ユカタン州北東部のこんな所に古典期に遡るマヤ遺跡が。 2016年末からメリダ・カントン宮殿で開催されていた特別展示
LAK'IIN で初めてクルバ遺跡の存在を知りました。 その後ユカタン州により遺跡の修復と整備の費用が予算化され、
2018年3月にはクルバ遺跡で州知事とINAH の間で協議書締結が行われ、年内正式遺跡オープンとの報道もありました。
メキシコでは6年毎の大統領交代と共に州知事も替わるので 2018年12月迄には州知事同席の下 駆け込みオープンセレモニー?
と言うシナリオを想像していたのですが、何のニュースも無いまま 2019年に。
クルバは建築当時の面影を残した宮殿がある興味深い遺跡で、調べてみると正式オープンされていないものの門番がいて訪問可能らしいとの事、
オープンが待ちきれずに行ってみる事にしました。 州北東部の街ティシミンから 37Km あり、ティシミンで一泊して車で遺跡に向かいます。
写真は上述のカントン宮殿特別展で公開されていたクルバ遺跡からの建物飾りで、特別展はエク・バラム、チチェン・イッツァ、ヤシュナ等
ユカタン州東部の遺跡から新たに発掘された未公開出土品が数多く集められ、極めて興味深いものでした。
エク・バラムからの未公開展示品には特に目を引くものが多く、
ウキット・カン・レック・トック王 の所にまとめてあります。
冒頭から少し脱線しましたが、この展示会がクルバ遺跡との最初の出会いでした。
(訪問日 2019年 4月 22日)
ティシミンからクルバ遺跡へ De Tizimín a Kulubá
(Desde Tizimín hacia Kulubá)
上の写真で赤い線はティシミンからクルバ遺跡までの道筋です。 ティシミンからコロニア・ユカタンに向かう州道を一路東へ、
約 24Km 行った所でティシュカンカブ(Tixcancab)方向へ右折して(写真下左) 約 9Km 進みます。
州道はセンターラインのある舗装道路で、右折した先も舗装されています。 9Km 進んだ所で(写真下右)で左へ未舗装の道に分け入ります。
ガタガタ道で心細くなりますが一本道を 2Km ちょっと。
(Rancho Kulubá)
左手に風車が見えてきたら遺跡到着です。 揚水用の風車で水を汲み上げて牛に飲ませているのでしょうか、遺跡は牧場に囲まれています。
(Area de entrada)
牧場の入り口には 「Bienvenidos a Culuba Ruinas (ようこそ、クルバ遺跡へ)」 の看板がありますが、汚れていて遠くからは読めません。
遺跡の元々の名前は不明ですが、牧場の名前からクルバと呼ばれ、これはマヤ語で "kulu"(野生の犬の一種) と "ha" (水) が
合わさったものと考えられて Kulubá 、ここではスペイン語的に Culuba になっていました。
クルバ遺跡の博物館 Pequeño Museo del Sitio
遺跡の門を入ると門番のお爺さんが迎えてくれ、出土した石造物を集めた小さな博物館に案内されてここで記帳、
見ると殆ど毎日のように結構な来客があります。 ウィリーと言う門番さんは 18年間牛の世話をしながら INAH に代わって
遺跡の管理にあたっているようです。 INAH からは無給だそうですが訪問客からの入場料、心づけはかなりの収入になりそうです。
(El interior del Museo del Sitio))
ミニ博物館では 2016年からのメリダの特別展示で持ち出された出土品はそのまま不在、それでもチャークの鼻など遺跡から回収された
いろいろな石造物がありました。
(Artículos líticos recuperados)
左上はモザイク彫刻のチャーク像の鼻の部分、右下の石彫りにはクルバの戦士と添え書きがありました。
他にも壁面装飾のパーツや蛇の彫刻の下顎等あり、これからの遺跡の修復には欠かせないものと思います。
遺跡へ Hacía la ruina
遺跡に向かう前にウィリーから入場料を求められました。 聞くと定価は無いようで、気持ちだと。
後々案内もして欲しいし、言われる以上にたっぷりお支払いすると、入り口の扉の施錠を解いてくれ、
真っ直ぐ遺跡まで車で行きなさいと。 あっ、案内してくれないんだ、これから牛をちょっと移動するんですって。
(Entrada a la zona arqueológica)
遺跡の博物館は道路の北側でしたが遺跡自体は道路を挟んで南側。 柵の向こう側、左の写真の中央には石造建造物が見え、
入り口は右の写真の少し戻った所、ここから遺跡まで車を進めます。
(Llegando al palacio en auto)
言われるまま遺跡に車で乗り入れ広場に車を停めます。 後で分かったのですがこれは特別扱い、支払いの少なかった5人家族は入り口から
歩かされていました。 入り口から 300m 以上あり、ここまで汗をかかずに来られました。
