マヤ遺跡探訪
ZACULEU
サクレウは ウタトゥラン、ミスコ・ビエホ、イシムチェと並んでグアテマラ後古典期 (紀元1000年頃からスペイン人による征服まで) の代表的なマヤ遺跡です。  1940年代に行われた粗雑な修復作業が知られ、しかも首都のグアテマラシティーから 270Km という遠隔地にあり、これまで未訪問でしたが、 今回先古典期 (紀元 250年以前) の古いマヤ遺跡 タカリク・アバフ と併せて1泊の旅程を組みました。

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サクレウはウエウエテナンゴの郊外で、標高 1900m の谷間に囲まれた台地上という天然の要害にあり、ウタトゥラン等の他の遺跡と異なり 古典期前期 (紀元 250-600年) から街が築かれ、後古典期にはマム族の中心都市として栄えたようです。

グアテマラ高地には 1524年にペドロ・デ・アルバラードに率いられたスペイン人がトラスカラ人を始めとしたアステカの兵隊を伴って侵攻し、 カクチケル族を味方につけてウタトゥランのキチェ族を攻略、ミスコ・ビエホも陥落する中、サクレウではマム族が激戦の末に籠城して悲惨な最期を 迎える事になります。

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     (訪問日 2018年3月10日)
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ケツァルテナンゴからサクレウへ   De Quetzualtenango a Zaculeu
前日にタカリク・アバフを見てから北上してケツァルテナンゴで一泊しました。

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  (Catedral de Quetzaltenango, en la noche y la mañana)

タカリク・アバフでゆっくりしてケツァルテナンゴに入ったのはもう日が暮れてからでした。写真は中央公園に面したケツァルテナンゴ大聖堂で、 さすがグアテマラ第二の都市だけあり 16世紀に建てられた立派なカテドラルが夕闇の中にその威容を見せてくれますが夜景だけ。 ホテルは 大聖堂の裏側で朝方ドームを裏側から撮って、直ぐにサクレウへ向けて出発しました。

街の中心はコロニアル風ですが、マヤの人口が半分を占めるようで、グアテマラの英雄、キチェー族のテクン・ウマンが 1524年にアルバラード軍と戦って 戦死を遂げたのがこのケツァルテナンゴだったそうです。

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  (Las Nueve Sillas en San Francisco El Alto)

途中にガイドのホセ君がマヤの聖地、マヤの人々の礼拝の場所である ラス・ヌエベ・シーリャスに寄ってくれました。 谷あいの小道を サマラ川に下っていく途中に9ヵ所の礼拝場所が設けられていて、土曜日だったせいか何組もの人たちが香を焚いて祈りをささげていたようです。 風光明媚な場所で、マヤの人達の昔からのパワースポット?

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  (Desviación a Zaculeu)

更に北上し、ウエウエテナンゴの中心部に入る手前を左折、ラス・ヌエベ・シーリャスで 20分ほど道草を食いましたが、 2時間半位でサクレウに到着しました。 サクレウ遺跡、遠いです。


サクレウ遺跡   Zaculeu

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  (Area de entrada de Zaculeu)

駐車場に車を停めると遺跡の入り口は直ぐ傍で、歩いて数分で遺跡です。

サクレウへは 1840年にアメリカ人探検家ジョン・ロイド・スティーヴンズとイギリス人の探検家、建築家のフレデリック・キャザーウッドが立ち寄っていますが、 スティーヴンズは書物で遺跡の紹介を行うも、キャザーウッドは得意のスケッチを残しておらず、 遺跡が荒廃していてあまり魅力が感じられなかったのかもしれません。 その後遺跡は 1940年代のユナイテッド・フルーツ・カンパニーによる 悪名高い復元作業を経て、現在は綺麗に整備された遺跡公園になっています。

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  (Resto de Estructura 37 y Oficina del sitio)

写真左は入り口事務所の向かいにある建物跡で、中心の広場から外れますが建造物 37 の小さな神殿跡になるようです。 写真右の右手前が遺跡の入り口事務所で、左奥には遺跡併設の博物館が見えます。

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  (Museo del Sitio y los letreros preparados)

左は遺跡併設博物館、右は博物館前の広場の向かいにある説明パネルで、ここで遺跡の基本的情報が得られます。 サクレウはマム語で 白い大地 (Zac=Blanca, Uleu=Tierra) を意味するそうです。

