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Proyecto Arqueológico Calakmul

             カラクムル考古学プロジェクト
1993年に始まったメキシコ教育省傘下 INAH によるカラクムル・プロジェクト、その進捗状況は度々考古学誌 Arqueologia Mexicana で紹介されてきましたが、 プロジェクト開始 20年を期 に特集号 Arquelogía #128 (2014年 7-8月号) が組まれ、最新の状況が新たな仮説と共に紹介されています。

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  (#128 Jul-Aug/ '14)        (#111 Mar-Apr/ '11)        (#42 Mar-Apr/ '00)

日本では TBS の THE 世界遺産 (2016年7月3日放送分) で 現地では非公開の新たな発見が映像で紹介され、個人的には大変興味深く参考になりました。  放送された映像も参考にしながらカラクムルの最新状況と新しい解釈を以下紹介していこう思います。

 
遺跡の詳細は カラクムル遺跡 を参照下さい。(2016年9月20日)

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カラクムル王朝の歴史  Dinastias en Calakmul

カラクムルの歴代王   Los Gobernantes de Calakmul
カラクムルの発見は 1931年に遡りますが、本格的な調査が始まったのは 1982年以降で、カラクムルが古典期マヤでティカルと覇を競った カーン王朝の本拠地だったとわかったのも そんなに昔の事ではありません。

まず これまでに解明されたカラクムルの歴代王を列記してみます。 アルファベットの王名と在位年はスペイン語版 Wikipedia 、 邦訳された王名は 「古代マヤ王歴代誌」 に拠ります。

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この王名表はカラクムルで発見された石碑や歴代王を記したコデックス土器を基に、他の遺跡で刻まれたカラクムルについての情報を加味して作られた ものですが、問題が大きく言って3点あります。

ひとつは先古典期から王朝が成立していたと考えられるカラクムルですが先古典期から5世紀にかけての王が不在な点です。  これは文字資料が無いので已むを得ませんが、でも紀元前から王が存在していた事は発掘された建造物等からも明らかです。

ふたつ目は 120本位見つかっているカラクムルの石碑は大半がボロボロに風化して判読が難しく、他の遺跡の碑文が多く根拠とされている点で、 本来カラクムルの碑文で実証されると良いのですが。 でも他所でも確認されていると言う事は より確度が高いと言えるかもしれません。

みっつ目は、これが一番致命的なのですが、王名表がカーン王朝 = カラクムルという観点から作られている為、古典期後期に入り カーン王朝がカラクムルに移り住んだと思われる 636年頃より前の王については、別の場所に居たカーン王朝の王がカラクムルの王として 王名表に含められている可能性が高く、純粋にカラクムルの王名表とは言えない点です。

マヤの時代区分はいろいろな別け方がありますが、大雑把に言って次の通りです。

         先古典期中期   1000 B.C. - 300 B.C.
         先古典期後期    300 B.C. - 250 A.D.
         古典期前期     250 A.D. - 600 A.D.
         古典期後期     600 A.D. - 900 A.D.
         後古典期       900 A.D. - 1517 A.D.


カーン王朝   Dinastía Kaan
カーン王朝が古典期前期以前からカラクムルの王朝だったのなら問題は無かったのですが、厄介な事にカーン王朝の実在を示す古典期前期の遺物が キンタナ ロー州南部の シバンチェ遺跡 で見つかっており、 他方カラクムルで2本だけ発見されている古典期前期の石碑 (石碑 114、石碑 43) にはカーン王朝の紋章文字が刻まれていないそうです。

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     (Monumento 12,Templo de los Cautivos de Dzibanché)

