マヤ遺跡探訪
AKE
アケ は州都メリダ東 35Km にあるマヤ遺跡で、古典期以前から後古典期にかけての居住が確認され、柱が林立する列柱の建造物 が有名です。 イサマルとの間に古典期にサクベが築かれ、植民地時代にはエネケン繊維工場が設けられました。

2002年 9月のハリケーン・イシドロの被害は甚大で、繊維工場は壊滅的な被害を受け、未発掘の土塁も多くの木々が 根こそぎ倒された為、2003年の初回訪問時は遺跡の修復ではなく、土塁の保全作業が行われていました。

今回イサマルからメリダに向かう途中アケの標識を見つけ、まだ夕暮れには少し時間があったので寄ってみました。 11年振りとなる再訪でしたが、少しづつ修復が進んでいる様子を確認できました。
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   (訪問日 2003年1月7日、2014年1月11日)
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 (Plantación de Henequen cerca de Aké)

高速を降りてアケに向かうと、道の両側にエネケン畑が見えてきます。 エネケン工場が有名なアケはもうすぐです。

Iglesia y Edificios 14 / 15  教会と 建造物 14、15
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 (Plaza deportiva en el centro del pueblo con Edificio 15 y Iglesia atrás)

程なくアケの集落に到着、村の中心に多目的広場があり、広場の向こうにピラミッドと教会が見えてきます。

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 (Lado poniente de Edificio 15)

ピラミッドは建造物 15 で、これは広場に面した西面になり、雑草に覆われた石組みが残されます。 手前の赤みがかった 部分は後から作られた塀のようですが、材料は遺跡から?

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 (Iglesia de Aké en 2003 y 2014)

建造物 15 の南側に教会の入口があり、奥の高台の上に教会が聳えます。 2003年に来た時は改装中でしたが(写真左)、 今回は改装なったアケの教会が目の前に。 イサマルと同じ黄色に塗られていました。

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 (Iglesia construida sobre Edificio 14)

教会が建てられている高台も実は遺跡で、建造物 14 の複合建築の南側に教会が建てられ、北側には写真の通り石組みが 顔を覗かせています。

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        (Lado oriente de Edificio 14, foto en 2003)

階段を登り教会の前から後ろを見返すと建造物 15 の東面が確認できます。 現在は緑が更に鬱蒼と茂っており、写真は 2003年に撮ったものです。 ここは私有地になり、現在もまだ修復の手が及んでいません。

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        (Parte posterior de Edificio de las Pilastras, Vista desde Iglesia, foto en 2003)

教会の高台から南を見ると、眼下に 19世紀に造られた荘園の建物が広がり、その向こうに列柱の建造物の柱が立ち並びます。  でもここはまだ入場料を払う遺跡エリアの外で、広場に戻って南へ向かいます。

Zona arqueológica de Aké  アケ遺跡
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空からの画像に建造物番号と訪問経路を書き加えました。 建造物 15 から右手に広場を見ながら南へ進み、建造物 3 の手前で 車を停めます。 14 と記した所が黄色く塗られた教会でした。

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 (Area de entrada a la zona arqueológica de Aké)

建造物 3 の前にアケ遺跡の説明書きが建てられ、説明書きの右には鉄柵が巡らされています。

アケはマヤ語で植物の蔓を意味するそうですが、マヤの貴族の姓だったとも考えられるようです。 下の帯は説明書きの 遺跡名の部分を拡大したもので、「魚をつかむ手」を表す文字がアケで発見されていて、これは 「雲、嵐、風を払い除ける」 と言う意味だそうですが、アケの紋章文字になるのでしょうか?

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 (Eidificio 3)

柵の中には建造物 3 がありますが、前回訪問以降修復されているようです。 柵の先に行けず、取り敢えず柵越しに写真 を撮りました。

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        (Eidificio 3 en 2003)

        2003年には柵はなく、建造物 3 の上まで行けました。 写真はその時のものです。

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        (Eidificio 2 y Edificio de las pilastras al fondo, foto en 2003)

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        (Lado poniente de Edificio 2, foto en 2003)

建造物 3 の上からは建造物 2 越しに列柱の建造物(建造物 1 )が見え(写真上)、建造物 2 の西側の状況も確認出来ました (写真下)。

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 (Entrada a la zona)