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  (Museo del sitio de Zaculeu)

遺跡併設の博物館は 2016年に改装されたそうで、小規模ながら展示も説明もしっかりした立派な博物館で、 写真上が博物館に入って正面、下が右奥に伸びる展示室です。

サクレウは後古典期の遺跡だと思っていましたが、建造物 1 の地下から発見された古典期前期の墓室の説明やその副葬品の展示を始め、 古典期に遡る遺物が沢山あり、後古典期の遺跡と言うイメージが少し変わりました。 でもサクレウでは碑文を刻んだ石造物は無く、 強力な王権を背景にした古典期マヤの中心的センターではなかったようで、古典期に建てられた建物はその後新しい建物が繰り返し積み重ねられて今日に至っており、 遺跡で目にする建物群は後古典期の姿が復元されていると考えて良さそうです。

サクレウの古典期を担ってきたのが後古典期と同じマム族だったのか興味ある所です。 グアテマラ南部で後古典期に勢力を拡大したキチェの人々は 13世紀頃にメキシコ湾岸地域から侵入してきた民族と考えられるようですが、マム族はマヤ語の系統がキチェとはやや異なり、 キチェ以前から地域に土着していた民族だったのかもしれませんが、古典期末のマヤ崩壊を生き延びてきたのかどうか、この辺りは十分解明されていないようです。


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  (Museo y los retreros)

博物館と説明パネルの間の先には遺跡の中心部が見えてきます。 ここから遺跡に向かいますが、 説明パネルにあった地図が参考になります。

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説明パネルの地図は多少不正確で、博物館内の地図との食い違いも見られたので、少し手を加えてあります。 数字は建造物の番号で、 全面的に復元されたものを赤、一部修復されているものをオレンジにして、それ以外の土塁のまま残される建造物は元の色の通りに残してあります。


広場場 1  Plaza 1

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  (Plalza 1, vista desde sur)

さてここからが遺跡、広場 1 から見ていきます。 写真は南側から見たところで、右が建造物 1 、中央奥が建造物 6 、左の上部が芝で覆われているのが 建造物 9 で、広場の中央に小さな矩形の基壇の建造物 12 と 11 があります。

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  (Estructura 1)

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  (Estructura 6)

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  (Estructura 13)

上から建造物 1、建造物 6 、そして広場の南西側を閉じる建造物 13 です。


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       (Estructura 1 en la maqueta de Museo Nacional)

建造物 1 は前面の写真がなかったので首都の国立博物館の模型から形を見てみます。 上部神殿には屋根がありますが、 実際 1940年代の修復では屋根まで復元されています。 しかしその後 1976年の地震で屋根は崩れ落ちてしまい、現在は柱と壁だけ残されます。

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  (Parte superior de Estructura 1)

中央階段は左右に二列に別れ 基壇を五段登ると少し踊り場のようになっていて、祭祀の折に香を焚いたのでしょうか、写真のような円形の構造物があり、 ここから更に上に向かって二列の階段が続きます。

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  (Templo superior de Estructura 1)

上部神殿にあがりました。 屋根は失われていますが入り口にはトルテカ様式に似た角柱があり、後方にベンチか玉座のようなものが 残されます。

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  (Plaza 1)

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  (Estructuras 13)

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  (Estructura 9 al fondo y Estructuras 12 y 11 en frente)

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  (Estructura 6)

建造物 1 の上から見まわしてみます。 一番上から正面に広がる広場 1、次に南西側の建造物 13、そして北西側の建造物 6 の土塁と建造物 12, 11、 最後に北側の建造物 6 です。


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  (Escalones restaurados con estuco, Estructura 6)

建造物 1 を降りて建造物 6 に向かいます。 建物全体は上の写真の通りですが、写真は建造物 6 の中央階段基部で、 悪名高い復元作業と書きましたが、十分な科学的調査を行わずに普通は控えられる全面を漆喰で塗り固めてしまうと言う 建物の復元を優先させた修復の跡がここにも見られます。

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  (Templo superior de Estructura 6)