これは 1994年にシバンチェの建造物 XIII、虜囚の神殿で発見された捕虜の階段からモニュメント 12 で、カンクン・マヤ博物館所蔵です。  モニュメント 11 には シバンチェ近隣のエル・レスバロンや ヨーコップを征服した際に捕えられた捕虜が ユクノーム・チェン I の名前と共に刻まれ、 このモニュメント 12 には 490年の日付とカーン王朝の紋章文字 (碑文の下段右) が記されているそうで、カラクムルで 500年頃の王とされる ユクノーム・チェン 1世は実はシバンチェの王で、当時のカーン王朝はシバンチェにあったと言う事になるようです。  ( 「古代マヤ王歴代誌」 では カーン王朝が捕虜を捕えた方か捕えられた方か明らかでないと書かれていますが、カンクンの博物館の説明文にはカーン王朝は捕えた側で、 636年にカーン王朝がカラクムルへ移っていったと書かれています。)

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    (Punzon Sangrador de Yukno'm Uht Chan, Templo de los Cormoranes de Dzibanché)

カーン王朝がカラクムルへ移っていった事を示す遺物がもう一つ カンクン・マヤ博物館にあります。 建造物 II、鵜の神殿の墓所から見つかった 放血儀礼用の骨製の器具には、ユクノーム・ウー・チャン (空みる者、Testigo del Cielo) と所有者の名前が記され、説明書きには 「空みる者」 王が彼の軍隊を伴って 562年にティカルを征服したと書かれています。  562年にティカルが 敗北した事はカラコルの祭壇 1 に記され、勝利者の名前として 「空みる者」 王が刻まれ、カラコルを支援したカラクムルが勝利者だった と言う説が広く支持されてきましたが、この 「空みる者」 王の副葬品がカラクムルではなくシバンチェで発見されていて、 前述のユクノーム・チェン 1世 同様 「空みる者」 王もまたシバンチェの王だったと言う事になりそうです。

ユクノーム・チェン 1世の次の トゥーン・カッブ・ヒッシュ王は ナランホの石碑 25 から 546年のナランホ王の即位を後見をした事が知られ、 王の姿と名前が刻まれた石板と王の埋葬と思われるものはカラクムルの建造物 IV-B で見つかっていますが、その次の「空みる者」王の埋葬は 前述の通りシバンチェにあり、更に次のヤシュ・ヨパート王(最後に斧をふるう者) も シバンチェで見つかった鏡の背にその名前が認められるそうです。 

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     (Bloque V de la Estructura 13R-10 de La Corona)

Arquelogía #128 には最近の発見として、カラクムルに従属していたと思われる ラ・コロナ遺跡で見つかった碑文の階段が紹介されていました。 模写は Arquelogía #128 p.40 からスキャンしましたが、ここには 636年ではなく 635年4月17日(9.10.2.4.4) にカラクムルでカーン王朝が創設されたことが 言及されているそうです。 カラクムルの最繁栄期を率いた 「大ユクノーム」 ユクノーム・チェーン 2世 (王名表で赤字で表示) の即位は 636年になり、 カーン王朝は 「ユクノーム頭」 の時代に既にシバンチェからカラクムルに移っていたのかもしれません。

ユクノーム・チェン 1世から始まって王名表の中の多くの王がシバンチェに居を構えたカーン王朝の王だったとすると、カーン王朝は元々シバンチェ にあった王朝で、カーン王朝がカラクムルに移る前のカラクムルの王については全面的に再検討が必要と言う事になりそうです。  「古代マヤ王歴代誌」 は初版の日本語訳ですが、元になる英語版の 2008年の改訂版でもカラクムル王名表はそのままです。  第3版ではどのように修正されるのでしょう?


チャタン王朝   Dinastía Chatahn
カラクムルは紀元前から繁栄を続けたマヤセンターで、カーン王朝がカラクムルに移る前から王朝が存在した筈ですが、ではその王朝とは?

