UKIT KAN LE'K TOK'
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UKIT KAN LE'K TOK' - EK' BALAM

       ウキット・カン・レック・トック王 - エク・バラム
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   (Estructura 35 sub, Sak Xok Naah)

1999年に王の霊廟が建物ごと手付かずの状態で発見されたエク・バラム遺跡、今回3回目の訪問です。 遺跡の詳細は 遺跡のページに譲り、このページでは 博物館の展示も参考に、 霊廟とその副葬品、大量に発見されているマヤ文字の資料等を紹介しながら、ウキット・カン・レック・トック王を創始者とする エク・バラム王朝の歴史を探ってみたいと思います。 新たに公開された部分もあり 遺跡の現況についても最後に触れたいと思います。

上の画像はウキット・カン王の霊廟の入口になる建造物 35 sub の外観で、16mm 広角レンズで撮影して歪みを補正しました。 外壁の左上部が欠けますが、限られたスペースでの撮影でこの辺りが精一杯です。

  (訪問日 2017年 1月25日)
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王の霊廟  Mausoleo del Rey
1994年に始まったエク・バラムでの調査活動では 1999-2000年度以降 新たな発見が相次ぎ、保存・修復活動が進められる一方、碑文資料の解読も進み FAMSI から2003年版の研究成果 が公開されています。 建造物 1 アクロポリスの見取り図があり、部屋番号も記載されていて参考になりました。

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   (Acrópolis de Ek' Balam)

考古学雑誌 Arqueologia Mexicana では #76 Nov-Dec 2005 にエク・バラムの特集記事が掲載され、アクロポリスの正面図があり、上の見取り図と重ねてみました。 上が上面図、下が正面から見た側面図になり、図像をクリックすると大きな画面が開きます。

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   (Fachada Principal de Estructura 35 sub)

アクロポリス四層目左翼(西側)にある建造物 35 sub 正面を上部に嵌め込まれた7体の人物像が入るように写してみました(左端の人物像は喪失されています)。 中央で玉座に座っているのがウキット・カン王と思われますが、残念ながら頭部と左腕は残っていません。 手前の牙は右側にもう3本並び、入口の奥が部屋 35 で、奥の部屋 49 に続き、ここがウキット・カン王の霊廟です。

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   (Tapa de Bóveda 19, Cuarto 35, Gran Museo de Maya de Mérida)

部屋 35 のアーチ天井上部を閉じる蓋石 19 にはサク・ショク・ナ(Sak Xok Naah)の文字が記され、スペイン語訳は Casa Blanca de Lectura (読書の白い家)となり、 生前に王が使用していた部屋と理解されるそうです。 日本語にすると「王の書斎」といったところでしょうか。 建物の奉納日は 797年か 802年になるようです。

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   (Tapa de Bóveda 15, Cuarto 49, Gran Museo de Maya de Mérida)

こちらは蓋石 15 です。 王の遺体が安置された奥の部屋 49 の梁にあった蓋石で、文字部分はトウモロコシの神の姿をしたウキット・カン王と解読され、 描かれているのは王その人で、切れた上唇は戦いで負った傷と考えられるようです。 蓋石にはカウィール神を描くのが一般的ですが、 使用者であり且つ被葬者だった王の姿が描かれたこの蓋石は何時作られたものか…、残念ながら暦は添えられておらず、日付は不明です。

蓋石 15 は蓋石 19 と共にメリダのマヤ大博物館に展示されています。 

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   (Estructura 42 sub)

建造物 35 sub の右側に並ぶ建造物 42 sub には壁面上部の漆喰装飾が当時のままに残り、こちらに目を奪われがちですが、入口右側の軒柱内側に 幅 40cm位の興味深い壁画が残されます。 実際過去2回の訪問では見落としていました。

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   (Pintura Mural de Estructura 42 sub)