(Palacio de los Mascarones de Grupo A)
クルバ遺跡に来る前に予習はしましたが資料は極めて少なく、参考になったのは隔月刊考古学雑誌の "arqueología MEXICANA #145
MAYO-JUNIO 2017, p.59-65" と FAMSI から公開されている
Temporada de Campo 2001 del Proyecto Arqueológico Kulubá
の古い PDF 資料ぐらいでした。
写真で見ていた仮面の宮殿(El Palacio de los Mascarones)は目の前です。
(Recorrido dentro del sitio y la ubicación de los Grupos A,B,C )
グループ A、B、C の3つのグループがある事はわかっていましたが、ウィリーから見学できるのは グループ B の建物ふたつと グループ A
の建物ひとつだけと言われました。 グループ C は何処にありどういう状態なのだろう?
最終的に殆ど未修復の グループ C にも足を踏み入れたので、当日の軌跡から3つのグループの位置関係がわかり、Google Map 上に A、B、C を
付記しました。
以下それぞれのグループを個別に見ていきます。
グループ B Grupo B
(Mapa del Grupo A)
クルバ遺跡はアメリカ人考古学者 Wyllys Andrew IV によって 1941年に最初の報告が行われ、その後 1980年の考古学調査を経て、
1999年から調査、部分的な修復が行われています。
上述の 2001年の活動報告に各グループの地図が有り参考にさせて貰いました。
地図は飽くまでも調査結果で、グループ B で実際露出している建物は
a c のみです。
(Lado frontal sur del Palacio de los Mascarones)
建造物 a ( 9k1a ) ”仮面の宮殿” の南側正面。 内部にベンチが設えてある6部屋一層の宮殿風の建物で、
広場に向かって階段のある基壇上に建てられています。
天井が高く、幅も 50m 位ある立派な建物で、
壁面上部は
プーク様式 の装飾が施され、
装飾の一部が保存の為に広場の反対側に再構成されています。
(Reconstrucción de escultura Chaac del friso sur en 2019 y foto de arqueología mexicana)
再構成された二連のチャークのモザイク彫刻ですが、訪問時は保存の為の屋根が崩れ落ちて情けない状況に(写真上)。 やむなく arqueología にあった
写真をスキャンして付け足しました。 この二連のチャーク像が6部屋の戸口上部全てに飾られていたようです。
(Lado trasero del Palacio de Mascarones)
建物の北側裏面には戸口がありませんが、正面同様二連のチャーク像が6組配されていたようで、2組が左右の格子模様と共に残っています。
壁面下部にはプーク様式独特の小柱が配され、横からの写真ではチャークの鼻がふたつ突き出しているのがわかります。
(Detalle de escultura Chaac)
残された二連のチャーク2組と左側のチャークの拡大です。 右側のチャークからは木が生えてしまっていますが早く取り除いてあげないと。
チャーク像を繋ぐ壁面にはダイヤ型の格子模様があり、目の粗いものと細かいものがあります。
(Reconstrucción hipotética de Palacio de los Mascarones, arqueología mexicana #145)
arqueología #145に宮殿全体を再現した想像復元図が あったので紹介しておきます。 現在遺跡で目にする建物と比べると
興味深いです。
(Cabeza de serpiente con espiga, exhibida en Lak'íin, Palacio Canton)
冒頭で紹介した蛇の建物飾りが想像復元図で西側面で復元されているようです。 この辺りで発見されたのでしょうか。
(Lado lateral este del Palacio)
建物の西側面はかなり崩れていましたが東側面は下部の小柱から戸口上部の高さまで壁が残り、
この上に左右に一対の蛇の彫刻があったものと思います。
(Lado trasero y extremo oeste)
クルバ遺跡のプーク様式宮殿、もう少し細部を見てみましょう。 左は北側裏面を西方向から見たところ、右は南西角で、屋根が崩れ落ちていますが
建物の高さが確認出来ます。
(Palacio de los Mascarones, vista desde suroeste)
正面にある6つの戸口のうち一番西側の居室は天井が崩れて内部が露出していますが、続く3つの居室は戸口から天井、壁が原型を留めて残されます。