後でわかったのですが、アケには何と既にストリート・ビューが導入されていて、建造物 2 の西側から建造物 3 の横へ小道 が通じています。  実際には行きませんでしたが、ストリート・ビューで修復後の建造物 3 を確認できました。

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 (Entrada a la zona)

建造物 3 の前の柵からは東側に遺跡の入口が見えています。 入り口は地図で赤い星を付けた所です。

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 (Esquina noroeste de Edificio 2)

入口を入ったところから見える建造物 2 の北西角です。 修復が行われて前に来た時とは様変わりでした。

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 (Esquina noroeste de Edificio 2)

近寄ってみると西側面も全て修復されていて基部には芝生が広がり、ここから建造物 3 へ行けたのでした。   建造物 3 からみた修復前の西側面の写真が上の方にありますが、見違えるようです。

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 (Lado norte de Edificio 2)

これは北側面で 手前西寄りに円形の構造物があります。 古典期だと身を清める為のスティームバス、後古典期だと風の神を祀った 祭壇、かもしれませんが、特に説明は見当たらず不明です。

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 (Esquina noreste de Edificio 2)

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 (Lado oriente de Edificio 2)

同じ建造物 2 の北東角(写真上)と東面(写真下)で、他であまり見かけない独特な形状です。

アケの建造物は、イサマルと同様に大きな切り石を用いたメガリティコ(Megalitico)様式で作られ、後にプーク様式に特徴的な モザイク状の石組みで改築されたそうで、発掘修復の過程で両方の特徴が出ているように見えます。 下層の角の丸い基壇が 古い時代で、上層のパネルで装飾された基壇がプーク様式で改築された後の時代になるでしょうか。

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        (Edificio 2 antes de restauración, foto en 2003)

これは 2003年に同じ建造物 2 を南東方向から撮った写真です。 石組みは一部で大半は土砂で覆われた状態でしたが、 見事に石造建築に変身しました。

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 (Parte superior de Edificio 2)

でも修復されたのは側面だけ。 上部はと言うと殆ど構造物が失われていた為、一部石造物が残りますが単なる空地といった 感じです。

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        (Parte superior de Edificio 2)

建造物 2 の上部に残る一部の石造物。 上は水を貯めたチュルトゥンと思われる遺構、かまどと言う解釈もあるようですが。  下は部屋の壁の一部だったようです。

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 (Edificio de las pilastras y Edificio 13 en frente)

建造物 2 北東角から広場を見下ろすと、北東の方向に列柱の建造物 (建造物 1 )、東の方に建造物 13 があり、 3つの建造物に囲まれてグラン・プラサが広がります。 建造物 2 はこの辺にして列柱の建造物に移りましょう、以下 文中は建造物 1 と略します。

Edificio de las Pilastras  列柱の建造物 (建造物 1 )

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 (Edificio de las pilastras)

建造物 2 から見た建造物 1 の全景です。 基壇は底辺が 幅 102m、奥行きが 36m になり、8.5m の高さの基壇上部に 幅 67m、奥行き 14.2m の広さが確保され、横長の建物が支えられていました。 建物は 35本の柱に木とシュロで屋根を 付けたもので、現在はその柱だけ残ります。

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 (Edificio de las pilastras)

少し拡大しました。 建造物 1 は 80年代に修復されましたが、修復前は 6本の柱が崩壊し、2本が半壊、他も崩れる 寸前だったそうです。 また中央階段は、長さ 2m、厚さ 50cm もの巨石が敷き詰められた上に階段が作られていた事が 修復の過程で判明しているそうです。

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 (Edificio de las pilastras)

南西側から見上げた建造物 1 です。 柱だけ残った建造物は廃墟のイメージが強く、これぞ遺跡と言った感じです。

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 (Edificio de las pilastras)

シュロ葺きの屋根を持つマヤの建造物としては最大のものになり、太陽の光を受けて白く輝く様は見る者を圧倒します。  前に繁る木は 2003年に来た時はこんなにこんもりしていなかったのですが、切った方が…。

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 (Conjunto de las pilastras en la parte superior)

基壇に上がり、西端から東方向です。 近くで見ると結構大きな柱で、高さは 4,3m 位にもなります。  直径 1.2m 程度、高さ 50cm 弱のドラム状の石が積み上げられ、石と石の間は漆喰で接着されていたそうです。