壁画の前に立てば写真は簡単ですが柵の内側には入れません。 正面写真が撮りたいので横から望遠レンズで狙いました。 貴族に囲まれたウキット・カン王が 活き活きと描かれているようです。

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   (Dibujo de la pintura, Exhibición Lak'iin)

メリダのカントン宮殿(地方考古学博物館)で ユカタン州東部マヤの特別展が開催されていて、この壁画の説明パネルがありました。 説明の為にパネルにあった模写をお借りします。

建物の壁面上部からこの場面が建造物 42 sub で、 戸口に座るウキット・カン王が周辺の貴族の訪問を受けている場面と考えられ、 壺を背負って階段を登る召使やその後ろにジャガーの毛皮と思われる貢物を持った別の貴族も見えます。 王に向かい合った3人は訪問者で、後ろの2人は王の臣下でしょうか? 周りにマヤ文字もあったそうですが、残念ながら薄れて読み取れないそうです。


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   (Ajuar Funerario, Gran Museo Maya de Mérida)   (Perforador Ritual)

霊廟には辰砂で覆われた王が埋葬され、周囲に 食べ物や飲み物を納めたと思われるアラバストロを含む 21個の容器や、数多くの王の大切な持ち物が残され、 副葬品の数は 7000点を超えるそうです。 代表的な副葬品はメリダのマヤ・大博物館に移され、縦長の大きなショーケース(写真左) と左右の小さなショーケースの3つにまとめて展示されています。

右側に拡大した骨製の道具は放血儀礼で穴を開ける為に用いられるもので、王の胸の上に左手で持った形で発見されたそうです。 刻まれた文字から持ち主がウキット・カン王であり 骨は父親と考えられるウキット・アーカンの大腿骨である事がわかり、 副葬品の中でも最も興味深いもののひとつになります。

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   (Copa de Cacao del Rey)

もうひとつの代表的な副葬品がこの漆喰が施され図像と文字が刻まれた壺で、カカオ飲料を入れる容器で持ち主がタロール(エク・バラムの王朝名)の 神聖王ウキット・カン・レク・トク王である事が記されているそうです。

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        (Colgante de pez del Rey)

王の胸の上に置かれた魚を模った貝製ペンダントにも持ち主がウキット・カン王である事が記されているそうです。

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       (Ajuar Funerario, Gran Museo Maya de Mérida)

これは大きなショーケースの左右に置かれた小さなショーケースで、左のショーケース(上の画像)にはアラバストロの容器が、 右のショーケース(下の画像)には王の装飾品が展示されます。 

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      (Colgante de Rostro del Rey y Broche de Rana de Tumbaga)

左は王の容貌を彫ったと思われる骨製のペンダントです。 王の遺骨と歯の調査から いろいろな病を患い虫歯もひどく、戦いの傷による歯の欠損もあり、 あまり人相が良くなかったなんていう推測もあります。

多くの翡翠製の装飾品に混じって金銅製の蛙のブローチもあり、オアハカか或いはコスタリカやパナマ辺りとも交易が行われていたと考えられます。


壁画  Pintura Mural
上の方で既に述べたように メリダのカントン宮殿で特別展示が行われていて、エク・バラムの壁画が多く紹介されており、王朝の歴史を含めて エク・バラムの理解を深める事が出来ました。

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   (Panel de Explicacion, Exhibición Lak'iin)

これは特別展示にあった説明パネルを写真に撮ったもので、左が「96文字の壁画」、右が「部屋 22 の壁画」のパネルです。

96文字の壁画  Mural de 96 Glifos

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   (Mural de 96 Glifos)

アクロポリスの発掘調査の過程で部屋 29 の内部から赤、青、黒で文字が描かれた壁画が見つかり、修復解読が行われました。 北側の碑文の壁画は赤く縁取りされた中に96文字が並べられ、解読の結果エクバラム王朝の創設を語ったものと読み解かれ、「96文字の壁画」と通称されています。