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     (Estela 114, Estructura II de Calakmul, 435AD, Museo de Arquitectura Maya, Campeche)

これは上の方で触れたカラクムルの古典期前期の石碑 114 で建造物 II の基部に埋納されていたものですが、現在はカンペチェ市のマヤ建築博物館に 展示されています。 「古代マヤ王歴代誌」 では石碑 114 について 「 435年の日付とカラクムルの地名であるチーク・ナーブが記される以外、人名は 摩耗して解読不能」 としてありますが、博物館の説明文では解読が進んだのでしょうか 更に詳しく 「 441年頃に作られたものでカラクムルで発見されている 最も古い石碑であり、431年9月14日にチャン・ヨパートと言う王により建物の奉納が行われ、父がアーカル G I 、母がイシュ・マン‐バンである事、また 別途 カーク・クフ・チョク 「火の若い神」と言うカラクムル王がチーク・ナーブの王として言及され、碑文の最後に 435年の9バクトゥン (9.0.0.0.0.) の祭事に触れられている。」 と説明されます。 紋章文字にはカーン王朝のヘビはなく、コウモリの頭が描かれているようです。

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     (Estela 43, Estructura II, Calakmul)

こちらはカラクムルで発見されている古典期前期に遡るもう1本の石碑 43 で、建造物 II の下層部東側の閉じられた部屋の中から見つかり、 現在も遺跡に残されています。 かなり風化が進んでいますが、514年の日付とマム・クフル・チャタン・ウィニクと言う王の名前が読み取れる ようです。

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     (Banqueta pintada de Estructura Sub XX b-1)

Arquelogía #128 で紹介されているもう一つの手掛かり、これはプロジェクトにより発掘が進められたアクロポリスの建造物 XX の下から発見されたベンチで、 赤く彩色され黒で文字が書かれています。 (画像は Arquelogía #128 p.39)  文字は クフル・チャタン・ウィニクの ベンチと読めるようで、石碑 43 同様 マムの文字があり、オシュ・テ・トゥンとチーク・ナーブの王と名乗っているようです。

数多く発掘されているコデックス様式土器からもチャタン王の記述が認められ、石碑 43 や 建造物 XX のベンチと併せて、チャタン王朝と言うものが 存在していたと言う説が有力になるようです。

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   (Dintel de Gobernante Tuun K'ab Hix, Estructura IV-B) (Mascara funeraria, Tumba 2 de Estructura IV-B)

ユクノーム・チェーン 1世の後のトゥーン・カッブ・ヒッシュ王については上で触れたようにカラクムルの建造物 IV-B から王の姿が刻まれた石板(画像左) が発見され、石碑 114 同様カンペチェ市の建築博物館で見る事が出来ます。 博物館の説明文ではカーン王朝ではなくカラクムルの地名のオシュ・テ・トゥン が刻まれているようで、チャタン王朝だったかもしれません。 建造物 IV-B からは王墓と思われる墓も見つかり、王の葬送面と考えられる陶製の仮面 (写真右)もあり、こちらはカンペチェ市のマヤ考古学博物館の方に展示されていますが、トゥーン・カッブ・ヒッシュ王のものになるのでしょうか?


カーン王朝以前のカラクムル王朝については、石碑 114 にあるコウモリの紋章文字から 同様の紋章を持つナーチトゥンと関連付ける説や、 コデックス土器が作られたナクベとの関係を唱える説や、古くからサクベが繋がれていたエル・ミラドールに起源を求める説など 諸説ありますが、 ペテン地域北部にはチャタンを名乗る貴族の家系が古くからあった事が碑文や土器の記述に残されるようで、カラクムル旧王朝がこれら地域と密接な 関係があった事は容易に理解できます。

Arquelogía #128 では、シバンチェは東部チョラン語系で、カラクムルは西部チョラン語系であり、両者は協力関係にあって シバンチェが カーン王朝の拠点をカラクムルに移した後もチャタン王朝とカーン王朝は共存していたのではないか、という意見も紹介されています。  最新の Arquelogía #139 (2016年5-6月号)にチャタン王朝についての記事があり、ユクーム・トーク・カウィール王 (702-731) の石碑 51 (国立人類学博物館に展示)には石碑制作者の名としてチャタン王朝の貴族の名前が刻まれているそうですから、カーン王朝の中でチャタン王朝の 人達が芸術家集団として共存していたとも考えられそうです。

