マヤ遺跡探訪
SAN ANDRÉS
火山で埋もれた ホヤ・デ・セレン も貢納していたと思われる、 地域の中心的なマヤセンターだったサン・アンドレス遺跡。 ホヤ・デ・セレンから直線で 5Km の距離にあり ロマ・カルデラの火山灰は サン・アンドレスにも降り注ぎますが、サン・アンドレスへは噴火の後も人々が戻って再興が図られ、主として古典期後期の遺構が残ります。

併設の博物館を含めて綺麗に整備されていますが、発掘・公開されているのは南側にあるアクロポリスで、北側は未修復で公開されて いません。
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     (訪問日 2010年11月17日)
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 (Ubicación de San Andres, Joya de Cerén y Laguna Caldera en GOOGLE EARTH)

GOOGLE EARTH で位置関係を確認してみました。 ホヤ・デ・セレンもサン・アンドレスも東側にリオ・スシオ(スシオ川)が 流れ、かなり蛇行した緑色の川筋が地図で確認出来ます。 当時は船で簡単に移動できたでしょうか。 ホヤ・デ・セレン の直ぐ北に噴火口が湖になった LAGUNA CALDERA(カルデラ湖)があり、ホヤ・デ・セレンはここから至近距離で 被災後の復旧は行われなかったようです。

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 (Mapa de area oeste de El Salvador con sitios arqueológicos y volcanes)

エルサルバドルは何処へ行っても火山だらけ。 写真は博物館の展示を撮ったものでエルサルバドルの西半分にあたり、今回 訪問した4つの遺跡は黒で加筆しました。 この辺りがマヤ圏の南東端です。

現在は火山湖になっているイロパンゴ火山 (写真右隅) は過去1万年で世界最大規模と言われる大噴火を起します。 (時期は 260年頃とか420年頃と 諸説あり)  サン・アンドレスを含むザポティタン地区はこの為放棄されますが、その後被害の少なかった サン・アンドレスには人々が戻り、 640年頃のロマ・カルデラ火山噴火による一時中断はありますが、古典期後期を通じて繁栄期 を迎える事になります。

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 (Entrada al sitio arqueológico de San Andrés)

前置きが長くなりました。 ホヤ・デ・セレンを車で出ると 10分位でサン・アンドレスに着いてしまいます。 写真は サン・アンドレスの標識と遺跡の入口です。

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 (Maqueta de San Andrés)

これは併設博物館にあるサン・アンドレス遺跡の復元模型で、右半分が修復整備され訪問可能地域になります。  (左半分は未修復! 左方向が北です。)

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                     (Foto aerea por GOOGLE EARTH)

空から見るとこれ、GOOGLE EATRTH です。 画像をクリックすると大きな画像が開きます。

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遺跡にある案内図、右は訪問可能地域を切り出しました。 それでは遺跡へ。

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 (Hacia las ruinas)

併設博物館 (地図でMのマーク) から遺跡に向うと写真の石組みと芝で覆われたピラミッドが見えてきます。

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 (Estructura 7)

この石組みは建造物 7 で、マヤの遺跡ではありふれた低層の石組みなんですが…。 後でわかったのですが、サン・アンドレスで 石組みの建造物はこれだけ、他の建造物は全てアドベ(日干しレンガ)で出来ています。 そしてこの建造物 7 からは建造の際に 置かれたと思われる興味深い奉納物がいろいろ見つかっています (写真下)。

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 (Ofrendas encontradas en Estructura 7)

左からエクセントリック石器とスポンディルス貝、サン・アンドレス製と思われる藍の着色が残る小像、彩色土器。  石器はベリーズから、彩色土器はペテン地域あたりからの交易品と考えられています。

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 (Espina de manta raya usada para el auto-sacrificio)

そして面白いのはこれ、エイの棘です。 エイの棘はマヤの放血儀礼に用いられ、女性の舌や男性器に刺して、流れた血は スポンディルス貝で集められました。 発掘された実物を見たのは初めてでした。

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 (Lado norte de Estructura 7)

これは建造物 7 の北側。 正面に窪みがあり球戯場跡のようにも見えますが、地図には球戯場の記載は特にありません。   建造物 7 は石組みといい奉納物といい サン・アンドレスではそれなりの重要性を持った建物だったのでしょうか。

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 (Hacia Acropolis)

建造物 7 の先にアクロポリスが見えてきます。 左がアクロポリスの中心となる建造物 1、中央が建造物 2で、その右の 小山が建造物 3 と 4 になります。 羊が草を食むのどかな風景で、羊はもっと沢山居たのですが、近づくと散り散りに なってしまいました。

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 (Lado este de Estructura 1)

建造物 1 は北向きに建てられ、これは東側面になります。 写真でわかるように建造物は有刺鉄線で囲まれ建造物に登る事は おろか、近づく事も出来ません。 ちょっと興醒め。

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 (Lado sureste de Estructura 2)