普段目にする事の出来ない壁画ですが、説明パネルには最新の撮影技術でオリジナルを復元して初めて一般公開している旨述べられていました。 壁画の実物は 3m の長さがあり、実際復元写真は大きなもので実物大だったかもしれません。 狭い場所に展示され1枚の写真では納まらないので4枚の写真を撮って 合成してみましたが、フォトショップはマヤ文字を理解するかの如く見事に1枚の写真に繋いでくれました。 上の全体を写した写真はこの合成写真で、クリックすると かなり大きな画像 (幅 6000 pixel) が開いて壁画の素晴らしさを実感できると思います。

96文字と言うとパレンケの王名表を刻んだ96文字の石板が有名ですが、 この壁画では32文字が3列に並び、読み方も上段の32文字を読んだ後に、中段、下段と続くそうで、碑文の解読はまだ不完全ですが、 壁画は 770年5月25日に描かれ、ウキット・カン・レク・トク王がエク・バラムの神聖王として即位した事が書き記されているそうです。 (770年5月25日を 即位日とする説もあります。)

この壁画があった部屋 29 はアクロポリス四層目東側で、王の霊廟になった四層目西側のサク・ショク・ナとは中央階段を挟んで左右対称の位置にあります。 部屋 29 もサク・ショク・ナ同様 その後閉じられた為に壁に描かれた壁画が後世に残される事になりますが、770年以降何度か描き足しが行われて四方の壁が 文字で埋め尽くされ、霊廟のサク・ショク・ナに対して さながらエク・バラムの歴史を伝える書庫の如くでした。

2枚目の画像はオリジナルの3色で復元した模写で、下の画像は壁画の左から 9-16列目の部分写真になり、上列右端の2文字がウキット・カン王を表します。


部屋 22 の壁画  Mural de Cuarto 22

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  (Mural de Cuarto 22)

カントン宮殿の特別展示ではもうひとつ重要な壁画が紹介されていました。 アクロポリス二層目の部屋 22 で発見され、 何十にも断片化していたものを丹念に修復したもので、「部屋 22 の壁画」と呼ばれます、そのままですが。 ガラスケースに納められた壁画は周りが映り込んで あまり綺麗に撮れませんが上の方の画像をクリックすると大きな画像が開きます。

復元された碑文は当然ながら不完全ですが、13 トゥンから始まる新年を迎えるにあたり、近隣諸侯を集めて祝いを執り行って新年の予言を行ったと解釈されるようです。 9.17.13.0.1 (Nov. 10, 783) から 9.17.14.0.0 (Nov.7, 784) の予言になり、碑文の最後にカレンダー・ラウンドの日付けが並びます。  後古典期のこうした予言はドレスデン・コデックスやマドリー・コデックス等で知られますが、 古典期後期に既に同種の予言が行われていた点は注目されます。

この壁画で更に特筆されるのは、ウキット・カン王の出自に触れられている点です。 父親の名はウキット・アーカンで称号の部分は失われていますが短い記述なのに対し、 母親については名前は読めないものの称号が7文字分で表され、父親より母親の方が高い地位にあったと理解されます。 更に母親は神聖王国の女王であり、王国の名前は 不完全であるもののコバの王国名とも読めると言う指摘があり、興味をそそられます。


蓋石の壁画  Tapas de Boveda

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  (Tapa de Boveda 2, 7 y 14)

カントン宮殿の特別展示では上で紹介した蓋石 19, 15 に加えて蓋石 2, 7, 14 の展示もありました。

蓋石 2 は球戯場の建物からで 841年9月頃とされます。 南の広場の石碑1 が 840年建立ですから、これとほぼ同時代になります。

蓋石 7 はアクロポリス三層目西側の部屋 33 から。 9.17.4.7.19 (Jun. 7, 775) でウキット・カン王の時代です。

蓋石 14 はアクロポリス四層目東側の部屋 45 から。 9.17.10.7.17 (May 4, 781) で同じくウキット・カン王の時代です。



エクバラム王朝  Historia de la Dinastia
発掘調査によってエク・バラムは8世紀後半に急速に発展を遂げた事が明らかになりました。 発掘された土器等からエク・バラムでの居住が先古典期に遡る事は確認されていますが、アクロポリスの下層から確認された古い時代の建造物は規模も小さく、 エク・バラムで重要なのは言うまでもなくウキット・カン・レク・トク王を創始者とする王朝という事になります。