Arquelogía #128 の記事の冒頭には、「複雑なジグソーパズルでピースが足りずに、将来の新たな発見で仮説が証明されるか、或いは新説が生まれるか」 と書かれていますが、真相解明は更に先になりそうで、カラクムル考古学プロジェクトの更なる進展が期待されます。


プロジェクトの進展と新たな発見  Exploración y nuevos hallazgos
ここまで文章による説明が多くなりました。 以下 THE 世界遺産 からの画像もお借りして、プロジェクトの進展と 新たな発見を、 画像中心に紹介していきます。 
カラクムル遺跡の発掘  Exploración en Calakmu
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         (Zona nuclear de Calakmul y area excavada, Imagen de TBS World Heritage)

カラクムルは 30㎢ を超えるエリアに 6000 を超える建造物があり、最盛時には 5万人を超える人口を有したと言われますが、中核部分はおよそ 2㎢ で、 世界文化遺産に加えて自然遺産にも登録されている為、現在も深い森に覆われています。 画像は北側から見下ろした中核部で、これまでに発掘が 行われた部分を示します。 発掘された建物は全体の 1割に満たないと言われますが、一番高い建造物 I と II を含めて中心となる祭祀センターの 重要な建物はおよそカバーされている事になります。

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発掘が進んで遺跡の地図も以前と比べて大分正確なものになりました。 この地図は Arquelogía #128 p.30-31 を写真に撮ったもので 遺跡訪問の 際は有用です。 但し修復されて見学出来るところは、黄、紫、赤の線で示された見学コース周辺に限られ、 全体が緑の林で覆われています。 地図は上が北ですから、上の航空写真とは向きが逆になります。 (地図アイコンクリックで大きな地図が開きます。)

建造物 II   Estructura II
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 (Estructura II)

まず数々の発見があった建造物 II の外観をチョットだけ。 幅の広い北側正面には林が迫っていて斜めから正面を見渡す他ありません。(写真下)  下からは見えない上部の構造物は遠く離れたピラミッドの上から見る事になります。(写真上、建造物 XIII 上部から撮影)

建造物 II はプロジェクト初期から発掘・修復が行われて重要な発見が相次ぎましたが、上述の最も古い石碑 114, 43 も 80年代にここで見つかっています。

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 (Estructura II, foto aéreo)

これはテレビの映像から。 製作費をかけられるテレビには敵いません、ヘリコプターから眺めおろすと建造物 II の姿は一目瞭然です。

先古典期の建造物   Subestructura II c
さてここから テレビで紹介されたプロジェクトによる新たな発見です。

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  (Entrada a la subestructura)

丸印の所に地下で発見された建物への入口があります。 現地まで足を運んでも入口しか見れませんが、特別に取材許可を取って潜入、 貴重な映像です。

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                (Entrada y parte del friso)

鉄扉を開けて中に入っても その先は石を積み上げて封印されており、石を取り除いて降りていくとやっと先古典期の建物に施された漆喰装飾が見えてきます。

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          (Motivo central del friso)

漆喰装飾は建物の壁面上部を飾った 幅 20m、高さ 3.5m もある巨大な造形物で、奥の中庭に通じる入口の上部を飾ったモチーフは 雨の神チャークと 紹介されていました。

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          (Gran mascarón de estuco, Subestructura II c)

建物に通じる中央階段の両脇は 高さ 4m、幅 5m にもなる一対の巨大な仮面で飾られていて、これは左側(東側)の仮面です。 番組では擬人化された ジャガーの仮面との説明です。

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                (Dibujo de Subestructura II c)

壁面を飾った漆喰装飾と仮面はどのように配置されていたのか? 画像はテレビで紹介された当時の想像復元画で、これを見ると 一目瞭然です。  巨大仮面が小さく見える位に壁面装飾は大きい事がわかります。
建造物 II は紀元前 500年頃に最初の建物が作られましたが、復元画は二度の改築を経た3段階目の地下建造物 II c と呼ばれるもので、 紀元前 300年頃に遡るようです。