建造物 6 は四層の基壇の上に神殿が作られた神殿ピラミッドで、写真は神殿部に登って北西方向と南東方向です。 神殿上部は失われていますが、 入り口の一対の角柱と後方の一対の角柱で大きな空間が確保されていたようです。

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  (Plaza 1 vista desde Estructura 6)

建造物 6 の上から見た広場 1 のパノラマ合成画像です。 この日は雲ひとつない快晴で 遺跡を囲む森が見えますが、サクレウは台地上に築かれているので 森の先は谷間です。

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  (Estructura 1)

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  (Columnas cuadradas y Plaza 1 en frente)

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  (Montículos de Estructuras 9, 7, 8)

建造物 6 の上部から広場を見渡してみて、上は北側から見た建造物 1 の北西正面から北東側面、そして角柱の向こうに広がる広場 1 、 更に西側に広がる建造物 9, 7, 8 の遺構です。

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       (Maqueta que representa Estructuras 6 a 9)

建造物 9, 7, 8 の遺構は博物館の復元模型では写真のように再現されています。 建造物 8 は北西側に入り口があり、 建造物 7 と共に低層の宮殿風の建物だったようです。

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  (Estructura 11 y su parte superior)

広場 1 の中央には低層の小型の基壇がふたつあり、北東側の建造物 11 の上には鉄製の扉がありますが、 扉の下の穴から建造物 1 に向かって下っていく通路があり、通路の先には古典期前期に設けられた墓室があります。 墓室へは行けませんが、その説明と遺骨を含めた副葬品の数々は遺跡の博物館で見る事が出来ます。


広場 4、5、6、7   Plaza 4, 5, 6, 7

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  (Maqueta de Zaculeu en Museo Nacional)

広場 1 の他に遺跡全体では広場 8 まであり、首都の国立博物館の復元模型では遺跡全体を再現してありますが、 広場 3 から広場 8 の建造物は殆ど修復の手が及んでいません。 各広場にはそれぞれサクレウの貴族たちが居を構えていたと考えられ、 広場 4 から反時計回りに残された遺構を見てみます。 (模型の左隅が広場 1 で、その右手前が広場 4 になります。)

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  (Edificio 14)

広場 4 は北西から南東に細く伸びる広場で南東側は写真の建造物 14 で閉じられます。

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  (Plaza 4)

これは北西側から南東側に見た広場 4 で、中央奥が建造物 14 で左側に横長の建造物 10 があり、共に低層の宮殿風の建物だったようですが、 未修復で基部を残すのみです。

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  (Plaza 4)

建造物 10 の北西端から南西側に見える広場 4 で、その先に広場 5 と 6 が見えてきますが、この辺りは殆ど全て土塁のままです。

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  (El exterior de Plazas 5 y 6)

これは近づいて広場 5 と 6 の外側を見た所で、崩れた石組みが一部露出していました。

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  (Mampostería expuesta de Estructura 30 de Plaza 5)

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  (Mampostería expuesta de Estructura 29 de Plaza 6)

これが崩れていた石組みで、上が広場 5 の建造物 30、下が広場 6 の建造物 29 で復元模型を見ると共に建物の裏側になります。

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  (Plaza 5 y 6)

建物 30 の上から見た広場 5 と 6 の写真を合成しました。 広場 5 中央の小建造物 25 は修復されていますが、それ以外は全て未修復。

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  (Lado trasero de Edifiio 25)

広場 5 の建造物 25 の背面には石組みだけではなく、その上に塗られた漆喰が残っている部分もあります。

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  (Plaza 5)

広場 5 の内側、左側が背面に漆喰が残る建造物 25 で、中央の建造物 21 は祭祀を執り行う小さな矩形の基壇だったようです。

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  (Plaza 6)

これは広場 5 の北西に繋がる広場 6 で広場 5 より少し低くなっていて、三方を低層の建造物 29 に囲まれていましたが、 現状は少し盛り上がった土塁でその痕跡を確認出来る程度です。

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  (Plaza 7 y Estructura 21 en el centro)

そしてこれが一番西に位置する広場 7 で、地図には明示されていませんが、中央に部分的に修復された矩形の基壇がありました。

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  (Estructuras 2, 31, 32 y Plaza 7)

これは広場 5 から南西方向をパノラマ画像にまとめたもので、右に広場 7 そして中央に建造物 31 と32 の土塁が微かに見え、 左には広場 8 の北西側を閉じるピラミッド神殿の建造物 2 の背面が見えます。