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  (Serpiente Jeroglífica, Oeste y Este)

既に壁画の所でみてきたように、マヤの大国の女王を母に持つウキット・カン王が 770年以前にエク・バラムに到着し、ここに王国を建設します。 母の出自が コバ王朝かもしれない事は既に書きましたが、コバ王朝自体の衰退がこの時期にあたり、 コバ から来た勢力がエク・バラムに王朝を創設したという見方は魅力的に思えます。

エク・バラムに到着したウキット・カン王は直ぐに街造りに着手し、完成したアクロポリスの中央階段基部左右には「碑文の蛇」と呼ばれる石彫(写真上)を配置し、 タロール王国とウキット・カン・レク・トク王の名前を刻んで自らを誇示します。 その後のエク・バラムの発展ぶりは既に紹介したサク・ショク・ナや残された壁画を 見ての通りです。

ウキット・カン王の称号の中には心臓を切り取る戦士と言うものまであり、王が武力的に優れていた事が想像されますが、文化芸術面でも非常に秀でていて、 サク・ショク・ナの壁面装飾はその後カンペチェ州で栄えたチェネス様式やリオ・ベック様式に影響を与えたと言われ、壁画に残された創造的な文字表現や 図像の描き方はチチェン・イッツァに引き継がれたとの指摘もあります。

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      (Dibujo de Tapa de Bóveda 4)

ウキット・カン王が何時まで王位に就いていたのか明確な資料がありませんが、96文字の壁画のあった部屋 29 に後から付け加えられた壁画C には 9.19.3.10.14 (Jan. 8, 814) の日付と共にカン・ボーブ・トク王の名前が現れます。 この日付が新しい王の即位日になるのか定かではありませんが、少なくとも この時点ではウキット・カン王に代わってカン・ボーブ王が即位していた事になります。

アクロポリス左翼三層目の部屋 25 から見つかった蓋石 4 (上の模写) にはカン・ボーブ王の名前が記され、この王が初代王を継いだとすると、 ウキット・カン王の葬儀を執り行ってサク・ショク・ナを封印した(埋納した)のがカン・ボーブ王で、その後アクロポリスの改築の際に蓋石 4 が据えられたと 考えられそうです。

二代目王がカン・ボーブで 即位が 814年とすると、初代ウキット・カン王は 44年間もの長きにわたって王位に就いていた事になり、 その名を記した記念物が多く残されるのは頷けるところです。 しかし二代目王以降については文字資料が極めて少なく、歴史解明が難しくなります。

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  (Columna 1)

これはアクロポリス左翼三層目から四層目にかけての区域で発見された碑文と図像が刻まれた 柱 1 と呼ばれる石柱で、カントン宮殿の特別展示で公開されていました。 柱は 1本ですが、見事な彫刻なので少し角度を変えた写真を並べて見ました。 柱は石灰岩ではなく鍾乳石で作られ、2本を上下に繋いであります。 右は柱の上の部分で、槍と楯を持って戦士の姿をしたウキット・カン王の立ち姿が名前と共に明瞭に確認出来ますが、ここで注目されるのは別の王の図像も刻まれている点です。

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    (Detalle de Columna 1)