番組では漆喰装飾と仮面について解説が加えられますが、でもこれがどれだけ凄いものなのか、少し補足しておきます。  建造物 II の下に先古典期に遡る遺構がある事は 80年代から知られていたようですが、そもそも建造物 II の下に大きな空間があり 掘り下げると復元画のようなものが忽然と姿を現した訳ではありません。 新しい建造物を積み重ねる際に古い建造物は丁重に埋められ 盛り土の中に姿を消していたので、1998年から始まった建造物 II の再調査では縦穴を掘って重層的な建物の成り立ちを調査しつつ、 必要により横にトンネルを掘り進めていき、その過程で見つかったのがこの漆喰彫刻と仮面でした。 トンネルが崩れないよう天井を補強しながらの 作業ですから、全体を掘り出すには何年もかかり、2000年3-4月号の Arquelogía #42 で紹介されていたのは、部分的に姿を現した仮面の写真と、 同じく部分的な壁面装飾の模写だけでした。


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  (Friso estucado de Subestructura II c1, Arquelogía #75 )

2005年9-10月号の Arquelogía #75 で初めて漆喰装飾の全貌が明らかになっています。 写真にすると小さく見えますが、幅 20m。 掘ったトンネル内の 狭い空間で細心の注意を払って表土を取り除いてやっと回復されたもので、トンネルの中では正面からこんな写真が撮れる筈がありません。 部分写真を 撮って合成したものと思います。

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  (Mascarón del lado este, Subestructura II c1, antes y después de restauración, Arquelogía #128 )

仮面の方は 2005年には全体が掘り出されていたようですが、 Arquelogía #128 に修復前と修復後の写真が紹介されていました。 下が修復後です。  その後崩落を防ぐ為に柱が建てられたようで、テレビではこの柱が仮面の前に写っていました。

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      (Friso del lado sur, Subestructura II c1, Arquelogía #128 )

その後発掘は更に進み、Arquelogía #128 には建物の裏側の当時の彩色が残る漆喰彫刻も紹介されていました。

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           (Dibujo de Subestructura II c)

地下建造物 II c は 2009年時点で、北側の横に長い建造物 Sub II c1 の他に、南の c2 と東の c3 が確認されているそうで、全体は 7つの 建造物から構成されていたようです。  (La Estructura II de Kalakmul: 1200 años de historia constructiva)

Sub II c は全体で死者の赴く冥界を表していると考えられ、冥界への入口の c1 を仮面を左右に見乍ら階段を登り漆喰装飾の下にある戸口を潜るとその先が冥界。  中には中央広場があり、マヤ先古典期に特徴的な3神殿形式で 3つの建物が広場の周りに配置されていたようです。 ここはカラクムルの最も古く重要な場所 になりそうで、カラクムルの別名オシュ・テ・トゥン(3つの石)の由来は私見ですがここにあるような気がします。



この地下建造物 II c の発見、番組では全く強調していませんでしたが、実はマヤ全体の歴史の中で極めて重要な意味を持ちます。  先古典期の大規模マヤセンターとしてはグアテマラのナクベ、エル・ミラドールやウアシャクトゥンのグループH等が知られていましたが、カラクムルが 実はこれらのセンターに引けを取らない古くからの文明だった事が明らかになったからです。

ナクベとエル・ミラドールは文字と暦が発達した古典期前期には既に衰退しています。 古典期マヤでカラクムルと覇を競ったティカルにも 先古典期から栄えた文明がありましたが古典期前期の 378年には所謂テオティウアカンの侵入を受けて王朝が変り、 ウアシャクトゥンはそのティカルの新しい王朝に侵攻されてやはり旧王朝の継続はありません。