1999年以降部分的に修復が行われているようですが修復以前はどんな姿だったのか、気になる所です。
(Tres portadas en el lado oeste)
正面から見た宮殿の西側半分、二番目の戸口より三番目の戸口の方が間口が広く取られています。
(Cuarta portada y su interior)
これは四番目の戸口とその内部で、戸口は三番目同様広い間口で、内部は天井が高くベンチが設えてあります。
(Dos portadas el lado este y su interior)
五番目と東端の六番目の居室は戸口の鴨居の高さから上がかなり失われて内部が露出した状態で、
戸口の高さから梁の部分まで鋭角的に伸びるアーチ天井を確認出来ます。
(Palacio Chenes, vista desde Palacio de los Mascarones)
グループ B にはもうひとつ宮殿が残され、仮面の宮殿の基壇から南東方向に南北に建てられた建物が見えます。
建造物 c ( 9k1c ) ”チェネス様式の宮殿” です。
(Lado frontal oeste de Palacio Chenes)
北西方向から見た宮殿の西を向いた正面です。 建物は鴨居の部分まで残されますが上部は全て失われて内部が露出しています。
(Resto de portada central)
居室が5部屋が一列に並ぶ宮殿で、中央居室周りにモザイク彫刻が部分的に残されますが、上部が全て喪失されている為に
全体がどうなっていたのか想像が難しいところですが…。
(Reconstrucción hipotética de Palacio Chenes, arqueología mexicana #145)
この宮殿も arqueología に想像復元図がありました。
チェネス様式
の怪物の口を模した壁面装飾に仕上げられています。 上顎の6本の牙や上部のモザイク彫刻は瓦礫の中から断片でも発見されているのでしょうか?
(Parte derecha inferior de la portada central)
戸口右側のモザイク彫刻が一番保存状態が良いようです。 上の復元図と比べてみてください。
(Lado trasero de Palacio Chenes)
建物の裏側は戸口が無くシンプルな造りで軒蛇腹が水平に走り完形を保っているように見えますが、軒蛇腹の上にフリーズがあって
その上に上部軒蛇腹があって屋根となっていた筈で、つまり上半分近くが無くなっている訳です。
この裏側は完全な形を保って残されていたのか、それともこの形に修復されたのか?
建物がのった基壇は建物の後ろで終わっています。
(Zócalo decorado con columnillas y diseño geométrico)
建物下部の根回りの部分は小柱と格子模様で埋め尽くされていました。
グループ B はふたつの宮殿以外見るべきものはなく一面灌木に覆われたままで、車で元来た入り口の所へ戻ります。
グループ A Grupo A
(Entrada al sitio de Kulubá)
遺跡の入り口に戻り、もうひとつ見るべき建物があると言うグループ A を探索します。
(Mapa de Grupo A)
グループ A の地図、残された宮殿は
a を付した所で、
南側には広場があり所々土塁が顔を覗かせます。
(Hacía plaza sur, ezquierda y hacía palacio, derecha)
左の写真の先は南側の広場で、右の写真の茂みを東へ行くと宮殿があり、まずこちらへ。
(Palacio de las U)
正面に見えてきたのがグループ A 北端にある建造物 a ( 11k1a ) ” U字の宮殿” で、
チェネス様式の宮殿と比べると屋根の部分まで残され、大きく立派に見えます。
(Palacio de las U)
宮殿の東側から建造物 b が南へ伸びていたようですが基部を残すだけで上部構造は失われています。
建造物 a の宮殿は南向きで戸口が5つあり、左端の居室は一部崩れて内部が露出していますが、他の4つの戸口内部は屋根で閉じられています。
(Reconstrucción hipotética de Palacio de las U, arqueología mexicana #145)
建物正面の壁面は表面が殆ど崩れ落ちていてモザイク装飾の跡を一部残すだけですが、ここも arqueología に想像復元図があり、
正面戸口周りにチェネス様式の宮殿と同様の装飾が施され、左右の戸口の両脇には二連のチャーク像が配されていた事になっています。
(Portada central y resto de su decoración)
実際の正面戸口と右側に残されたモザイク装飾の一部ですが、これから復元図を起こすには崩れ落ちた残像物などの根拠があったのでしょうか?