広場 8、3    Plaza 8, 3

未修復の広場の他に、修復されている球戯場と独特の形をした建造物 4 が見どころになりますが、広場を先に済ませます。

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  (Lado trasero de Estructura 2)

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  (Lado frontal de Estructura 2)

上のパノラマ画像の左に映っていた建造物 2 は広場 1 の建造物 1 に次いで大きな建物で、上は北西側にあたる背面、下は南東側で広場に面した正面です。 未修復ながら部分的に基壇や階段が露出していて、復元模型では六層の基壇を持つ神殿ピラミッドで再現されています。

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  (Detalle de parte frontal de Estructura 2)

建造物 2 は建造物 1 同様古典期前期から後古典期まで建物が積み重ねられています。 1525年にスペイン人に制圧された後に街は放棄されますが、 漆喰を塗り固めて復元された建造物 1 と異なり、征服後 500年を経て今日に姿を残す建造物 2 はまた別の趣きがあり、 考古学的にも発掘調査の余地がありそうです。

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  (Estructura 3)

これは建造物 2 と向かい合った建造物 3 で、球戯場を構成する建造物 23、北西の建造物 2 と共に広場 8 の三方を囲みます。 広場 3-7 は宮殿風の建物で囲まれますが、広場 8 は大きなピラミッド神殿の建造物 2 があり球戯場にも隣接していて祭祀目的の広場だったでしょうか。

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  (Plaza 3, vista desde Edstructura 3)

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  (Juego de Pelota, vista desde Estructura 3)

建造物 3 から南の方に広場 3 が見え(写真上)、地図では建造物 33, 42, 43 の番号が振られていますが、修復の手は及んでいません。 北の方に目を転じると球戯場が見えますが、これは次に。


球技場    Juego de Pelota

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  (Estructura 23 de Juego de Pelota, vista desde noroeste)

広場 4 と広場 8 の間に長さ 48m の大きな球戯場があります。 これは北西側から見た建造物 23 で向かい合った建造物 22 と共にサクレウの球戯場を形成します。

マヤ地域全般では古典期の終了と共に球戯の習慣が無くなり球戯場は作られなくなりますが、メキシコ中央高原の影響を受けたのかグアテマラ南部高地では 例外的に球戯場の習慣が続き、ウトトゥラン、ミスコ・ビエホ、イシムチェと共にこのサクレウにも大きな球戯場が残されます。

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  (Estructuras 22 y 23 que forman el Juego de Pelota)

サクレウの街づくりは東西南北の基軸からずれて 北東方向から南西方向に建物が並び、球戯場は北西から南東方向に設けられており、北東の建造物 22 と 南西の建造物 23 が向かい合い、北西と南西の端は壁で閉じられ、所謂 " I " 字型の球戯場になっています。 一般的には太陽の登る東側と 沈んでいく西側に建物がふたつ並ぶのですが、ここでは? 写真は北西側から見た球戯場で、2枚の写真を繋いであります。

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  (El Juego de Pelota entero vista desde Estructura 17)

南東側にまわり建造物 17 の上から全体像を撮りました。 南東を閉じる低い壁には球戯場に入場する階段があります。

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  (Estructuras 23 y 22)

球戯場を形作るふたつの建造物を少し大きくしましたが、それぞれ上部神殿の基部が見えます。 高位の貴族がここに上がって球戯を観戦したのでしょうか?


広場 2    Plaza 2

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  (Estructura 17)

さて最後に残すのは代表的な建造物 4 のある広場 2 です。 右側の修復されている建物が建造物 17、その左のふたつの土塁が建造物 15 と 16 で、建造物 17 の上に建造物 4 が頭を覗かせます。

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  (Estructuras 4 y 4 sur)

建造物 4 はピラミッド基壇上に宮殿が設けられ両翼にも低層の宮殿が広がる独特な造りの建造物で、このパノラマ画像では左に建造物 4 があり、 右に建造物 4 南 が伸びています。

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  (Plaza 2 y Edificio 4)

広場 2 はサクレウ遺跡の南東部を占め、南西方向から建造物 4 を見ると低層の建造物 16 の向こうに建造物 1 が見えてきます。

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  (Lado suroeste de Estructura 4)