ではカラクムルはと言うと、先古典期中期に作られた地下建造物 II c が同じ場所で先古典期後期、そして古典期前期、更には古典期後期始めに シバンチェのカーン王朝がカラクムに入ってくるまで、引き続き増築が繰り返され、先古典期中期からの文明が延々と7世紀に入るまで継続されたとも 考えられ、これはこれまで知られているマヤのセンターの中では 唯一と言う事になり、その重要性は計り知れません。 そして紀元前 300年に遡る漆喰装飾と巨大仮面がこれだけ当時の状態を保って回復できたのも 他で例のない事で、文字の無い先古典期マヤ社会の解明に大きな手掛かりを与えてくれるものになります。 こうした事まで考え合わせると THE 世界遺産の放映の価値が格段と高いものになりますが。


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            (Desarrollo arquitectónico de Estructura II)

建造物 II の建築は およそ7段階に分けられるそうですが、これはテレビで説明されていた増改築の推移で、画像4枚をアニメGIF にまとめて見ました。 移り替わる4枚の画像はおよそ以下の如くです。

 ① 3段階目: 紀元前 300年頃、炭素年代測定では 390-405 BC と言う結果も出ているようです。
 ② 4段階目: 先古典期後期の1世紀頃にかけて既に 50m 近い大規模建造物に変貌。
 ③ 5段階目: 古典期後期の4世紀から5世紀にかけて建物の追加、6段階目に王墓の建設。
 ④ 7段階目: 8世紀始めのユクノーム・トーク・カウィールによる最後の増築。


ユクノーム・イチャーク・カーク王の墓所  Tumba 4 de Yunknoom Yich'ak K'aak'
また説明が長くなってしまいましたが、テレビで次に紹介されていたのが、1997年に発見された王墓です。
王墓は発見された後カンペチェ市のマヤ考古学博物館に移され、副葬品と共に発掘されたままの状態で展示されているので、 誰でも見る事が出来ます。

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 (Parte superior de Estructura II)

写真は向かい合う 建造物 VIII の上から撮った 建造物 II の上部で、中央が II-B と呼ばれる建物、その奥に聳えるのが一番高い建物 II-A です。  王墓は II-B の下から発見されましたが、最後の増築で II-B の前は大きな中央階段が被せられ王墓は手付かずの状態でした。

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          (Alzado y corte de Estructura II)

Arquelogía #40 (1999年11‐12月) に王墓の位置がわかる立面図、断面図がありました。 T-4 と書かれたところが発見された王墓で、 手前に古い時代の埋葬 T-3 と T-4 がありましたが既に荒らされており、T-4 の墓室を作るにあたって先祖の影響を無力化する為に 暴かれたと考えられるようです。

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  (Tumba 4 de Yunknoom Yich'ak K'aak', trasladada de Estructura II-B, Museo de Arqueología Maya)

埋葬された王は 副葬品の彩色皿に持ち主であるユクノーム・イチャーク・カック王 (686-698年) 名前が書かれていて、被葬者が特定されました。  イチャーク・カック王は大ユクノーム王 (636-686年) と共に古典期後期のカラクムルでカーン王朝の最盛期を率いた王ですが、695年にはティカルとの 戦いに敗れてしまいます。 ティカルの宮殿の石板に名前が刻まれ、ティカルで捕えられて落命したとも考えられてきましたが、王墓の発見によって 敗戦後も存命だった事が明らかになりました。

実在した王の墓が豪華な副葬品を伴い手付かずの状態で発見され、考古学上様々な貴重な情報を提供してくれる事になりました。 翡翠や貝の装飾品 を始め、亡骸を包んだ布や安置するのに使われた木材は本物です。

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  (Tumba 6 adosada a Tumba 4, Museo de Arqueología Maya)

番組では紹介されませんでしたが、王墓 T-4 の東側からは豪華な副葬品を伴った女性の埋葬 T-6 が見つかり、王妃の埋葬と考えられるようです。 王妃の頭の上方に通路の跡があり、先に王の亡骸を安置し、その後に王妃を埋葬してから蓋石で閉じられたと考えられ、王妃の傍らには若者の 遺骨もある事から、王の死に殉じたとも考えられるようです。