(Boca de serpiente en la decoración)
残された装飾には左側の写真にあるように大きく口を開けた蛇の下顎部分のようなものが見えますが、どうも復元図には再構成されていないような?
(Cuartos interior de portada central)
中央の居室は奥にもう一つの居室が設けられ、地図にもあるようにここだけ宮殿が外側に張り出しています。
左は手前の居室で、右が奥の居室を覗いてみたところです。
(El interior del cuarto)
手前の居室の左右を見るとベンチがあり、鋭角的な屋根で高い空間が確保されています。
宮殿西側の2部屋、そして東の2部屋も高い天井とベンチがある同様の造りですが、
夫々通り抜け出来るように仕切りの壁が部分的に切り取られていました。
(Lado trasero del Palacio, vista desde noreste)
宮殿の裏側に回って これは北東側から見た所で、右側に中央戸口奥の居室の張り出し部分が見えます。
(Pared y friso decorado con diseñno de las U)
裏側の保存状態は極めて良好で、壁に塗られた漆喰に赤い彩色が残るところもあり、
この部分は修復されたものではなく当時の姿をそのまま残している事がわかります。。
(Pared trasero con las letras U)
壁はほぼ正方形の切り石を積み上げて造られ、ひとつひとつの切り石は表面周囲を彫り込んでU字形に窪ませてありました。
仕上がった壁面は漆喰で塗り固めた上に全体が赤で彩色されましたが、1000年を超える歳月で壁は当然風化します。
しかし窪んだ U字の中の赤い彩色が風化を免れて残り、赤いU字が際立って見える事から宮殿が ” U字の宮殿” と呼ばれる事になります。
(Las Letras U del diferente estado de conservación)
壁は場所によって風化の度合いが異なり、漆喰が失われて元の切り石が露出しているもの(写真一番左)、
赤い彩色が無くなり白い漆喰の下塗りが見えるもの(左から二番目)、
下塗りの漆喰が厚く 窪みには赤い彩色が残るもの(右側のふたつ)等あり、建物がどのように仕上げられたかわかります。
U字の痕跡は壁面から上部フリーズまで認められ、殆ど崩れている建物正面東側にも一部 U字があるので、
おそらく建物全面に U字の彫刻が施されていたものと思います。
(Lado trasero central)
宮殿裏側に張り出した部分はかなり黒く苔生していますが、ここも U字装飾が全面にあります。
(Lado trasero oeste)
宮殿裏面の西側も保存状態が良好で、ここにも赤いU字が沢山残されていました。
この宮殿にも修復の手が及んでいるものと思いますが、補修程度で済んでいるのかもしれません。
(Lado lateral oeste)
これは宮殿の西側で、崩れて補修された跡があるようですが U字はここでも確認出来ました。
周囲に宮殿がのった低層の基壇が確認出来ます。
(Patio en frente del Palacio)
U字の宮殿はこの辺にしてグループ A の南の区画に行ってみます。 南を向いた宮殿の前には写真のような小さな広場があり、
南の区画は写真の右奥です。
(Plaza sur y los montículos)
南の区画には 40m 四方の広場があり、北の建造物 l から南東の建造物 v まで多くの建物で囲まれ、
低層の土塁が沢山残されます。
写真は上から 建造物 v 、中央の広場、建造物 n になるものと思います。
瓦礫の中には彫刻の残る断片もあり、発掘修復は行われるのでしょうか。
ここまでプーク様式宮殿、チェネス様式宮殿と言う事で、想像復元図でもその姿が現されていましたが、
ユカタン州北東部のこんな所に何故プーク様式、チェネス様式があるのでしょう?