画像左側は柱の展開図で、右側は王の坐像がある下の柱の上部を拡大したもので、ここに神聖王としてウキット・ホル・アーカルの名前が彫られています。 柱の上部と下部に添えられた碑文から、10.0.0.0.0 (Mar. 11, 830) の 10 バクトゥンに火の儀式が執り行われた事がわかるようですが、 830年にはカン・ボーブ王ではなく別のキット・ホル王が即位していた事になり、現在迄に解明されたエク・バラム王朝史では3代目王と言う事になります。 ウキット・ホル王はアクロポリス右翼の部屋 38 の蓋石 10 で 832年の在位も確認されるようです。

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  (Estela 1)

次に日付が確認出来る記念物は遺跡に入って直ぐ目にする石碑 1 です。 劣化して殆ど読み取りが出来ない石碑 2 と共に遺跡の南の広場に残されますが 風化は進む一方です。 写真は 2002年に初めて来た時に撮ったもので西を向いた背面には長期暦が刻まれ、東向の正面に図像と碑文が認められます。

長期暦は 10 バクトゥンからハーフカトゥン( 10トゥン=年)経過した 10.0.10.0.0 (Jan. 18, 840) と解読されます。 石碑正面は右の模写にあるように、 着飾った王が儀礼を執り行う様子が描かれ、王の頭の上には太陽を模した円形の中に初代王ウキット・カン・レク・トクが刻まれており、 初代王に対す畏敬の念と共に、初代王の偉大さが窺い知れます。

石碑に彫られた王の名前は神聖王から始まり名前自体は不明瞭なものの、ハラカルの石板にエク・バラム王として刻まれた キニチ・フンピク・トク王の文字と類似している事から、石碑 1 は4代目キニチ・フンピク・トク王によりが建立されたと言うのが定説になるようです。

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  (Dintel 1 de Halakal)

これがハラカルの石板 1 で、以前からカントン宮殿の地方考古学博物館に展示されていましたが、現在はメリダ・マヤ大博物館に移され引き続き展示されています。

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     (Dibujo de Dintel de Halakal)

ハラカルとキニチ・フンピク・トク王をウェブで調べてみると "K'ak'-u-pakal, Hun-pik-tok' and the Kokom" というPDF資料が見つかり、ここに石板 1 の模写があり引用させて頂きました。 ハカラルはエク・バラムから南西におよそ 50Km、 チチェン・イッツァの北東 3Km にあり、チチェン・イッツァの勢力圏、或いはその一部と考えられます。

石板は 869年の戦勝を祝う儀礼の場面と考えられ、ここにチチェン・イッツァのカック・ウ・パカル王と向かい合って エク・バラムの紋章文字を伴うキニチ・フンピク・トク王が描かれます。 石碑 1 の王とこの石板のエク・バラムの王が同一だとすると、キニチ・フンピク・トク王は 840年から 869年までエク・バラム王として君臨した事になりますが、エク・バラムの球戯場には別の人物の名前が描かれた 841年の石板もあり、この辺りは 今後の調査を待つべきでしょうか。

石板に描かれた王達は、左の四角い楯を持ったのがカック・ウ・パカル王で、付けている衣装から中央がエク・バラム王のように見えます。 古典期マヤ崩壊後のマヤ王朝では絶対王ではなく三頭政治のような共同統治が行われた事が知られますが、 エク・バラムが共同統治者としてチチェン・イッツァの王朝運営に参画していったのでしょうか、或はその後軍事的に淘汰されたかもしれません。 この辺りの歴史はまだ闇の中という事になります。

何れにせよエク・バラムでの文字記録は 770年頃とされる王朝創設から始まり 841年の蓋石が最後になり、ハカラルの石板で確認される 869年を考慮しても、 およそ 100年でその歴史を閉じたように見えます。 他の多くのマヤ王朝と比べると極めて短命の王朝になりますが、ユカタン半島北部でコバ王朝に次いで登場し、 チチェン・イッツァの登場と共にその姿を消すと言う、コバとチチェン・イッツァの間を埋める大変意味深いマヤ王朝だったと言えます。 エク・バラム王朝が コバから移ってきてチチェン・イッツァに吸収されていったと考えるとマヤの歴史の中で非常に興味深い王朝ですが、この辺りは今後の調査の結果を待たなくてはなりません。