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 (Mascara funeraria de Tumba 4, MAM)        (Mascara funeraria、procede de Estructura XV, MAM)

王の亡骸に添えられた翡翠製の葬送面は発見当時はばらばらになっていましたが、その後復元されて博物館の同じカラクムル室に 別途展示されています(写真左)。 同じカラクムル室に翡翠の仮面がもうひとつ展示されていて(写真右)、TBS の「世界ふしぎ発見」 (8月27日放映)で王妃のものと紹介されていましたが、これは別の建造物 XV から出土したもので危うく騙されるところでした。


北のアクロポリスの壁画   Pintura Mural de Acrópolis Norte
テレビ番組 THE 世界遺産では続けてもう一つの重要な発見が紹介されていました。 北のアクロポリスで発見された 当時のマヤの生活を 活き活きと描いた壁画で、これも現地では非公開であり貴重な映像です。

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 (Estructura de protección a Sub 1-4)

プロジェクトでは 2000年からチーク・ナーブ複合と呼ばれる北のアクロポリス (上の緑色の地図参照) に着手され、2004年の壁画発見に至りました。  画像は地図に Sub 1-4 と記された建物で、厳密に言うと建造物 1 の上から数えて 4番目の地下建造物が Sub 1-4 と呼ばれ、ここで発見された壁画を 保護する為に新たに築かれたのが この建物です。

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         (Pintura mural, Andador de Grupo A, Acrópolis Norte)

北のアクロポリスでのプロジェクトで最初に発見された壁画は グループ A と呼ばれる南側の長い回廊の下部で、Arquelogía #71 (2005年1-2月) のニュースで 取り上げられています。 睡蓮や水鳥、魚、亀などの水生のモチーフにチーク・ナーブの文字が描かれたものでした。 (これは番組には出てきませんでしたが。)

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         (Escena SE-S1)

そして 建造物 sub 1-4 の壁画ですが、最初に発掘されたのがこの場面で、Arquelogía #75 (2005年9-10月) で紹介され、 王や儀礼を描いたマヤの壁画とは全く異なる写実的なもので唖然とさせられました。 でもこれは壁画全体の一部に過ぎず、ここから更に 発掘が続けられる事になります。

日本で発見された高松塚古墳の壁画と およそ同時代のものになり、葬室内部の壁画ではなく、建物の外壁に描かれたものが土砂で埋められていたもので、 その発掘は 後の修復保存を考慮しつつ時間をかけて慎重に進める事になりました。 壁画全体が掘り出されて保護の建物が出来上がったのは 発見から 10年近くの歳月が経ってからのようです。

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               (La entrada y el interiro de Sub 1-4)

では中に入ってみます。 修復や保存には最新の知識、材料、技術が用いられ、多雨のジャングルにあって内部は厳重な温湿度管理が行われている ものと思います。 二重になった鉄扉の中の壁画には手摺りも取り付けてありますが、残念乍ら壁画保善の為に一般公開は控えられています。

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 (Esquina sureste de sub 1-4)

これが最初に見つかった壁画を含む建物の南東角で、壁画がどの様な所に描かれていたのか分かりますが、全貌は下のイラストで明らかになります。

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 (Imagen repuroducida de Sub 1-4)

建造物 1 は北のアクロポリスの中央に位置し、東西南北の基軸上に設けられた矩形のピラミッドで、Sub 1-4 の時代は三層の基壇全てと 階段の側壁が壁画で飾られていました。

建造物 1 の建設は古典期前期に遡り、度重なる増築の結果、発掘では6層の地下建造物が確認され、上から Sub 1-1 から Sub 1-6 と名付けられますが、 壁画が見つかったのは Sub 1-4 で、壁画を回復する為に Sub 1-4 を掘り出す形で発掘が進められます。 Sub 1-3 以降 sub 1-2、Sub 1-1 には壁画が無く、 sub 1-4 を泥と小石で丁寧に覆ってから Sub 1-3 が重ねられたので、 Sub 1-4 の壁画は破壊を免れたようです。  Sub 1-4 の時代は 620-700年頃と考えられ、その後も増築が続きますが、最後は上部神殿が未完のまま放棄されたとされます。