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 (Cuarto superior)

基壇中央の階段を上がった所に部屋が設けられたようで、2部屋分の基部が残されます。 しかしこの部屋は柱を壊し、柱の 一部を材料として用いている事から、新しい時代のものと考えられるようです。

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 (Lado oriente de Edificio de las pilastras)

これは建造物 1 の東側面を見上げた所で、南東角に丸く傾斜した部分がありますが、これは古い時代のものが 露出しているもので、南西角も同様です。

建造物 1 では広大なグランプラサに集まった人々を前に大規模な祭礼が執り行われていたと考えられるようです。

Edificio 13 recién restaurado  修復なった建造物 13
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 (Edificio 13 vista desde Edificio 2)

次に建造物 2 からグランプラサを挟んで向かいに見える建造物 13 です。 でもこの建造物、前回来た時には ありませんでした。 係員に聞いた所、昨年発掘、修復されたとの事でした。 

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        (Edificio 13 antes de restauración, foto en 2003)

これは 2003年に建造物 1 から撮った建造物 13 の土塁です。 全くの瓦礫の山で石組みは断片すら見えませんが、ここが 上の写真のように修復されたのでした。

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 (Vista panorámica de parte frontal de Edificio 13)

手前に立木が並ぶので建物に近づき木を避けて写真を撮りました。 写真を 3枚合成するとこんな感じです。

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 (Escalinata central de Edificio 13)

あまり装飾性のない四層の基壇を持つ横長の建造物ですが、修復直後で説明が見当たらず、詳細は全くわかりません。

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 (Escalinata central de Edificio 13)

巨石を使用したメガリティコ様式ではなく、後のプーク様式でしょうか。 閉園時間が迫っているので先を急ぎます。

Gran Plaza y Estela  グラン・プラサと石碑
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グラン・プラサの南は殆ど未修復な為、空からの画像に遺跡の分布図を重ねてみました。 まだ未修復の建物が沢山 あります。 東へ延びる2本のサクベの他、建造物 1 から北へ延びる道と、建造物 7 から 19 に斜めに延びる道も サクベです。 また中央部を建造物 11 を通り円形に取り囲む線 (Muralla) は防塁です。

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 (Gran Plaza y Edificio de las pilastras)

アケのグラン・プラサは北を建造物 2、1、13、南を建造物 6、7、9 で 囲まれた、南北に長い広場で、広さは
2 万㎡になるそうです。 建造物 1 は幅がおよそ 100m ですから、南北は 200m 位になりそうです。 この写真は 2003年にグラン・プラサ南から建造物 1 を撮ったもので、写真左隅にまだ石碑が立っていました。

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        (Estela lisa en Gran Plaza en 2003)

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        (Estela dormida en 2014)

石碑はグラン・プラサの中央南寄りに建てられていましたが、今回下の写真のように風化が進んで根元から折れて お休みになっていました。 彫刻はなく、漆喰の上に着色され、何の情報も伝えない石碑ですが、このまま永久の眠り につくのでしょうか、それとも立て直し?

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 (Montículo de Edificio 6 dañada por el Huracán Isidro, foto en 2003)

冒頭にハリケーンの被害を受けて土塁の保全作業が進んでいたと書きましたが、これは 2003年の保全作業中の建造物 6 の土塁です。 作業員の姿が確認できるでしょうか。

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 (Montículo de Edificio 6 cubierto por la selva, foto en 2014)

それから 11年経った 2014年の建造物 6 の現状がこれ、禿山だった土塁がまたすっかり茂みに覆われていて、熱帯の植物の 成長の早さには驚かされます。 でも遺跡の係員の話によると 2月からこの建造物 6 の発掘・修復の作業に取り掛かる予定 だそうです。

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        (Montículo de Edificio 6 en conservación, foto en 2003)

再度 2003年の写真。 保全作業中とは言え、専門家が作業員に指示していたようです。 さてここからどんな建物が姿を 現すのでしょうか、楽しみです。

Muralla y Sacbé  防塁とサクベ
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 (Hacia Edificio 10)

グラン・プラサから更に南へ道が続いています。 写真中央に緑に覆われて土塁があります。

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 (Edificio 10)