エク・バラムでの発掘修復はアクロポリス以外にも建造物 2、3 と言う巨大建造物が残っていて、文字通り宝の山がまだふたつあります。 今後新たな発見がありエク・バラム王朝史が大きく書き換えられる可能性もあり、大いに期待したいところです。


修復作業の進捗  Restauracion reciente
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  (Dibujo reconstruido de 3-6 niveles de Acrópolis)

これはカントン宮殿の特別展示に置かれていたアクロポリス三層目から上の想像復元画で、大変参考になるのでここに紹介させて頂きました。 三層目左翼(西側)に 35 sub のサク・ショク・ナがあり、階段を挟んで反対側に色付けされた 部屋 29 が描かれ、この内部からは「96文字の壁画」が発見されています。

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  (Estructura 29 sub)

29 sub は 2008年に来た時は立ち入り出来ませんでしたが、その後修復作業が進んだのか、今回保護の屋根を取り付けて公開されていました。 サク・ショク・ナとは造りは類似していますが、壁面装飾は異なるようです。

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  (Escultura de Reina)

戸口の前には頭部は失われていますが玉座に座り着飾った女性の石造彫刻が置かれ、これは五層目の部屋 55 の前辺りで見つかったものだそうですが、 部屋 22 の壁画にも登場する ウキット・カン王の母になる女王のものでしょうか。 

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  (Esquina decorada de quinto nivel)

2002年に初めてエク・バラムに来た時は五層目の東側階段脇に漆喰彫刻が見られました(写真右)。 五層目でアクロポリスの天辺を飾った矩形のピラミッドの角に施されていた漆喰装飾の一部で、上の復元画に描かれていますが、 現在は保存の為埋め戻されているようです(写真左)。

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  (Columnas Redondas de quinto nivel)

五層目両翼に入口が円柱で飾られた神殿があり、柱だけ現在も残されます。 右は 2002年に来た時に撮ったものですが、現在は立ち入りが制限され、 柱自体 手前の植生に邪魔されてあまりよく見えません。

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  (Quinto Nivel de Ala Oeste bajo techado)

上の漆喰彫刻と円柱は左翼東側で、西側はと言うと更に大きな保護屋根に覆われて辛うじて覗き見出来る程度ですが、東側同様円柱があります。 階段脇には東側より完全な形でピラミッド角の壁面装飾がある筈ですが非公開で埋め戻されているのかもしれません。 写真右は Arqueologia #76 で紹介されていた壁面装飾で、丸く仕上げられた角に大地の怪物が漆喰彫刻で表現されていました。

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    (Decoración de Estuco con red fina de protección)

他にエク・バラム遺跡で変わった事と言うと、これは残念な方ですが、サク・ショク・ナの壁面装飾が目の細かい網で覆われていた点で、 上部一番右の人物像を除いて壁面下部まで全て網が被っています。 保存の為に止むを得ないでしょうが、ちょっと残念です。 この写真で右から2体目は網を被っているのがわかるでしょうか。


他に発掘修復で大きく変わった部分はなく、もう少しスピードアップして欲しい所ですが、予算の関係もあるのでしょうね。


博物館の展示  Exhibicion den Museos
最後に博物館に展示されたエク・バラムからの出土物を簡単に紹介しておきます。

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  (Figura del Inframundo, Gran Museo Maya de Merida)

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  (Esculturas de Personaje, Gran Museo Maya de Merida)

これはメリダのマヤ大博物館に展示された他のエク・バラムからの出土物です。 上の石造彫刻はウキット・カン王の霊廟近くの壁面を飾ったものと思われ、 蛇の兜を付け骸骨を腰に付けており、冥界と関連付けられるようです。 下はエク・バラム近くのトウモロコシ畑で見つかったエク・バラム王と呼ばれる石彫りです。