以下描かれた壁画を個別に見て行きます。 画像は番組からの切り出しです。 壁画の各シーンは 南東角の南面の基壇一層目 をSE-S1 (Sureste Sur 1)  のように記号で表され、添えられた文字から何をテーマにしているのか読み解かれています。

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           (Escena SE-S2)   南東の南面二層目、タマ―レスの人。

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           (Escena SE-S1)   南東の南面一層目、アトーレの人。
                (番組では蜂蜜の発酵酒と説明されていましたが、文字はアトーレになるようです。)

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           (Escena SE-E2)   南東の東面二層目、タバコの人。

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           (Escena SE-E1)   南東の東面一層目、アトーレの人。 南東の南面から続くようです。

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  (Página 12 de Códice Madrid)

南東角に続いて北東角も紹介され、テレビは基壇の三層目まで映してくれました、三層目の壁画は状態が悪いですが。

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           (Escena NE-E1)   北東の東面一層目、塩の人。

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           (Escena NE-N2)   北東の北面二層目、トウモロコシの人。

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           (Escena NE-N1)   北東の北面一層目。


番組では南東角と北東角だけ紹介されていましたが、保存状態は劣るものの残りの南西と北西の角にも同様に壁画が描かれおり、 ウェブでカラクムルの壁画を検索すると資料や写真が沢山出てきますが、参考まで一部ご紹介しておきます。   ( UNA APROXIMACIÓN A LOS ESTILOS PICTÓRICOS ・・・

壁画は地下建造物の3層にわたって認められ Sub 1-4 が最後ですが薄皮を剥ぐと古い層の壁画が出てきてしまい、3層目が失われて前の時代の壁画が 出ている所もあるようです。

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                 (Escena SO-O1 y S-O2)   南西の西面。

         ここは表面が剥がれて1層目の壁画が露出しているそうですが、Sub 1-6 のものでしょうか。

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          (Escena SO-S1)   南西の南面一層目。


壁画の発掘修復は現在も続き、描かれた場面の解釈と添えられた文字の解読もまだ研究途上のようですが、近い将来包括的な研究成果が 発表されるのでしょうか、なかなか難しい作業だと思いますが。


Arquelogía #110 (2011年7‐8月) では 692年にあたる 13 カトゥンを祝う準備の一環として イチャーク・カーク王が北のアクロポリスの 建造物 1 の改装を行った可能性を指摘していますが、その場合 Sub 1-4 の壁画がこの改築に併せて描き直されたものになりそうです。  壁画の調査では塗料の変色が少い事から露出されていた期間が短かかったとの見方もあり、王が 698年には亡くなり、702年に即位した次の王が 新たな建物を重ねたとすると、短命に終わった壁画の説明もつきそうです。

692年は大ユクノーム王からイチャーク・カーク王を頂点とする、カラクムルのカーン王朝 最盛期にあたり、カラクムルで執り行われる重要な祭事には カラクムルに忠誠を誓う同盟国の王達が大勢集まった可能性もあり、その王達も壁画を目にしていたと思うとまた感慨も一入です。




このページではカラクムル考古学プロジェクトの進展という切り口で、カラクムルをの繁栄を担った古王朝からカーン王朝について、そして 古王朝からカーン王朝に引き継がれた建造物 II の変遷、そこに設けられたカーン王朝のイチャーク・カーク王の埋葬、最後に イチャーク・カーク王が残したと思われる他に例を見ない当時の生活が垣間見れる装飾壁画と、テーマが多岐にわたりました。  わかり易く書いたつもりですが、何分状況が込み入っている為 読みづらいかもしれません。 ご容赦の程を。 カラクムルをより深く理解する 一助になればと思います。


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