プーク様式はユカタン州南東部のウシュマルからカバー、ラブナー遺跡辺りを中心にカンペチェ州北部地域やユカタン州では
チチェン・イッツァまで広がり、チェネス様式の方はカンペチェ州中部辺りが中心地で州南部のリオ・ベック様式に影響が見られます。
地理的にかなり離れたクルバ遺跡まで両様式はどのようにして伝わってきたのでしょうか。
クルバ遺跡の繁栄した時期は古典期後期の晩期から古典期終末期辺りで、古くは南に位置する
エク・バラム遺跡 の影響下にあり、
その後
チチェン・イッツァ
の支配下でカリブ海に通じるに伸びる交易の中継地として栄えたようです。
エク・バラム遺跡ではウキット・カン王のチェネス様式の霊廟が有名で、チチェン・イッツァでは尼僧院周辺のプーク様式建造物が
知られ、クルバ遺跡の宮殿はこうした中心センターの影響を受けて建てられたのか。 クルバ遺跡の本格的な研究はこれからで、
時代の特定と建築文化の伝播経路など解明されると地域の歴史が解き明かされる事になり興味深い所です。
グループ C Grupo C
グループ A を終えて入り口に戻るとウィリーがいて、どうだったかと感想を聞かれます。 3つの宮殿は興味深かったけれど
グループ C は何処にあるのだろうと尋ねてみました。 もうひとつ修復されている建物があり土塁ばかりだけれど行きたいか? とウィリー。
勿論答えはイエス、 グループ C でした。
(Sendero que conduce al Grupo C)
遺跡の入り口から 500m 位 車で戻り、ウィリーの後をついて獣道に分け入ります。
(Acercando al Grupo A)
200m 位歩くと少し開けた所に出ました。 一般の訪問客はグループ B と A で終わり、ここまで来る人は少ないでしょう。
入場料をはずんだ甲斐がありました。 地獄の沙汰も何とやら。
ウィリーによると 5月15日から 総勢 180人で 6ヵ月間の本格的な発掘修復活動が始まり、
未舗装道路は舗装され入場料を徴収する小屋も整備される予定との事。 州と INAH で結ばれた協議書では 3500万ペソの予算のうち
クルバ遺跡に 1800万ペソが割り当てられていて、やっとその予算が執行されたようです。 2018年中の遺跡オープンは実現されませんでしたが、
1年遅れで発掘修復活動に着手です。
と言う事で 本格的な活動が始まる直前の グループ C を見学、以下発掘前の遺跡の姿です。
(Mapa del Grupo C)
獣道を南に下って来て、現在地は地図の左上、CUADRO と書かれた辺りで、広場を囲む建物群の北西の外側です。
(Montículo de Estructura 3)
更に南に歩いていくと大きな土塁が見えてきて、建造物 3 になるようです。 土砂が被っていて何処がどうなのかよく判りませんが、
およそ北西方向から撮った写真です。 地図では矩形のピラミッドのように描かれていて、上部に僅かに建物の石組みが見えます。
(Montículo de Estructura 4)
更に南へ、細長い建物が見えてきますが、建造物 4 のようです。 広場の外ですから建物の裏側でしょう。
(Montículo de Estructura 4)
同じ建造物 4 の南西側で、建物の南側から東方向へ道が伸びています。
(Montículo de Estructura 4)
東方向へ進むと見えてくる土塁がこれで、建造物 5 の西側になるでしょうか。 建造物 3 同様矩形のピラミッドのようです。
(Plaza central y estructura 4 a la izquierda)
ここから広場に入り北方向へ。 左の土塁は横長の建造物 4 の正面になるようで、その前は雑草と低木がありますが広場です。
地図にあるスケールが正確だとすると建物に囲まれた広場内部は東西に 130m位、南北は 100m位になりそうです。
(Plaza central y estructura 5 a la derecha)
右の土塁は建造物 5 の基部、正面は南から見た広場でしょう。
(Montículo de Estructura 5)
建造物 5 の正面に回り込んでやや北西側から見た建物の正面です。 上部右側には窓のようなものが見え、発掘のし甲斐がありそうです。
(Montículo de Estructura 1)
広場内部に作られた道を北東方向を進みます。 大きな土塁が見えてきますが広場北側の建造物 1 になるようです。
(Montículo de Estructura 1)
建造物 1 を正面から見上げると頂上まで石材がごろごろしています。 高さ 15m のクルバ遺跡で一番高いピラミッドになるようですが、
手前に柵があり登れません、柵が無くても危ないので登りませんが。
(Arboles marcados con linea roja sujeto a cortar para próxima actividad de exploración)
道は東方向に伸びています。 所々木の幹に赤い線が引かれていますが、これは事前調査で伐採が決まっている印しだそうで、
近々本活的な活動が始まる前触れです。
(Montículo de Estructura 17 y 18 ?)
