小神殿を手前にして回廊を確保しつつ周囲を新しい壁で覆う手法は東海岸地域でよく見られます。 規模は小さいながら シェルハ遺跡のジャガーの神殿、 外壁が半ば失われて内部神殿が露出している カリカ遺跡の建造物 I 青い家、 また保存状態は良くありませんが プラヤカル(シャマンハ)グループCムイル遺跡の建造物 7H-3 等がこうした例になりますが、 トゥルムのフレスコ画の神殿は、その規模、完成度、保存状態から別格で最も注目に値する神殿と言えます。



CASA DEL CHULTUN  チュルトゥンの家


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  (Lado este y lado noreste de Casa del Chultún)

フレスコ画の神殿に向かい合って宮殿風の建物、「チュルトゥンの家」 ( ⑬ Casa del Chultún ) があり、通路を挟んで東向きに建てられています。 開口部を支えた2本の円柱を残して鴨居部分と天井部は失われていますが、基壇上の外壁の保存状態は良好です。 上は東を向いた正面で、 下は北側から見た所です。 チュルトゥンは地面を掘り込んで内部を漆喰でフラスコ状に補強した水溜で、雨水を貯蔵する為のものでしたが、 これが建物の南西角にあったそうです。

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  (Decorácion en el interior)

奥の部屋に通じる戸口の上に壁龕装飾が残され、茅葺きの屋根で保護されています。 西日になると逆光ですが午前中は東からの光で照らされ、 彫刻の下地が見え降臨する神で飾られていたようです。 写真は 2002年に撮ったものです。

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  (Plataforma Habitacional)

中央はチュルトゥンの家の南側で、右に向かい合って建つフレスコ画の神殿が見えます。 手前に矩形の大きな基壇が見えますが、 これは「住居用の基壇 」( ⑭ Plataforma Habitacional ) で、植物性で朽ち果てて跡が残らない材料で建てられた為に現在は石の基壇だけになっています。

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  (Plataforma Habitacional)

王を始めとする高位の貴族は石材で天井が閉じられた宮殿に起居し、それに次ぐ階級の人々がこうした比較的簡素な住居に住み、一般の農民などは城壁の外で 現在見られるマヤ民家のような住まいで生活したと考えられます。

以上で中心部の主要建造物は全て見て回りましたが、チュルトゥンの家の裏側に道が伸びているので行ってみます。 西側の城壁に近い所はやや高台になっています。



GOBIERNO DE TULUM  トゥルムの統治

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  (El Castillo vista de lejos)

住居用の基壇の西側に回ってみました。 手前の木の下がその基壇で、奥にカスティーヨが聳えます。

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  (Parte principal de Tulum)

北西方向へなだらかな起伏を登っていくと、降臨する神の神殿、カスティーヨ、フレスコ画の神殿のトゥルムの三大見どころが一望できる 撮影ポイントになります。 熱帯では樹木の生長が早く、行く度に見晴らしが悪くなっているのですが。

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  (Mirador arqueoastronómico)

高台にこんな説明パネルがありました。 考古天文学についてで、冬至の日の出の太陽は降臨する神の神殿の小窓を通って ハラック・ウィニックの家の南西角に射し込み、春分と秋分の日には列柱の家の北西角に射し込んでくるそうで、 こうした天文観察を基に建物が配置され、太陽の動きを見て農業活動が行われた事が説明されます。 上の写真で左隅がハラック・ウィニックの家、右側の木の中に柱が見える所が列柱の家になります。

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  (Panel de Gobierno de Tulum)

こんな説明パネルも。 トゥルムはエカブ王国に属し シカレやシェルハを支配して独立的な地位をもつ交易都市だったと説明されます。 15世紀中頃にマヤパンによる統制が崩れて 16 の小国が割拠した時代、トゥルムはユカタン半島北部海岸地帯を勢力下に収めたエカブ王国の 支配するところになり、その支配地内でエカブは最北端、トゥルムは南に位置します。 独立した地位と言うのはトゥルムがエカブと同族だったのか、 あるいは姻戚関係を結んでいたのか、この辺りの説明があると説得力があるのですが。



CONQUISTA POR LOS ESPAÑOLES   スペイン人による征服


1518年にグリハルバの艦隊がトゥルムを横目に通り過ぎていった事は既に触れましたが、トゥルムのその後が気になる所です。 遺跡の説明パネルは 19世紀のカスタ戦争に飛んで、その間のトゥルムについての言及がなく、少し説明を加えておきます。

グリハルバの艦隊はトゥルムを通過した後、ユカタン半島沿いにカンペチェ、チャンポトン、グリハルバ川河口を経て、 ベラクルスからタンピコ迄探査してキューバに戻り、この航海をきっかけに豊かなアステカ帝国の存在が知られる事になります。 グリハルバの第2次遠征隊に次いで、1519年にエルナン・コルテスの第3次遠征隊が組織され、アステカ王国が征服される事になりますが、 この時の航海でもコスメルに立ち寄った後はユカタン半島を一周して湾岸地域に抜けたのでトゥルムを含めユカタン半島のマヤはそのまま残されます。

ユカタン半島征服はスペイン国王からユカタン半島植民化の認可を受けたフランシスコ・デ・モンテホ総督の手に委ねられ、 1527年9月にコスメルに到着したモンテホはシェルハに駐屯地を置いて、植民化の任務を開始します。 各地でマヤ族の反乱を受けるなど多くの困難を伴いますが、1542年にメリダの街が建設されてユカタン半島西側の平定が進み、 1546年にマヤ諸族が団結して大規模な反乱を起こした半島東側も最終的に鎮圧され、敗れたマヤ勢力は四散して多くは南方へ逃れ、 ここにユカタン半島征服が成し遂げられます。