これが緑の中の土塁で、見取り図によると建造物 10 になります。 一部石組みが露出していますが、全体がどんな 形をしていたのか想像するのは難しい状況です。

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        (Edificio 10 en 2003)

これはハリケーン後の 2003年の写真です。 保全作業が済んで倒木も整理された後のようでしたが、この時の作業は ここまででした。

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 (Hacia Edificio 11)

建造物 10 から東へ更に道が伸びていて、所々石組みが露出します。

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 (Hacia Edificio 11)

瓦礫を超えると先に茂みの下に石組みが見えてきました。 瓦礫の上が低層の基壇になっていて、広場の先が建造物 11 に なるようです。

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 (Montículo de Edificio 11)

建造物 11 の土塁は南北に広がりを見せ、防塁に沿って建られていたようです。 建造物 11 の北側から東に延びる サクベは 32Km 先のイサマルと結ばれており、古典期の早いうちはイサマルとアケが友好関係を保っていたと考えられますが、 後に防塁が築かれている事から敵対関係に移行した時代もあったようです。

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 (Manpostería en la parte superior)

建造物 11 はかなり崩れていますが、部分的に石組みが残っており、専門家の手にかかれば立派な建物に復元されるのかも しれません。 でもかなり将来の事になるでしょうか。

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 (Manpostería expuesta en 2003 y 2014)

上の写真の石組みの部分で、左が 2003年、右が 2014年の写真です。 今も昔も変わりませんが、ただ植物だけはどんどん 成長していきます。

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 (Resto de bóveda Maya en 2003 y 2014)

マヤのアーチ型天井の上部が露出していますが、これも前回と今回と同じように瓦礫に埋まったままでした。 修復された 姿を見てみたいものです。

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 (Manpostería en la parte superior)

建造物 11 の裏側は写真の通り瓦礫が広がり、周りは低木に囲まれ、一般の訪問者はここで行き止まり、もと来た道を 戻ります。 閉園時間が近づいており、係員が早く締めたそうで入口の所で待機していました。


Desfibradora de Henequen   エネケン繊維工場
折角なのでアケのエネケン繊維工場も少し触れておきましょう。

アケが最も繁栄したのは古典期ですが、その後も居住は続き、最終的に 1450年頃に無人になったようです。  植民地時代に入り、1712年に荘園が築かれて牧畜が行われ、エネケンの黄金時代には繊維工場も作られます。 荘園や工場の建設には当然マヤの建物が材料に使われて遺跡の破壊が進むのですが…。

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 (Edificio de Desfibradora dañado por el Huracán)

遺跡入口の直ぐ近くにエネケンの繊維工場の建物が残されます。 2002年のハリケーンで屋根は吹き飛ばされ、建物の東側 は写真にように崩壊し、現在は小さな建屋に移って小規模にエネケンの生産が続けられているようです。

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 (Foto de Desfibradora antes del Huracán, Miniguia de INAH)

INAH のミニガイドに往時の写真があったのでスキャンさせて貰いました。 1912年に造られた優雅なフランス風の建物 でしたが、向かって左側、窓4つ分が崩落したようです。

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 (Parte central de Desfibradora)

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 (El interior de Desfigradora ahora abandonada)

工場の内外にレールが這わされ、トロッコが忙しく動き回っていた往時の繁栄が偲ばれます。 マヤの労働者たちにとっては 過酷な労働を強いられた場所だったようですが。

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 (Las maquinarias)

イギリス製の大きな機械はペンキが塗られてメンテされているようですが、再使用の為と言うより、産業遺産の保護でしょうか。

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 (Las pencas de Henequen)

工場の一角には収穫してきたエネケンの葉が集められていました。 エネケンはテキーラの原料のアガベと同じリュウゼツランの 一種ですが、同じ仲間でも種類が 異なります。 工場ではこの葉から筋を抽出して繊維を取り出します。

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 (El interior de la fábrica actual)

これは現在使用されている別棟の工場で、日曜日で誰も居ませんでしたが、中にエネケンから取り出した繊維が 積み上げられていました。




アケでは発掘・修復の活動が毎年継続しているようで、現在は建造物 6 の修復に取り掛かっている筈です。 次回メリダ訪問 の折はまた是非足を伸ばしてみようと思います。




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