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  (Lado frontal noroeste de Estructura 4)

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 (Esquina norte de Estructura 4 vista desde Estructura 1)

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 (Lado noreste de Estructura 4)

独特な形状を持つ建造物 4 を異なる角度から見てみます。 上から右側面、正面、建造物 1 から眺め下した正面左寄り、そして左側面です。 正面と左右両側面に急勾配の階段を持つピラミッド基壇上に 開口部を2本の円柱で支えられた神殿が築かれ、神殿奥には円形の部屋が設えられ、 他のサクレウの建造物とは明らかに異なる様式で、キチェの貴族のニハイブの建築様式とも言われます。

後古典期後期にグアテマラ南部で勢力を拡大していたキチェ族はカクチケル族と共にマム族を攻略してサクレウを征服します。 これは 1450年頃と思われますが、1470年にはキチェとカクチケルは袂を分かち、キチェは弱体化の道を辿ったようですが、こうしたキチェによる サクレウの征服により、建造物 4 にキチェの様式が残されたのかもしれません。

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  (Estructura 4 entero vista desde Estructura 1)

北翼と南翼を含めた建造物 4 の全体は建造物 1 の上から俯瞰できます。 両翼とも丸い柱で入り口を支えた宮殿様式建築でした。



サクレウの最後   Caída de sitio de Zaculeu
キチェ族の支配を受けたサクレウですが、 1470年以降キチェ族とカクチケル族との同盟が崩れるとキチェ族のサクレウに対する支配は薄まり、 今度は進出してきたアステカ帝国への貢納を余儀なくされる事もあったようです。 しかしこうした混乱の中、 アステカ帝国自体が 1521年にエルナン・コルテスのスペイン軍によりテノチティトゥランを攻略され、 コルテスは 1523年にペドロ・デ・アルバラードをグアテマラ方面に派遣します。

アルバラードはキチェと離反したカクチケルの勢力を味方につけてキチェ族の本拠ウタトゥランを 1524年3月に陥落させ、 その後カクチケル族のスペイン軍に対する離反もありサクレウは難を免れていましたが、1525年には従弟のゴンサロ・デ・アルバラードを マム族制圧に派遣しサクレウでのスペイン軍とマヤの戦いが始まります。

120人のスペイン兵士に 2000人のキチェやトラスカラの兵士を加えたスペイン軍に対してマム族の王カイビル・バラムは 5000名の兵士で応戦。 チナバフルと呼ばれる現在のウエウエテナンゴ辺りで大激戦になりますが、騎兵や火縄銃など装備の勝るスペイン軍を前にマム軍はサクレウに籠っての 籠城戦を強いられます。 4ヵ月半にもわたり抵抗を続けますが最後は食料が尽きてカイビル・バラムは降伏を決断します。 1525年の 10月でした。 サクレウに入ったスペイン軍は 1800もの死体を目にし、残ったマム兵士は死肉を食べて抵抗を続けていたそうです、 多少レトリックがあるかもしれませんが。


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  (Letrero de "Kaibil" en la entrada de RBM en Manantial)

勇敢に戦ったカイビル・バラムの名は永く人々の記憶に留められ、1975年にグアテマラ陸軍で創設されたコマンド養成校には カイビルの名前が冠せられます。 8週間の養成課程には食料無しのジャングルでのサバイバル訓練を含む各種の特殊作戦の訓練があり、気温38度の熱帯の湿地で蛇や蟻を食べて夜露で渇きを潤す 過酷な試練には脱落者も多く、修了者は畏敬の念をもって迎えられるそうです。

1996年のグアテマラ内戦終了後にカイビルの部隊は縮小されますが、現在では麻薬組織撲滅や組織犯罪取締りの任にあたり、ホルムル遺跡に向かう途中の RBM(マヤ生態圏保護区)入り口には カイビルの看板がありました。

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サクレウ遺跡のページはマム族の最後からカイビルの話に少し脱線しました。 綺麗に整備された遺跡公園は密林の中の古典期マヤ遺跡と比べると やや面白味に欠けますが、後古典期のマヤ文明が終焉を迎えた場所を自分の目で確認し 過去に思いを寄せるとまた感慨深いものがありました。



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