そしてまた土塁が。 建造物 17、18 辺りになりそうですが、正確なところはわかりません。
(Extructura 15, única excavada)
道なりに南の方へ進んでいくと草葺きの保護の屋根が見えてきました。 地図で二部屋の間取りが図示されている建造物 15 になるようです。
広場に向かって西向きに建てられていますが、広場と言っても一面密林で、
GPS ロガーで軌跡を記録していなければ場所の特定に苦労したところでした。
(Extructura 15)
建造物 15 の正面です。 入り口に向かって導入路(階段?)をあがると一段下がった所から天井の高い部屋が立ち上がります。
(EL interior de Extructura 15)
これが部屋の内部、左側の壁と正面です。 建造物 15 はグループ C で唯一発掘が試みられたところで、
発掘は 2001年頃に遡り、以降本格的な発掘作業は行われていません。
(Extructura 15)
先に進んでもう一度南側から見返してみました。 かなり高さがあり二層だったようにも見えますが、
内部を見る限り天井の高い一層の建物だったでしょうか。
(Aarea sur de plaza central)
南に進みます。 写真の通り木々が生い茂った林で、少し起伏が出てきます。
(Montículo de Estructura 13 ?)
起伏の上から東方向にまた土塁が。 多分建造物 13 で、撮影位置は建造物 12 から東に伸びている横長の構造物の所でしょう。
(Montículo de Estructura 12)
そしてこれが建造物 12 の北面と西面です。 矩形のピラミッドで広場に面しているとすると北側が建物正面になります。
(Montículo de Estructura 11 ?)
建造物 12 の東側から見下ろすと横長の土塁があり、建造物 11 になるでしょうか。
(Montículo de Estructura 5)
広場の内側を一回りしてまた建造物 5 に戻りました。 建物の北側、北東側とその上部の拡大です。
建造物 5 は建造物 3 と同じくらいの大きさで、建造物 1 に次いで二番目か三番目に高い建造物になりそうです。
グループ C 内側の広場を反時計回りに一周しましたが、生い茂る雑草と灌木で見通しが利かず、土塁は形の違いこそあれ
どれも同じように見えてしまいます。 でも規模感はしっかり実感できました。
グループ A と B には宮殿があり 貴族の居住区だったと思われるの対して、
巨大な広場に様々な建物を持つグループ C はより公共性の高い場所だったと思われ、クルバの中心は明らかにこちらです。
ここでの本格的な発掘調査ではこれまで知られていなかったクルバの姿が見えてくるのかもしれません。
(Montículo de Estructura 8)
遺構はもう少し南まで伸びていて写真は北側から見た建造物 8 です。
(Camino de regreso, Estructura 8 a la izquierda)
道なりに建造物 8 の東側を南へ歩きますが、ウィリーによるとここ迄。 グループ C の地図もここで終わっていました。
写真右側の道を真っ直ぐ北へ、車を停めてある所へ戻ります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
クルバ遺跡オープンのニュースはあったものの一向に続報が無く、しびれを切らして来てしまいました。
一年遅れでも発掘修復作業が開始される事が判り 喜ばしい限りです。 訪問してから既に 1ヵ月が経過しましたが
今頃は沢山の作業員が発掘作業に取り組んでいるのでしょうか。
(Camino de terracería, regreso de la ruina de Kulubá)
遺跡から舗装道路に出るまで写真のような未舗装の悪路が 2Km 以上続きます。 遺跡の発掘修復、公園としての整備、更に道路の舗装となると
どれだけ時間がかかるものやら。 また予算も足りるのか。 発掘が進んでクルバ遺跡が生まれ変わったら是非また
行ってみたいものです。
カントン宮殿特別展での展示物 Artículos líticos exhibidos en Lak'íin