トゥルムはと言うとスペイン人の拠点が設けられるでもなく、直接戦乱に巻き込まれるでもなく、街自体は破壊を免れて手付かずで残されたようです。 しかしスペイン人との戦いにはトゥルムの兵士も身を投じたでしょうし、旧大陸から伝わった天然痘等の疫病も無縁ではなかったでしょう、 やがて街は無人となって歴史の中にその姿を消し、人の住まなくなったトゥルムは徐々にジャングルに呑み込まれて忘れ去られていきます。

スティーブンスとキャザウッドが 1842年に再発見したのはその後のトゥルムの姿で、スティーブンスは測量し、キャザウッドは石板画を残します。 スティーブンス達は必死の思いでトゥルムに辿り着き、神殿を覆った灌木、下草を刈り取り、高温と蚊に悩まされながら遺跡を調査しますが、 その様子は当時の遺跡の状況と共に、ユカタン事物記に書き残されます。



GUERRA DE CASTAS    カスタ戦争

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  (Salida de Tulum)

さてトゥルムのページもそろそろ終わりです。 右は出口に向かう道で、道路脇には左の住居跡があり、道は城壁南面西側の出入り口に通じています。 ここに説明パネルがもう一枚あり、19世紀のカスタ戦争についてでした。

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  (Panel de la Guerra de Casta)

歴史展望としてカスタ戦争 (1847-1900) とトゥルムの係わりについて書かれています。 ( 1901年のチャン・サンタ・クルス陥落をもって戦争終結とするのが一般的ですが。)

マヤの武力蜂起は 1847年に始まり 「もの言う十字架」信仰が現れ、チャン・サンタ・クルス(現在のカリーリョ・プエルト)を本拠に、 トゥルム等にも拠点が置かれました。 ひとたび本拠が攻略されると、トゥルムの女王と呼ばれるマリア・ウイカブを戴くトゥルムが代わりに本拠として機能し、 聖地トゥルムのカスティーヨに十字架が置かれました。 20世紀初めに反乱は沈静化されますが、カスティーヨでの十字架信仰は続きます。  カスタ戦争はスティーブンス達がトゥルムを訪れた直後に始まった事になり、反乱軍の占拠する遺跡ではその後の調査は困難でしたが、 1901年の戦争終結と共にやっと本格的な考古学的調査が始まります。

説明パネルの古い写真を切り出しましたが、カスティーヨ内部での祈りの様子、 上部神殿前でスピーカーから十字架のお告げを聞く人々、蛇を模った円柱の前に座るマヤの若者の写真の他に、調査隊のシルバヌス・モーレーが大勢の警備兵に囲まれた 1922年の写真もあり、戦争が終わって 20年過ぎてもまだ治安は良好とは言えなかったようです。 観光客で溢れかえった現在のトゥルムから想像もつかない トゥルムの歴史の一場面です。

少し説明を追加しておくと、カスタ戦争のマヤの蜂起は反乱直後が黄金期で、メリダやカンペチェ周辺を除いてユカタン半島の3分の2以上を勢力下に収めますが、 雨が降ってトウモロコシの植え付けの時期になるとマヤ兵士は農作業の為に消えて、反乱は一時沈静化してしまいます。 その後ユカタン政府軍の反攻、 マヤ族内部の対立、ベリーズ経由のイギリスから反乱軍への武器支援、メキシコ中央政府の介入等々、複雑な局面の中カスタ戦争自体は続いていきます。

こうした中で「もの言う十字架」信仰が広まり、トゥルムからチェトゥマルを含む現在のキンタナロー州南部が反乱軍の中心になり、 混乱した状況は 50年以上続く事になります。 1567年にチャン・サンタ・クルスが一時制圧されてトゥルムが中心になった事もあったようですが、 最後はチャン・サンタ・クルスが陥落して戦争終結になっており、トゥルムで激戦が繰り広げられた記録は見当たらず、 トゥルムは最後まで戦争被害を受けずに残されたのではと思います。



TORRE DE VIGILANCIA Y ENTRADA/SALIDA  監視塔と出入り口

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  (Torre de Guardia)

トゥルムの城壁から外へ出る前に、城壁角に置かれた監視塔です。 城壁の北西角と南西角に置かれた監視塔のうち南西角の監視塔がこれです。

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  (Salida oeste de Muralla Sur)

そしていよいよと言うか、やっとと言うか、城壁に囲まれたトゥルム遺跡の出口です。
トゥルムのページ、大変長くなりましたがこれで終了です。



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  (Regreso en camión y luego descanso en Starbucks)

また改造トラックに乗って駐車場へ、マヤの時代から文明社会に戻り、スターバックスでリフレッシュしました。 炎天下で水分を減らした体には、空調の利いた室内とフラペチーノ、最高です。


石碑に史実が記され 絶対王権下で優れた建築・工芸を残した古典期マヤと比較すると、古典期マヤ崩壊後の後古典期マヤ文化は魅力が薄くなり、 後古典期後期の しかもあまりにも観光化されたトゥルム遺跡は暫く敬遠していました。 でも 500年前までは主要なマヤセンターのひとつで マヤ崩壊後もあまり人工的な破壊を受けなかったトゥルムは 考古学的にも歴史的にも価値ある遺跡です。 今回久しぶりに訪問してちょっと見直しました。



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