以下、カントン宮殿の特別展示で公開されていたエク・バラムからの遺物です。 2016年12月に始まった特別展は、 チチェン・イッツァ、エク・バラム、ヤシュナ、クルバ、イチムルからの大半が初公開の展示物で構成され、大変に興味深い展示会でした。 長く続けて貰いたいものですが。

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  (Cabeza de hombre-serpiente, Exhibición Lak'iin, Palacio Canton)

蛇の口から顔が覗く石像彫刻で、漆喰が施されていたようです。

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  (Representación de 'Kawiil,  Escultura denforma de caparazón de tortuga)

左はカウィール神を彫った石造物で、アクロポリスから。 右は亀の甲羅が彫られた石造物で「柱 1」の近くで見つかっているようです。

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  Protector de brazo para el juego de pelota, Aro del juego de pelota)

左は球戯で腕にはめる防具を現した石造物で、持ち主の名前は読めないようです。 防具は実際は革などで作られていました。 右は球戯の的になる環で、 遺跡の球戯場には残されていませんが、片側で破片になっていたものを修復したものが展示されていました。

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  (Cráneos y Cabeza humana)

アクロポリスの建物を飾った髑髏と人面の彫刻、生と死を表すようです。

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  (Incensario y Vaso de Ukit Kan Le'k Tok')

左はエク・バラムからの香炉、漆喰で下地を塗ってから彩色されたそうです。 右は漆喰彩色された壺で、右の壺にはウキット・カン王の文字が描かれています。

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  (Vaso con popote)

球戯を行うウキット・カン王が刻まれた口付壺で、分かっていれば影を避けて撮ったのですが、説明文を読んだ時は後の祭りでした。 説明パネルで右がウキット・カン王、左はイグアナの被り物を付けた出身不明の王?

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  (Olla y Cajete con asas)

エク・バラム出土の取っ手付き鍋と深鍋。 チチェン・イッツァの様式に類似し、影響を与えたと言われます。

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  (Cabeza de personaje estucada)

建物を飾っていた石造りの頭部と顔。 鮮やかに彩色され被り物を含めた容貌が偲ばれます。

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  (Cráneo y Escultura de personaje con pez)

左は頭蓋骨で目から上は漆喰が剥がれ落ちて下書きが見えるそうですが?  右は魚を抱えた人物像で、エク・バラムでは魚を含めた海の生き物が度々壁面装飾、彫刻、装身具に現れるそうです。 霊廟で王の胸に置かれた貝製ペンダントも魚で、魚はコルビーナ(イシモチ)で王の好物だったという説明もあります。 

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  (Escultura de un torso con pendiente de pez)

こちらは魚のペンダントを付けたトルソで、魚のペンダントと言うとウキット・カン王が思い出されますが?

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  (Pectoral cabeza de zopilote rey, Anillo y Pendientes de colmillos de jabalí)

左はハゲタカが描かれた貝製ペンダント、右は骨製の指輪(上)とイノシシの牙で出来たペンダント(下)です。



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サク・ショク・ナと呼ばれるウキット・カン王の霊廟が 1999年末に発見されて一躍有名になったエク・バラム遺跡。

他に例を見ない、あまりの見事な壁面装飾にひかれて 2002年と 2008年に現地に足を運びましたが、詳細については あまり理解出来ていませんでした。 今回発掘回収された文字資料を精査した資料を目にし、また博物館の展示物の助けも借りて、王朝の成立から王の名前を含めた その歴史をかなり把握出来たように思います。

遺跡の素晴らしさの割りには非常に短命の王朝だった事には驚きでしたが、コバの王朝と関係があったかもしれない事、またその後のチチェン・イッツァとの関連が 窺い知れる事等、更に興味をそそられる事ばかりです。 まだまだ遺跡に残る宝の山の発掘が進み、新たな史実が明らかになっていく事を期待したいと思います。



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