これは西向きに建てられた建造物 2 後ろ側の南東角。 石組みではありません。

20世紀初頭に確認されたサン・アンドレス遺跡は 1940年になって初めて発掘修復が始まり、 日干し煉瓦で出来た建造物の修復にはセメントを使わざるを得なかったようです。 アメリカ人考古学者スタンレー・ボックス はセメント使用で功罪半ばの評価ですが、当時の技術では崩壊防止の為に止むを得なかったでしょうか。

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 (Adobes y Lajas en el museo)

併設の博物館には建築に使われていたアドベ(日干し煉瓦)が展示されていました。 アクロポリスの建造物はアドベを 積み上げ、アドベの接着と表面の仕上げには砂混じりの火山灰が使われたようです。 左側の薄い石板は階段のステップに 使用されたものだそうです。

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 (Estructura 1, vista desde Estructura 3)

これは建造物 3 の後方から建造物 1 を撮ったもの。  建造物 3 は部分的に修復され、前面は調査で掘り出された階段が そのまま覆いをつけて保存されています。

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 (Escalinata excavada en frente de Estructura 3)

覆いの下を覗いて見ました。 建造物 3 は建設当時はこの深さまであり、その後 広場が大量のアドベを用いて 高くされた為に、下部が埋もれてしまったようです。

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 (Estructura 1)

覆いの所から見たアクロポリスの中心となる建造物 1。 アクロポリス全体は3度 増改築が繰り返された そうで、建造物 1 は中央階段が崩れてなくなっており、現在目にするのはどの部分がどの時代なのか? 高さは 22m あるそうですが、登れないしその実感がありません。

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 (Parte frontal de Estructura 1)

建造物 1 の正面。 崩れた中央階段の下が暗く穴のようになっており 中に階段が見えます。 初期の建造物の階段でしょうか?  ここも柵がしてあり近寄れませんが、遺跡保護の為には仕方ありません。

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 (Plaza Central de Acropolis, vista hacia norte)

建造物 1 から北の方を見ると芝で整備された広場が広がり、北西角(写真左側)だけ発掘修復されています。  2枚の写真の合成です。

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 (Esquina noroeste de Plaza Central, Residensia de los Elite)

発掘修復された北西角には居室跡が認められ、貴族の住居だったと考えられています。

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 (Estructura 4 sin excavar, Estructuras 3, 2 y 1)

北西角からアクロポリスの南東の建造物群。 左隅の芝で覆われた建造物 4 は未発掘です。

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 (Gran Plaza y Estructura 5)

広場の北端から北方向に グラン・プラサ (黄緑色に見える部分) が広がりますが、草ぼうぼうで、未修復。  中央右の禿山のように見える建造物 5 も発掘調査は着手されていますが、修復は行われていません。 アクロポリスも 建造物 5 も鉄条網の先で見学不可の地域になります。

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 (Obraje colonial de añil)

遺跡見学は以上で終わり、博物館の方に戻ります。 途中に「コロニアル時代の採取場」の看板があります。 何の採取場 かというと、植物から採る染料の藍で、採取場は屋根の下。

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 (Obraje colonial de añil)

藍はマヤの時代からこの地方の特産で、スペイン人が藍の採取を大規模に行うべく作ったのがこの採取場でしたが、1658年の プラヨン火山の噴火で埋もれてしまい、近年 併設博物館建築の為の調査で発見されたとの事でした。

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       (Planta de jiquilite)

因みにこれが藍の原料となる植物、スペイン語で jiquilite で、辞書を引いたら インドアイとありました。


その後竣工された博物館には既に上で見たように、なかなか興味深い展示物がありますが、以下その他の展示物です、 勿論一部ですが。

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 (Silbatos en el museo del sitio)

土製の呼子は素朴ですが生き生きとした表情が何とも言えません。 真ん中の顎に手を当てた子供?はとても ユーモラスです。 

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 (Cerámicas policromadas)

彩色土器も沢山あり、殆どが古典期後期のもので、交易品も多く含まれるようです。 最後の人面像はなかなか写実的です。

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 (Sección de San Andrés en el Museo Nacional de Antropología en San Salvador)

首都サンサルバドルの国立考古学博物館にはサン・アンドレス コーナーが設けられ、これはその展示から。 比較的光沢の少ない 彩色土器ですが、これはサン・アンドレス式なんでしょうか? 


サン・アンドレス遺跡は以上ですが、マヤの西端のコマルカルコ遺跡では石材の代わりに焼成煉瓦が使われているのに対し、南東端 のサン・アンドレスでは日干し煉瓦が使われているのは興味深い事実です。 日干し煉瓦では発掘も修復保存も難しそうです。

何度も火山の被害をくぐり抜けてきたサン・アンドレスも 所謂 『古典期後期末のマヤ崩壊』 では例外でなく、 その姿を消していきます。 900年頃のボケロン火山の影響はあったのでしょうか?


次は西へ、グアテマラ国境近くの カサ・ブランカ遺跡 に行って見ます。



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